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縮小の時代

新三本の矢―問題は餅にあり

第三次安倍内閣の新三本の矢政策は、2020年までに「GDP600兆円(2014年490兆円)」「特殊出生率1.8(2014年1.42)」「介護離職なし(現在約10万人)」という数値目標を出している。これに対しては、各新聞からも疑問の声が多い。具体的手段が示されていない、目標が現状とあまりにも離れ過ぎている、支持率回復を狙ったスローガンに過ぎない、といった類である。

しかし、これらはいずれも、言って見れば「絵に描いた餅」という批判であって、「餅」を求めること、すなわち、経済成長を目指すこと、人口減少を抑えることには異論がないらしく、何の批判もない。介護離職(家族や親の介護を理由に離職)なしという目標は賛成だが、いまさら経済成長や人口維持を望むこと自体が問題である。

一体、GDPが600兆になることに何の意味があるのだろうか。日本は既に十分豊かである。十分というより、必要以上に豊かである。毎日のテレビや新聞は、新製品やグルメ、娯楽、芸能、スポーツなどの話題に溢れている。その多くは人間の品性や理知性とは関係なく、むしろそれを堕落させるような、無い方が良いくらいの物事である。GDPを増やすことは、ますます下らない製品やサービスを増やし、既に将来世代の生活さえ保障できないほど減少してしまった資源をますます浪費するだけだ。

GDPが増えれば貧困が減るというのも、全く事実に反する。近年、貧困率が増えて来たのはGDPが少な過ぎるためでも成長率が低過ぎるためでもなく、格差が広がったためである。規制を緩和して派遣労働や非正規の雇用を簡単にし、人間は使い捨てしやすい労働力商品にされて来た。GDPが増えても、増加分の多くは少数の経営者、株主、上級社員に集中するだけだ。

現在の経済学は、人間の欲望すなわち需要は無限であるという前提に立っている。不景気は需要不足が原因だから、公共事業によって需要を増やせば良いというケインズ流の考え方(新自由主義的な経済思想が主流になった現在でも生きている)も、需要は喚起すれば湧き上がることが前提である。(ただし、ケインズ自身も、当時までの識者たちも、人間の欲望は必要を満たせば十分で、無限とは考えていなかったようだ。人間の欲望は無限だと掻き立てているのは、現在の経済成長至上主義思想なのである。)

現在は、技術革新こそイノベーションであり、経済成長の原動力という考え方が浸透し、企業は人心を引き付ける新技術、新製品の開発に躍起である。政府もそれに期待をかけ、多大な援助を惜しまないどころか、大学には人文社会系を縮小して付加価値の高い科学技術系に力を入れさせようとまでしている。

中でも注目を集めているのはロボットのようである。家事や介護の代行、動物並みの愛玩用、その他様々な方面でロボットが導入されれば、自動車のような経済効果があると期待されている。一流大学でさえ、率先して科学技術研究に力を入れているが、これも経済成長のために不要な需要を無理やり掘り起こすために過ぎず、学問の本分である人間性の向上からも、理想とすべき社会像を求めることからも、離れるばかりである。

効用にも逓減の法則があって、物が多くなればなるほど、更に増えたことによる効用は減少する。現在の世の中は既に便利な製品が満ち溢れており、これ以上何か新製品が現れても、高いカネを出して買っただけの幸福感は得られない。マスコミは、新技術製品の開発を持ち上げ、如何にも素晴らしいことのように報道するが、実際には、それに踊らされる人はあまり多くはないだろう。例えば、家庭用ロボットが入れば家庭が楽しくなるとも便利になるとも思えないし、ロボットによる介護など老人も病人も喜ばないだろう。今後は、自動車、冷蔵庫、洗濯機、テレビなどが入った時のように、本当に便利で豊かになったという実感を感じさせる新製品はもはや現れないだろう。それは悲観論ではなく、その方が良いのだ。

