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縮小の時代

平和ボケでいられる幸せ

安倍政権は早速防衛費の増額を打ち出した。防衛費の増額は11年ぶりで、2012年度の4兆6453億円から約2.6%、約1200億円の増額を自民党国防部会が決めたそうだ。

防衛費は典型的な消費であり、消費の増加という経済成長策の一翼にはなるだろうが、単に消費増加のためなら、もっと庶民の生活に結びついたよい方法が他にいくらでもある。防衛費の増加は、やはり、日の丸軍事力の増強という安倍政権の右翼的体質の現れだろう。

憲法変更、軍事力増強の声は戦後68年を通じて常にあった。だが、世界が軍事的な緊張の下にあった東西冷戦の時代より、現在の方が却ってその機運が高まっている。これには最近の領土問題、特に軍事力をちらつかせながら強硬な態度に出ている中国の影響が大きいように思える。民社党の体たらくも、掛け声だけが勇ましい右翼的な人達に国民の目を向けさせる役目をした。

しかし、何よりも大きいのは、延々と続いている軍事力志向の世論形成である。尖閣諸島や領土問題を巡る中国の軍事的な動きや、北朝鮮の軍国主義的状況がことさら強調して報道され、国民の危機感を煽っている。そして、何かにつけて強調されるのが「危機意識」である。災害や事故の危険に対する危機意識なら悪くないが、戦争の危機意識を指すことも多い。日本人は危機意識が足りない、日本人は「平和ボケ」している、というのである。「軍事力増強」と直接言われると躊躇する人々も、危機意識が足りない、平和ボケしている、と言われると、何か、それではいけないという気持ちにさせられる。そうして、徐々に武力主義に改造されていくのである。

だが、平和ボケはいけないことだろうか。むしろ、その逆である。平和ボケでいられることは人間の幸福にとって最も大切だ。常に戦争の危険と軍備の緊張下にある社会では、仮に戦闘は休止中でも、とても幸福感など味わえない。平和ボケはダメだと言って軍事増強を煽るよりは、どうしたら平和ボケが続けられるのか、戦争の原因を取り除くためにはどうするかを論じる方が遥かに肝心で、政治家としても立派だが、日の丸や再軍備を勇ましく語る人に限って、そのような視点は皆無である。

軍事力増強を主張する人は、軍事力がなければ国は支えられないのが現実の世界だという。いかにも現実論者の風をしている。しかし、もしそれが正しいなら、世界にはなぜ軍事的に弱い国が多数存在しているのだろうか。もし、軍事力がなければ外国に攻められ、占領されてしまうというのなら、弱国はとっくに消えている筈だ。世界は常に強国による弱国の併呑が繰り返され、最終的に最後の最後一国が残るまで、つまり、紀元前の中国に例えれば、秦の始皇帝が最終的に全国を統一するまでそれが続くだろう。

だが、現在は戦国時代ではないし、大国が常に小国の併呑をうかがっているわけではない。それは、ただ道徳観念の平等主義によって併呑したい気持ちを抑えているからではなく、小国を併呑したところで、大国の人々がより幸福になるわけでないことがわかっているからである。かつての植民地時代の宗主国の人々も、今再び植民地支配を回復しようとは、仮にそれが軍事的に可能だとしても、願ってはいないだろう。植民地支配はむしろ面倒なことが多いし、宗主国内部の民主的繁栄と安定にとっても、却って障害になるだろう。

軍事力増強より、戦争の危険を取り除くことに力を入れるべきである。戦争の最大の原因が資源争いであり、資源争いは経済拡大主義、物欲至上主義から来る。経済拡大主義、物欲至上主義は、戦争の原因になるだけでなく、決して満たされない物欲をますます増大させ、人間の精神を貧しくする。

平和ボケ、危機意識の不足といった言葉に踊らされてはいけない。平和ボケでいられる日本、これこそ世界に誇る日本であり、世界の模範になり得る日本なのである。
2013年1月11日

  1. 2013/01/11(金) 15:17:46|
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一票の格差:定数是正より選挙区制の問題

毎回の選挙のたびに一票の格差が問題にされる。2009年の総選挙の一票の格差(最大2.30)は違憲状態にあると最高裁判所の判断(2011年3月)があったにもかかわらず、何の修正もされずに行われた今回の選挙(一票の格差最大2.43)は無効であると提訴されているが、裁判所がどんな判断をするか興味深い。