人口減少の抑制も、結局は、人口減少は経済を縮小させるからという理由に過ぎない。日本の国土は世界でも稀なほど自然の資源に恵まれていると思うが[*]、それでも、人口1億2000万は多過ぎる。食糧や日常生活に必要な最小限の道具を作るための材料やエネルギーは、現在はほとんどを外国からの輸入に頼っているが、先進国の何倍もの人口を持つ途上国が急激に成長を続けている。更に、輸送が全面的に依存している石油は、今後急速に不足して来る。これらのことから、資源や製品の価格も輸送費も、近い将来の高騰は目に見えており、輸入依存の体制が何時までも続けられる可能性はほとんどない。食糧も生活必需品も、輸入依存率をなるべく下げる必要があることを考えれば、人口は現在の半分から3分の1まで減らす必要がある。
[*]我々は、日本は可耕地面積が小さく、資源に恵まれない国だと小学校時代から教えられて来た。しかし、少ないのは石油や金属類の資源であって、これらは、歴史的にはほんの短い化石燃料時代、それに依存する技術時代が過ぎれば、あまり重要ではなくなる。最終的には豊かな森と海にきれいな淡水、および変化に富み比較的温暖な気候、これこそが、将来半永久的に人間社会を支える最も重要な自然資源なのである。

人口は人為的には減らせない。自然減少は絶好の機会である。これも、度を超えて繁栄し過ぎた人間を減らして正常な地球に戻すための、神(自然)のなせる業かも知れない。人口減少の過程では、労働人口の割合が低くなるのはやむを得ないが、高齢者の健康増進と労働環境の整備、所得の再分配といった方法で解決すべきである。出生率増加による解決は、結局は将来の世代にとって、より深刻で悲惨な結果となるだけだ。

結局、経済成長はもはや利より害の方が多く、善でなく悪になっている。貧困を減らすためという経済成長の掛け声は、減少しつつある貴重な資源による富を、ますます一部の富者に集中させるためのごまかしに過ぎない。絵に描いた餅か手の届く餅かの議論より、食べたい餅なのか、必要な餅なのかという議論をもっと起こすべきである。

経済は人間が生きる目的ではなく手段に過ぎない。しかるに、本来は人類や国民の将来を第一に考えるべき政治家が、現在は目先の経済利益、それも真の利益とはほど遠い、虚構の富に過ぎないただの金銭的利益のことしか考えない、私欲優先の俗物ばかりになっている。利己主義が出発点だから、人間や社会はどうあるべきかを考えることなど、全く意識に無いのである。第三次安倍内閣の顔ぶれも、そういう理念や知識教養のありそうな人物は一人も見えない。こんな人物が国政を担えば、日本はますます悪くなるばかりだ。唯一つ希望があるとすれば、この酷い馬鹿馬鹿しさが、人々がそこから目覚める日が来るのを早めることである。■
2015年10月11日
  1. 2015/10/11(日) 12:50:20|
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戦後最悪の戦争法案 ここまで落ちた日本の政治

民衆の反対運動が近年になく盛り上がったにもかかわらず、安全保障関連法案がついに強行採決された。

法案の内容を簡単にまとめると、
侵略からの防御でなくても武力行使ができる:今までの自衛隊法にあった「直接侵略、間接侵略からの防衛」が削除された。
必要と判断すれば武器の使用が可能であり、必要かどうかの判断は国会の事後承認でよい
つまり、軍隊が勝手に武力行使することができる。いったん武力行使すれば、たとえ事後承認で否定されても遅い。
米軍のため武力行使:米軍(日米安保条約の目的米軍以外も)の人や武器を守るための武力行使と条文に書かれている。
・上官命令には絶対服従:いかに無謀な武力行使でも、反抗や不服従は処罰される。

まことにひどい内容だ。実態は憲法が禁止している武力行使を可能にするための法案だから、危険極まりない。どちらかと言えば自民党寄りの憲法学者でさえ憲法違反だと言っているのは当然である。最も法を守らなければならない政府が先に立って法を破った。

武力で安全保障はできない。安全保障のための武力行使は論理の矛盾で、却って戦争の危険を増す。武力があるからこそ、相手に武力攻撃の口実を与える。現代では、武力を使わないとハッキリ宣言している国に突然武力攻撃して来ることは、たとえ中国や北朝鮮でもあり得ない。もし、「武力がなければ他国に攻められる」のが真理だとしたら、世界は最強国一国だけの支配になり、弱小固化は存在できない。しかし、現在はほとんど武力のない多数の国家が平和に暮らしている。

こちらが武力行使をちらつかせることは、相手に攻撃の口実を与えるだけだ。護身のためという名目で誰でも銃を持てるアメリカは先進国では最も危険な国になっている。どんな場合でも平和を第一に掲げ、武力とは縁の遠い国になることが、結局は世界中の尊敬と信頼を集め、外国との摩擦をなくし、確実な安全保障になる。テレビドラマでもよくあるだろう。相手が武器で襲いかかって来そうな時に、こちらが丸腰になって見せることで、相手の暴力を防ぎ、何か信頼感が生まれる。

外国からの脅威を誇張するのも、軍国主義の常套手段である。尖閣諸島に中国が武力を背景に強硬進出しているからといって、日本が武力で対抗してどうなるのか。こちらの武力を以て相手の武力行使を止めさせるのは不可能で、こちらまで武力をちらつかせれば、相手はますます武力による威嚇を強める。仮に武力衝突が起ったら、勝敗に関係なく、小さな無人島のために人命や本土にも必ず大きな被害が及ぶ。相手に武力を引っ込めさせるには、自らの武力を完全に否定することが最も効果的だろう。それでも相手が武力に頼ろうとすれば、相手国は世界の信頼を失い、それが経済的な立場も苦しくし、結局は相手国の政権の安定性を損なうことになる。

米軍を護るための武力行使と条文に書いてあるのにも、あきれてものが言えない。全くの植民地、米国の属国となり果てた。戦後70年の仕上げは、平和主義を完全に捨て、米国の属国であることを明文化することだった。しかも、日本に対する直接間接の侵略行為でなくても、米軍の軍事行動に強力することができるのである。世界のどこに、こんな法律を持った独立国があるのだろうか。世界の笑いものである。一国の国民として、これほど恥ずかしいことはない。武力を支持する自称愛国者達は、これをどう捉えているのだろうか。

安倍政権になって、次から次への悪政が出て来る。安倍自民党によるほとんどすべての法律が、平和、公平、人権、平等といった理念から遠ざかるものばかりで、日本の国が今後ますます混乱に陥るのは必至である。

将来の歴史書には、現在の安倍政権は戦後最悪の政権と書かれるだろう。こんな人物が無投票でまた党首に再選された。腐っているのは自民党である。腐った自民党を第一党にした選挙民の民度の低さである。

野党もまた似たようなものだ。ここへ来て民主党が法案反対の運動に力を入れているが、それは本当に平和や正義や公平や自由のためではなく、ただ政権に対する反対、あわよくば政権を取りたいがための方便のようにしか見えない。そうでなければ、数年前、政権の座にあった時に、自民党と同じ穴のムジナでなく、もっと良い政策をしていた筈だ。原発事故の際に、直ちに健康に影響はない、などというごまかしを繰り返したりしなかったはずだ。

不思議なことに、世の中が乱れて末期症状が現れるころには、天変地異がよく起る。今年になってからも洪水、火山の噴火、地震と次々と天災が襲っている。異常な犯罪や職業倫理に欠けた不祥事も増えているようだ。生活は苦しく、雇用は切り捨て御免の不安定で、将来への希望が薄れ、国民はますます無責任になっている。今の日本は、戦争ごっこやオリンピックや万博や都構想などに気を取られている時ではなく、政治家にはもっと重要な課題が山積みしているのである。

悪法は成立しても反対し続けるしかない。安倍政権も長続きしないだろうから、政権が変ったらもう一度平和憲法遵守に戻すことだ。野党にはそうして欲しいし、選挙民にはそういう候補者に投票して欲しいものだ。■
2015年9月19日
  1. 2015/09/19(土) 12:24:40|
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核兵器の廃絶は軍備の廃絶、軍備の廃絶は戦争の原因をなくすこと

6日に広島、9日に長崎で、それぞれ平和の式典が行われた。毎年、夏になると核兵器廃絶と平和への願いが改めて報道されるのは良い事だが、今の若者は原爆の日がいつかを知らない人が多いそうだ。戦後の強烈な反核と平和への思いも、年々廃れて行き、年中行事も「核兵器廃絶」と「平和」への願いを訴える以上には進展しない。これではただの形式だけで、本当の平和は来ない。日本も戦争しない国から戦争しやすい国に後戻りしそうだ。