しかし、ある程度の一票の格差は必要である。なぜなら、もし格差が全くないように議員定数を配分すれば、大都市圏からの議員が圧倒的多数を占め、国政はますます過疎地域に厳しく、大都市圏に有利な方に傾く可能性があるからだ。それは人口を一層大都市に集中させ、産業の工業化や大企業化を進め、結局は日本の国土も文化も疲弊させることになる。現在の1人別枠方式(各都道府県にまず1議席を配分)は、それを考慮したものだが、最高裁判決は1人別枠方式は速やかに廃止すべきだとしている。

だが、一票の格差がどのくらいなら適正かを具体的な数値で表すことは不可能であり、最高裁判決でもどれだけ以下なら合憲になるという数値が示されているわけではない。言い換えれば、最高裁の違憲判断も理論的な根拠があるわけではなく、極めて主観的に過ぎないのである。

もし、各選挙区への配分を人口基準でなく、面積基準にしたらどうだろう。人口何人に国会議員1人ではなく、面積何平方キロメートル当たり一人とするのである。国土の保全は国政の重要な役割である。人間は移動できるが国土は移動できない。したがって、国土の保全を通じて、日本の自然環境に最も適した人口や産業の配分を促すことになる。そう考えると、面積基準の定数配分にもそれなりの合理的な根拠がある。人口基準の一票の格差は今より更に大きくなるが、それが違憲だということにはならないだろう。(注意:現在の一票の格差が違憲かどうかは考え方次第という意味で、面積基準にすべきだと言っているわけではない。)

さて、今回は各政党の得票率と当選者比率との差が目立った選挙でもあった。小選挙区の自民党と民主党を比べて見よう:
自民党 得票数2564万 得票率43.0% 当選者数237(議席総数の79.0%)
民主党 得票数1360万 得票率22.8% 当選者集 27(議席総数の 9.0%)
得票数を当選者数で割ると、自民党は10.8万票/人、民主党は50.4万票/人となる。自民党は10.8万票で一人当選できたのに、民主党はその5倍の50.4万票でやっと1人しか当選できなかった。これもまた一票の大きな格差である。勿論、当選総数が限られているから、得票率と議席率が一致しないのは当然だが、それにしても、今回の格差は大き過ぎる。議員定数配分の一票の格差より、こちらの格差の方がより不合理だと言えないだろうか。

言うまでもなく、この不合理は選挙区制にある。選挙区の定数が少なければ少ないほど、政党の得票率と議席率との乖離が大きくなる。小選挙区制では必ずある政党にとっては有利、ある政党にとっては不利に働く(いつも決まった政党が有利になるとは限らないが)。次の選挙までには、定数の一票の格差だけでなく、小選挙区制による一票の格差も同時に問題にしなければ片手落ちになる。選挙区はできるだけ大きくすべきだろう。

選挙区が大きくなると、選挙運動も大変だろう。どの政党にも属さない新人にとっては特に難しい。莫大の費用もかかる、そのため、何かで有名人にならないと選挙に出られないという、タレント選挙になってしまう恐れもある。このような問題もあるが、できるだけ大きな選挙区にし、しかも公平な選挙運動になるような工夫をする必要がある。
2012年12月18日


  1. 2012/12/18(火) 14:52:18|
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自民党の支持は続かない

総選挙で自民党が圧倒的に大勝した。この混乱の時期、大きな方向転換を迫られている時期に、原発推進、憲法改悪国防軍化、経済成長路線という、時代遅れで亡霊のような政策を掲げた自民がこれほど大勝したことで、日本の未来はますます暗くなりそうだ。どこまで暗くなれば能天気な日本の有権者は目を覚ますのだろうか。いつまでも目を覚まさないまま戦前のような淵に落ち込んでゆくのか。

しかし、大勝もつかの間、この自民も1、2年の内には恐らく再び行き詰まって支持率が激減するだろうと思う。その理由は、自民党では日本が直面している問題を一つも解決できないからである。今回の自民大勝の大きな理由は民主党の体たらくにあると自民党の幹部自身が語っているように、自民もまたその体たらくを数年と経たないうちに暴露することになるだろう。