戦争反対、軍備反対を同時に訴えるのでなければ、核兵器廃絶だけを訴えても核兵器はなくならないし平和も来ない。戦争はいいが核兵器の使用はダメだというのは、刀で切り殺すのは良いが鉄砲で撃ち殺すのは悪いというのと大差ない。もちろん、核兵器は多くの一般市民まで犠牲にし、あとあとまで放射能の影響が残る点で鉄砲とは大違いだが、鉄砲でも罪のない人が流れ弾に当って死ぬ。どういう方法だろうと、罪のない市民が殺されるのは絶対に許されないことだ。

戦争反対、軍備反対も、それを訴えるだけでは「核兵器廃絶と平和」だけを訴えるのと大して変らない。同時に戦争の原因をなくすことを訴え、自らもその原因をなくすような行動をしなければならない。

戦争の原因は資源の奪い合いである。太平洋戦争も日中戦争もそうだった。アメリカが中東で武力を使うのも、それを日本の政府が軍事援助したがっているのも、尖閣列島問題も、みなそうだ。宗教戦争も結局は資源の奪い合いから来ている。

資源の奪い合いは、経済のためである。現在は、経済が発展すれば、人々が豊かになり、幸せになるという思想が主流であり、経済を発展させる原動力は利己主義に基づく実力主義、競争主義が一番良いとされている。地球の資源は限られており、しかも、いままで豊富だった埋蔵資源も豊富ではなくなって来た。資源の減少の中での経済競争は、必然的に奪い合いになり、それが戦争になる。

本当に戦争をなくし、平和を願うのだったら、戦争の原因となる暮らし方を変えなければならない。飽くなき経済成長を求め、他国と資源を争うことをやめ、自分達に許された自然環境の範囲で持続可能な社会をめざすべきである。競争主義や実力主義でなく、分け合いの精神を基本にすべきである。そこまでしないでただ「平和」を訴えても、決して戦争はなくならないし、核兵器もなくならない。

人間は愚かなものだ。人間は善なる本性もあるが、私欲という本性も持ち、ともすればそれが優位に立つことがある。だからこそ、その愚かさや私欲の本性を知り、それを克服する努力が必要なのである。■
2015年8月9日


  1. 2015/08/09(日) 20:09:17|
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荀子の性悪説は利己主義の正当化ではない

社会の縮小化は好むか好まざるかに関係なく今後の必然だが、天然資源を使い放題に使った豊かな生活水準に慣れ切った現在の人々が、そのまま物質が減少した時代を迎えると、奪い合いや弱肉強食によって格差が広がり、多くの人々の人権や自由を損なう可能性が大きい。したがって、公正で平和な社会を保つためには分け合いしかない。この分け合いには、他人の利益を自分の利益と同等に配慮する必要があり、少しでも自分の利益を優先させれば奪い合いになる。奪い合いは、暴力的でなくても、自己利益優先である限り、一方の満足は他方の不満足によってしか得られず、結局はすべての人が幸福になることはできない。勿論、個人の努力差もあるから完全に平等な分配でなくても良いが、その差は社会的に公正な範囲、言い換えれば、少なくとも、誰にも不公平感が残らず、社会的合意として納得できる範囲に抑える必要がある。どの程度なら社会的に公正と言えるかはその社会の人々の考え方次第だが、現在の格差は、明らかに社会的公正の範囲を超えている。

分け合いと言っても、人の善意だけに依存するわけではない。大部分の人が殺人や窃盗などの犯罪行為などしたくないと思っても、その気持ちだけに頼ることは出来ず、強力な法律が必要であるように、分け合いにも、富が個人に集中しないような強力な法制が必要である。

しかし、現在の経済社会は、「他人の事など考えなくても、常に自分自身の利益だけを最大化することに全力を注げば、資源が最も合理的に配分され、すべての人が豊かになれる」という思想に基づいた奪い合いの社会で、それに疑問を持つ人はあまり多くないようだ。それを支えているのが性悪説である。縮小社会の論議の中でも、「人間の本性は悪だから縮小社会の実現は難しい」という意見がしばしば出て来る。

性善説か性悪説かは、洋の東西を問わず古くから論争の的だった。形の上とはいえ民主主義が行き渡った現代でも、性悪説の支持者が比較的多いように思われる。これは、社会で繰り返し繰り返しそう教えられていることにもよる。例えば、「企業は慈善事業ではない」、「正義や道徳を言うのは青臭い、それでは世の中は渡れない」などである。テレビドラマなどでも、そんなセリフが頻繁に出て来る。性悪説を支持する人達は、「人間の本性は悪だから利己主義に基づいて行動するのは当前だ」、更には「利己主義的に行動することが社会進歩の原動力になっている」と考えているようだ。

性悪説が支持されるのは、できるだけ政府の規制を排除して自由な市場競争を求める資本主義に適っている事にもよるが、性善説に比べて何か合理的な感じを与えることにもよるだろう。人間の行動を「自己利益最大化のための最も合理的な行動」と定義すれば、主観の余地が減少して理論化しやすいし、数理的な考察も可能になる。これを公理とすることにより、現在の経済学が科学に近づいたとされているらしい。

しかし、実際の人間の行動は主観に大きく左右されている。人間の本性は善か悪かという二分論にはならず、善と悪の本性を併せ持ち、どちらが優勢になるかは与えられた環境条件によるのである(本ブログ 2013年7月3日「性善説か性悪説か」) 。数理的な分析のために人間の行動原理から「心」を取り去った経済学も、その経済学に基づく社会も、結局は人間から離れ、人間には却って有害な結果を多く招いた。

性悪説を唱えた最も有名な人は、東洋では荀子(荀況)で、現在の性悪説支持者も荀子が一つの拠り所だろう。荀子は性善説を唱えた孟子を激しく非難している。しかし、荀子は孟子と同じく、礼や義を重んじる儒者である。荀子は何のために性悪説を説いたのだろうか。

荀子がいう本性とは、何も考えずに行う自然な行動の本を指す。例えば腹が減ったら食べる、物を欲しがる、他人を羨んだり妬んだりする、目や耳に快い物を見たり聞いたりしたがるどは、何も考えない時にも出て来る自然の行為で、それを行わせるのが本性である。それに対して、人に物を分け与えたり、譲ったり、目障り耳障りでも大切と思うことに注意を傾けたりすることは、全て何らかの配慮という作為が働いている。これが、荀子「性悪篇」の冒頭にある「人之性悪、其善者偽也(人の性は悪にして、その善なるは偽なり)」の意味である。ここに「偽」とはニセモノの意味ではなく、何かの配慮に基づいて行う行為や後天的に獲得したわざを指す(荀子「正名篇」)。

しかし、荀子が人の本性は悪だと言ったのは、現在の性悪説支持者のように「利己主義的に動くのは当然だ、むしろそれが進歩の原因だ」と言って利己主義を正当化するためではない。荀子に言わせれば、そんな人間は小人であり、悪人であり、主君がそれでは亡国しかない。人間が何も考えずこの本性に従って行動すれば、皆自分勝手になり、世の中は乱れ、多くの人々が苦しむ。したがって、人は本性の悪を克服することが何より必要である。「荀子」の中で、人の本性は悪だと書いてあるのは一か所だけで、全20巻32篇の大部分は礼や義の大切さ、それを一生涯かけて学び続ける事の必要性を説いているのである。

荀子の言う本性は、荀子独特の定義かも知れない。だが、少し拡張して、親が子のために自分を犠牲にして厭わないのも、共同生活の中で他人の事を考えるのも作為のない自然な配慮だと考えれば、それも本性のなせる業と言える。そもそも、悪い本性は克服すべきだと考えるのは、人間の自然な要求が悪より善を求めるから、悪を見るより善を見る方が快いから、悪を為すより善をなす方が嬉しいからである。本性をそのように捉えれば、荀子の性悪説は性善説と本質的な違いはない。

荀子は占いを信ぜず、自然の世界をあるがままに捉え、人間の精神や肉体は自然の作用で造られていると言い(天論篇)、また、社会の身分的秩序を重視しながらも、聖人と小人の違いは正道を身に着けたどうかであって素質は皆同じだと述べている(性悪篇)。このように、荀子は現在から見ても科学的、唯物論的、合理的、民主的なところがあって、学ぶべきところは多い。ところが、現代の性悪説支持者には、社会の平和と安定を思い、仁智礼義を身に着けた人間たらんとする荀子の理想は一かけらもなく、ただ自己の物欲主義を正当化するために字面だけの性悪説を利用している。