憲法改悪は非常に危険な状況になった。しかし、国中を巻き込む大論争は必至である。国防軍化は経済にとっては悪影響だけで大した利益もないから、経済界からも反対の声が上がるだろう。憲法変更には両院で2/3以上の賛成を得た後、国民投票で過半数の賛成が必要など、一定の手続きと期間を要する。また、山積みしている他のより緊急の課題にも迫られるし、そうこうしているうちに自民が再び没落して憲法改悪は遠ざかる可能性も大きい。今は、この楽観的見通しに望みをかけよう。

経済は名目3%以上の経済成長を目標として金融緩和、防災などのへの公共投資を行うと言っているが、いずれも効果は見込めない。製品開発や設備に大きな投資をして供給力を上げても需要が伸びる可能性がないから、今でも企業には既に資金が余っている。これ以上金融緩和しても投資が増えて経済が上向く可能性はない。仮に数字の上で経済成長しても、バブル的で実質がなく、長続きはしない。

防災などの公共投資は重要だが、潤うのは土建産業で、一般的な消費拡大(乗数効果)は大きくないだろう。将来の不安が大きくなっている現在、人々は無駄な消費を抑えるし、それでなくても、これ以上必要だと思う物は少なくなっている。また、輸入品への依存が大きな現在、消費が多少増えても国内産業への恩恵は小さい。貿易立国は外需依存という不安定を増し、日本経済を増々脆弱化するだけである。結局、経済は何一つ改善されず、国民の不満はますます増加する。経済成長を復活させることが経済の立て直しだ、などという考え自体が時代遅れである。しかも、こんな社会を延々と作って来た張本人が自民党政権なのだ。

沖縄問題は、自民党ではますます沖縄住民を苦しめるだけで、悪化こそすれ、良い方向に向かう可能性は皆無である。

政治の究極的な目的は、産業や文化を繁栄させることではなく、すべての国民が十分納得できる範囲に公正・公平・平等を保つことであって、それ以上の必要はない。福祉、治安、司法、教育、医療、環境保護もみなこれが本来の目的である。この条件が整っていれば、政府が特別な手を下さなくても、健全な産業文化が栄える。逆に、この本来の目的を忘れて見かけの経済発展を追うからこそ、不健全で持続しない経済にしかならず、そんな経済に従属する他の諸制度も歪んだものになる。

一つの社会問題が社会問題であるかどうかは、許せないほどの不公正・不公平・不平等を感じる国民が多いか少ないかによる。自民党のHPには医療・年金・介護などの社会保障、地域の再生や活性化なども書いてあるが、今までの自民党から根本的に変わったわけでもなく、福祉より経済成長の優先は目に見えているから、現在の不公正・不公平・不平等を解消する方向にあるとはとても思えない。やはり、どう見ても、自民党の天下は長続きしそうもない。
2012年12月17日





  1. 2012/12/17(月) 16:39:11|
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これでいいのか領有権争い

世界中に領土問題が絶えない。それぞれの国にはそれぞれの言い分があって、いずれも固有の領土だと主張している。だが、「固有の」とはどういうことをいうのだろうか。主権がどちらに属するかの客観的判断基準も、あってないようなものだろう。例えば、領有権を主張する国が根拠の一つとするように、ある無人島がある国の住民に古くから知られていた、或いは歴史書に古くから記載があったとしても、それを以てその島はその国の固有の領土とは言えない。それまでどの国の領土でもなく、どの国も注目していなかった島が、最初に領土権を主張した国の領土になるというものおかしい。もし、これらのことで固有の領土になるのだとしたら、南極大陸はチリかどこかの国が固有の領土だと主張するだろうし、ガリレオが世界で初めて発見した木星の4惑星はイタリアが固有の領土と主張するだろう。

原住民がいた土地を武力で侵略した場合でも、時が経てば侵略国の固有の領土として世界に認められるようになってしまう。そこに侵略国から移住した人間の数が増えればなおさらである。これが現在までの歴史である。南北アメリカを始め、このような国や土地は今でも世界に数多くある。最初に占領してからどれだけ年月が経てば固有の領土になるか決まっているわけではないから、占領直後から固有の領土だと主張することさえ理屈の上では可能になる。大航海時代以後の各国の固有の領土には、このように矛盾に満ちたものが多い。もともと日本人が住んでいた北方領土を武力で奪略占領したロシアが領土権を主張する根拠もここにあると言えるだろう。

したがって、現在のような領有権の考え方、つまり一つの土地を巡ってそれぞれの国が領有権を主張する根拠の底に流れている考え方を根本的に変えない限り、領有権の問題は永久になくならず、常に国際紛争や戦争の種になり得る。紛争が表面が現れなくても、武力や経済力の小さな方が大きな方に屈服しているだけで、真の平和共存は永久に訪れない。

そもそも、すべての土地は地球上のすべての生物および人間の共通の自然環境であって、誰の所有でもなく、誰にも好き勝手に使ってよい権利はない。個人や集団が土地を私有し、好き勝手に資源を収奪する自由を基本としている現在の土地制度に、そもそもの大きな欠陥がある。これは人間が自然を支配できるという思い上がりに他ならない。この思い上がりが国際紛争や戦争を起こし、環境破壊をもたらした。

現在の領土権に何らかの正当性があるとすれば、それは、ある集団に一定の専用権が認められているという意味だろう。その専用権が認められるのは、古くからその土地で、土地の環境と共生して、資源の収奪をせず、持続可能な生活をして来た集団だけである。人間も他の生物も、本来、住んでいる土地の生産力に生活の大部分を依存し、その土地の自然環境の一部となって(すなわち環境と共生して)生きるものである。現在A国人が住んでいるA国に属する土地とは、そのような意味でA国人に専用権が認められている土地であり、それが固有の領土の意味だと考えられる。このような専用権も、絶対的な私有権ではなく、将来の世代まで含めたすべての人類や生物の共通の財産を優先的に利用させてもらっている、という気持ちが必要である。

A国の土地でも、他国の人間の利用権が全く認められないわけではないが、もとより資源の非持続可能的な収奪や環境破壊は許されない。また、A国民が住み、或いは生活圏として利用して来た専用地に他国の人間が侵入して専用権を奪い取ることは侵略である。過去の侵略でできた国が現在も多数存在しているとはいえ、新たな侵略が許されないことは国際的常識となっている(もともと日本人が住んでいた北方領土のロシアによる占領は新たな侵略と言えるだろう)。

土地の利用者には、その土地の持続可能性を保護する義務がある。これは土地の利用や領有における最も基本的な原則と言える。たとえその土地が自分の国の専用地であっても、その土地の資源を略奪し、環境を汚染し、土地の持続可能性を損なって、人や生物が住めなくなるような土地の使い方をする場合は、その土地の利用者たる資格はないし、したがって、専用権を主張する資格もない。つまり、どの国も、たとえ自国の土地といえども、著しく汚染したり、資源を過剰に収奪したり、核実験で廃墟にしたり、事故を起こせば土地を永遠にダメにしてしまう原子力発電所を建設したりする権利は本来ないのである。

ある土地がどの国の主権に属すかを決める資格があるのは、その土地の住民だけである。例えばだが、沖縄の住民が総意を以て沖縄は独立したい、或いは中国に属したいと考えれば、他の日本人にはそれを強制的に止める権限はないし、台湾、アメリカのカリフォルニア州、カナダのケベック州などが独立したい、別の国に属したいと言い出した場合、本来はそれぞれの住民の選択に任せるのが筋である(もっとも、受け入れを望まれた国には受け入れを拒絶する権利はあるだろう。また、近年になって戦争などの政治的理由で住民が移動している場合はそんな簡単には片付かない)。一地域の住民が総意で独立を望んでも、中央政府が武力まで行使してそれを認めないことが多いのは、もとをただせば、住民から資源あるいは富を奪う機構を温存するために過ぎない。

無人島でも、近隣の住民の生活圏に属し、持続可能な方法で利用し続けて来たのなら、その住民、或いはその住民が所属する国の専用権が認められてよい。しかし、そうでない無人島はどうだろうか。尖閣諸島も、竹島も、南沙諸島も、その類に属する。このような無人島は、本来、どの国にも領有権はない筈である。すべての土地が必ず誰かまたはどの国かの所有に属さなければならいと考える必要はない。ある国の歴史書に早くから記載があったとしても、ある国の人達がその島の存在を早くから知っていたとしても、あるいは他のどの国より早く遠洋航海の折に立ち寄った実績があったとしても、それは生活圏の一部として利用して来たのではないから、領有権を主張する根拠にはならない。