同じことはアダムスミスについても言える。アダムスミスも自己利益最大化のための合理的な行為に基づく市場競争が豊かさの原動力だと書いたが、だからといって利己主義を礼賛しているわけではない。「見えざる手」という言葉も一か所しか出てこない。大部の「道徳感情論」で理性と道徳の重要さを書いている他、「国富論」にも正義の法を犯さないこと、社会の成員を不正と抑圧から守ることの必要性が書かれている(例えば第4編第9章)。ところが現在は、正義や道徳といったアダムスミスの真意をそっちのけにして、市場原理の見えざる手が、利己主義の正当化だけに利用されている。

歴史上、性悪説を主張した人でも、だから利己主義の優先は正当で当然だと言った人はいただろうか。ほとんどは、荀子と同じように、悪い本性のまま動くのではなく、それ乗り越えて他人を配慮し、理性的に行動することの大切さを述べたのではないだろうか。例えば、人間は闘争状態にあるのが自然と見なしていたホッブスの社会契約も、無用な闘争を抑え、平和的な秩序を保つことが目的であったことは明らかである。

縮小社会では、自分の望みと同等に他人の望みも配慮することが現在以上に必要になる。これは人間の本性に逆らう不可能なことではなく、人間の本性の一部であり、古今東西の哲学者や聖人偉人達が、絶えずその重要性を説き続けて来たことなのである。そして、長い歴史を見れば、紆余曲折はありながらも、人類は少しずつその方向に近づいていると言えないだろうか。■
2015年5月20日


  1. 2015/05/20(水) 16:25:52|
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利己主義の社会は成り立たない

「縮小社会」という言葉に関心を持つ人が少しずつ増えているのは喜ばしい。縮小社会の定義は必ずしも決まっているわけではないが、詳しく知りたい読者は参考資料[1][2]を参照されたい。
[1]石田“縮小社会とは何か:その1 最小限の必要条件” http://shitou23.blog.fc2.com/blog-entry-167.html
[2]石田“縮小社会とは何か:その2:縮小社会はどんな社会か”
http://shitou23.blog.fc2.com/blog-entry-169.html

縮小社会は人間の良心に基づいた社会である。現代の社会は自分の事しか考えない利己主義を基本としているのに対し、縮小社会は他慮(他人に対する配慮)を重視する社会である。他慮とは、自分より他人を優先することではない。自分への配慮と同等に他人の配慮もする、という意味である[3]。
[3]石田“縮小社会と倫理”縮小社会研究会、論説 http://shukusho.org/

しかし、「人間は本来利己主義だ。性善説に基づいた縮小社会は単なる理想に過ぎず、実現困難はないか」という人も非常に多い。縮小社会に関心を持つ人達の中にさえ、そんな人が少なからずいる。確かに、人間に利己主義や性悪の部分があることは否定できないが、同時に、人間には性善の部分も良心も理性もある。善の性と悪の性のどちらが優勢になるかは、その時の事情や環境に左右されるのである[4]。しかし、どんな環境でも、利己主義のみで生きる人はむしろ少なく、利己主義が横行すればするほど、良心的な社会を渇望する人も増える。
[4]石田“性善説か性悪説か”http://shitou23.blog.fc2.com/blog-entry-149.html

現在の世の中は良心だけで生きるのは難しい。だが、そうさせているのは、人間が本来利己主義の固まりだからではない。現在の社会が人々をそのように思わせ、良心を捨てて利己主義に駆り立てようとしているだけである。現在の主流経済学は「人間は自己の利益の最大化のために最も合理的な行動をとろうとする」という利己主義を前提として組み立てられており、政治の最大の目的が、その経済学に基づいて経済の最大化、すなわちGDPの最大化を図ることに集中している。現在の社会は、良心を捨てて自分の事さえ考えればよいと、人々に迫っている。

実際、現在の安倍内閣に、国民一人一人に対する思いやりも良心もまったく感じられない。彼らは、金のある者が金の力を利用してますます豊かになるための方法以外には何も考えていない。苦しい立場に立つ人は、すべて自己責任にされる。そんな安倍内閣でも多くの選挙民が支持しているのは、利己主義教育がそれだけ徹底し、国民の心に浸透ているからだろう。一人一人が利己主義的に行動すれば見えざる手に導かれて最も効率よく社会の富が生産できると言ったのはアダムスミスだが、そのアダムスミスは、だから利己主義で動くべきだとも、人間は必ず利己主義的に動くはずだとも言っていない。むしろ、利己主義は富の生産には効率的でも、道徳に背くことが多いから、常に理性による抑制が必要と言っている。人間は利己主義で動くというのは、現在の経済学の単なる仮定に過ぎないが、いつの間にか、それが普遍的な真実と見なされるようになってしまった。

しかし、良心のないところに社会はない。社会が社会として機能するのは、「他慮」「良心」「正義」といった道徳観があるからである。もしすべての人間が完全な利己主義者であり、他人のことは全く配慮せず、すべて自分の物欲を少しでも多く満足させることしか考えず、そのような行動しかとらないとしたら、どんな社会になるだろうか。おそらく、人々は絶えず他人を疑い、奪い合いと喧嘩に明け暮れ、一時も安心できない。社会など無きに等しい。いかなる封建社会でも、暴君の独裁社会でも、少しの間でも人々が何とか暮して行けたのは、良心があったからこそである。過酷な政治をしのげるのは、人々が身を寄せ合うことでしかない。身を寄せ合うとは他人と心を通じ、信頼することで、良心に基づいている。それでもあまりに過酷なら、支配体制の転覆しかなかった。

現在の社会は利己主義を本位としているが、それでも、人間に良心がなければ一日たりとも平和な日はない。人は完全な利己主義者にはなれない。人の性は悪なりと強弁している人でさえ、良心を全く持たない人はいないし、自分は善なる性は何も持っていないとは決して言わないだろう。殺人、窃盗、詐欺などを悪い事として法律で禁じているのも、それが良心に反する行為だからである。法律で何を禁じ、何を許すかの判断は、良心に基づいている。人間に良心がなければ法律も存在せず、自分の身は自分で守るしかない。法律は大多数の人が良心的に行動することを前提としている。人が法律を守るのは良心があるからである。もしすべての人間に良心の一かけらもなかったら、誰もが、あらゆる機会をとらえて法律を破ろうとするだろう。警察に捕まりさえしなければ何をしていもよいから、人が見ていないところでは殺人も窃盗もする。誰もが同じ気持ちでいるから、自分だけその気持ちを抑制しようとは思わないし、誰かに告発される心配も少ない。犯罪を防ぐためには、すべての人間の行動を一日中誰かが監視していなければならないが、そんなことは不可能である。団体で防ごうとしても、団体の中では信頼という良心が必要である。

結局、いかに法律があっても、法律を守り、犯罪的行為を抑制しているのは人間の良心である。人に良心がなければ法律は何の役にも立たない。「人間の本性は利己主義だから性善説では社会は成り立たず、利己主義を前提とした社会の仕組みが必要だ」という人達も、他人に騙されないか、泥棒や強盗やひったくりに合わないかと常に心配し、身構えているわけではなく、何の心配もなさそうに平和に毎日を暮している。それは結局、人は自分の利益のために他人に被害を与えたりはしないものだという善意や良心を信じているからに他ならない。そして実際、人々のその良心のお蔭で、今日も一日平和に暮らせたのである。

したがって、社会を実際に成り立たせているのは人の善なる性、良心であって、悪なる性、利己主義ではない。存在が難しいのは性善説に基づいた社会でなく性悪説に基づいた社会の方である。縮小社会は人の良心を大切にする社会で、良心的に生きようとする人達が十分にその良心を発揮できるような社会である。もちろん、良心的行為だけにすべてを頼るのでなく、犯罪や他人の生きる権利を損なう行為を禁じる法律がある。人の良心に頼る社会の実現は難しい、などという説は、現実とも人間社会が辿った歴史とも矛盾しているのである。■
2014年11月26日


  1. 2014/11/26(水) 14:26:35|
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