もともと無人島である尖閣諸島や竹島の領土権を争うのは、結局は資源の奪い合いである。本来は誰の所有物でもない筈の地球の資源を、国と国とが専用権を巡って争っており、その専用権を手に入れることが国益だと互いに錯覚しているのである。その源は、人間には自然を勝手に支配する権利があるという驕りであり、それを私物化してカネに変えようとする強欲である。かつては軍事的な意味も強かったが、現在は経済的理由が主であり、軍事的な理由も、結局は経済的な主権や強欲が基になっている。

だが、そのような資源の奪い合いは、勝っても負けても先がない。近代の人間は地球上のあらゆる土地や資源を私有化し、持続不可能な方法で資源を収奪して環境を破壊してきた。石油がなくなれば天然ガス、天然ガスがなくなればシェールガス、あそこの油田が枯渇すればここの油田、という風に、次から次へと新たな資源を捜しては食いつぶし、資源を破壊し続けているのである。しまいには、将来の人間に残せるのは荒廃した土地だけになってしまうだろう。

無人島の領有権を確立して多少資源が増えたとしても、資源が使えるのはほんの一時的で、結局はまた今まで以上の資源不足に陥るだけである。そもそも、勝手に使える資源が増えたからといって、それでその国は幸せになるだろうか。資源の私有化、使い過ぎこそが現在の各種の社会経済問題を惹き起こし、のっぴきならない程度まで進み、世界の秩序は崩壊する寸前まできているのである。

土地も資源も自然環境も、個人や集団や国が勝手に占有し、勝手に収奪することを是としてきた時代はもはや終りを告げつつある。自然を私物化し、カネに換えることだけが豊かになることであり、幸福な社会への道だと考えてきたのは、幻想に過ぎなかった。カネに換えられる資源が時と共に減少しているにもかかわらず、常に今まで以上のカネを生み出すことが強いられている経済成長主義は、ますます資源の乱獲を要求する。強欲が強欲を呼び、資源の奪い合いを激化する。もはや、破滅への道に他ならないことが明確である。

誰の生活圏にも属していなかった無人島を自分のものだと主張するのは浅ましく、自分さえよければ他人はどうでもよいという先のない強欲に過ぎず、真の国益にはならない。自分勝手な国益より、互益こそが真の国益である。仮に自分の領土としても、資源の収奪は許されるべきではないから、領有権の主張より、資源の持続可能性を損なわないように共同管理することを提案した方がよい。日本がそのように高らかに言えば、世界中の尊敬と信頼を集めるだろう。この方が無人島周辺の資源より遥かに貴重な資源となり、日本の安定に貢献するだろう。

東日本大震災で何もかも失って学校の体育館での避難生活を強いられていた人達が、「物は多くても奪い合えは足りないが、少なくても分け合えば足りる」と述べていた。現在の世界にとって、これからの人間にとって、この言葉ほど重要な言葉はない。まさに、発想の大転換が必要であることを世界中の人々に訴えている言葉である。しかも、実際に我が身の経験からにじみ出た言葉である。これからは、この言葉を大切にして、世界中の人々が、少ない地球資源を、自国の取り分を少しでも多くするのではなく、持続可能な方法で、公平に分け合うことが大切である。それ以外に世界の人々が幸福になり、平和に共存する道はない。

現在の世界を私有化、奪い合い、金権主義に邁進させた西洋的近代主義はほころびが目立ち始めた。「大学」に言う、「国は利を以て利となさず、義を以て利となす。」国にとっては財物を得る利益は本当の利益でなく、道義を守ることこそが本当の利益だと。儒学発祥の中国も、長く儒学を精神の拠り所として来た日本も、儒学の優等生といわれる韓国も、忘れかけたこの普遍的な真理を再び思い起こす必要がある。
2012年8月17日


  1. 2012/08/17(金) 17:34:25|
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南京大虐殺論争の愚

名古屋の河村市長が「いわゆる南京大虐殺はなかったのではないか」と発言して波紋を起こしている。石原都知事や桜井よしこなどは以前からの「南京大虐殺はなかった」派である。
だが、公の立場にある人間がこの種の論議をするのは、自らの愚かさを宣伝しているようなものだ。

「大虐殺はなかった」派にしろ、「あった」派にしろ、たいていは自分が当時南京にいて事実を自分の目で見たわけではない。自分の目で見たのでない限り、大虐殺があったかどうか断定するのは不可能である。日本人として、大虐殺が本当にあったすれば非常に残念であり、なかったと信じたい気持ちは理解できるが、それは願望である。願望と真実を取り違えてはいけない。

逆に、中国人にすれば、旧日本軍=残虐鬼畜という教育が現在も徹底している(公式には悪者は過去の日本軍国主義だが、現実には現在の日本人敵視にも結びついている感は否定できない。日本人と接したことのない中国の子供が日本人という言葉を聞いてまず思うのは悪い人ということのようだ。これは実際に小学生の子供を持つ中国人から聞いた話である)。 したがって、南京大虐殺は真実であったと思いたい中国人は少なくないだろう。当時の南京で日本軍の行為を見聞きした人でも、それを誇張する傾向にあるかも知れない。

真実を知るためには、中国と日本の学者および目撃者の協力による客観的な歴史的検証が必要である。しかし、現在は、その客観的な検証が難しいように思われる。日本人の学者にも、原発事故を小さく見せたいと思う学者と同じように、出来るだけ事が小さくあって欲しいという願望が働くかも知れない。日本人学者はできるだけ客観的な立場になろうとすることができても、中国の学者や市民にとっては極めて困難だろう。中国では現在なお物事、特に日中近代史に関しては見たこと思ったことを正直にありのまま発言できる状況にはないのである。現在、日中共同研究という声を聞くこともあるが、まだ当分の間、客観的な共同研究は不可能だろう。

古今東西、外国の軍隊に侵略された都市は多く、日本軍に侵略された中国の都市も多い。それなのに、とりわけ南京だけが日本軍による大虐殺があったと言われるのは、何らかの虐殺行為があったのかも知れない。それが30万人もの大虐殺だったかどうかは、戦後の一般日本人には知る由もないが、虐殺の大小については、どこで大小の区切りを付けるかも問題だし、区別してもあまり意味がない。たとえ100人、いや10人であっても、虐殺行為があったとすれば日本人として首を垂れて謝るしかない。殺された人の遺族にとっては、1人だろうと30万人だろうと同じことである。当時を知らない日本人が大虐殺でなかったといくら主張したところで、被害を受けた中国人の神経を逆なでするだけだ。

南京大虐殺の真実については、日中協力して客観的、学問的な研究ができる日が来るまで待つしかないのである。いつそれが可能か、今のところはわからないが。

それまでの間、何もかも中国人の言うことが事実だと認める必要はないが、それが事実でないと不確かな証拠や理由を以て反論しても何の益にはならない。感情的に否定しようとすればするほど、中国側もまた感情的にかたくなになるだけである。客観的な研究結果が出るまでは、虐殺があったとかなかったとか、規模がどれくらいだとかについては、日本人は口にしない方がよい。中国人が南京の事を持ち出したら、自分の目で確かめた日本人でない限り、否定も肯定もせず、「そういう話も聞いていますが、日本人として大変申し訳なく思います」と素直に謝り、「今の日本人は二度と戦争や侵略を起こさないように教育されています」と言えばよい。それが中国人の日本人に対する気持ちを和らげ、より客観的に歴史を見ようとする気持ちにつながるだろう。

戦時の虐殺については、被害を受けた側の気持ちを理解しようとすることが大切である。それはまた、自国が受けた残虐への怒りでもある。いくら戦時とは言え、一般市民を無差別に殺戮した広島長崎の原爆、東京大空襲なども、南京大虐殺に負けず劣らず残虐な行為である。まだ小学校に上ったばかりの私の兄と就学前の姉も静岡の空襲で大やけどを負った。原爆はまだ生まれていなかった人間にまで多大な被害を与えた。南京大虐殺はなかったと感情的な主張をしてやまない人達が、広島長崎への原爆投下に対して何の批判もしないのは奇妙に思える。
2012年2月22日


  1. 2012/02/22(水) 22:41:40|
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