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縮小の時代

小保方さん問題は競争社会の問題

組織細胞を弱酸性の溶液につけて刺激を与えるという簡単な操作だけで、組織細胞に分化する前のSTAP幹細胞を作ることができたという、世界的に注目を浴びた小保方晴子さんの論文に文章の盗用、掲載写真の取違いや人為的操作があることがわかり、大きな問題になっている。

今回の問題は、STAP幹細胞は本当に出来たのか、それとも捏造なのかについては未だ明らかではないが、いずれにしても論文のずさんさという点で科学者の倫理が問われる問題である。今回は、もし本当ならノーベル賞級と言われるほと画期的な研究であり、それで救われるかも知れない多くの病人に希望を持たせただけに、特に大きな問題になっているが、科学者倫理の問題は今に始まったことではなく、近年は特に増加しているように思われる。

今回の問題も、小保方さんを初めとする著者、小保方さんの所属する理化学研究所、同様な欠陥が明るみに出た小保方さんの博士論文を認めた早稲田大学、不十分な査読で論文を掲載した雑誌「Nature」など、当事者に対する倫理を問う声が大きい。一方で、激しい競争、および短い任期の間に目立った成果を要求されるという、現在の非常に厳しい研究環境を問題視する意見もあるが、当事者責任論の強さにかき消されてしまいそうである。

確かに、当事者の責任は免れない。科学者としてのみならず、普通の人間としても、事実を曲げてまで自分の成績を上げようとするのは、明らかに正義に反している。しかし、いかに自己責任は免れ得ないとは言え、当事者を責めるだけでは、どうしても、社会の責任より当事者責任の方が強調されてしまい、社会の責任の追及が緩んでしまう。私は、今回の問題の責任の90%以上は社会にあると言っても過言でないと思う。いや、こんな酷い競争社会でなかったら今回の問題は起らなかったとすれば、責任の100%は社会にあるかも知れない。

社会の責任とは、現在のような競争社会を造りだし、放置していることである。これは、各個人がひたすら自己利益を追うことによって最も合理的な選択がされ、最も効率よく社会を繁栄させることができるという合理主義に基づいている。この合理主義によって、人間もまた合理的に扱われるべき対象とされる。人を使うことは機械や道具を使うのと同じで、少しでも安い経費で高い成果を上げることが人事の目的になっている。こうして、企業は無論の事、公官庁や教育、研究、医療や福祉に従事する人間までも成果主義が強要され、雇用や解雇が簡単になり、激しい競争にさらされているのが現在の日本であり、非正規社員、派遣社員といった低賃金・不安定な労働条件が公官庁、大学、研究の世界まで広がっている。

大学や研究所の教員・研究者の多くは数年任期の臨時雇いであり、その間に成果を上げないと雇用の継続さえできないから、若い研究者は必死にならざるを得ない。任期が近づいて来れば、尚更必死になり、切羽詰まれば不正に走る者も出て来る。そんな条件の中で不正の誘惑に負けないためには、非常に強い意思と正義感が要求される。

仮に、個人個人の自己管理が完璧で個人の不正が全く起らないとしても、それは決して社会から不正が消えたことにはならない。激しい競争社会であることは、競争に勝ち残る者、あるいは、勝者とは言えなくても生き残れる者が少ないことを意味する。大多数は不安で非常に厳しい生活を余儀なくされる。精神的な苦労から病になる人も増える。そんな緊張に耐えて正義を貫き、不正の撲滅に努力すれば、それで良しとされるだけで、厳しい労働環境は永久に改善されず、ますます悪化するのみだろう。これは、すべての人間は人並みの人間らしい生活をする権利があり、社会にはそれを保障する義務があるという、社会としての最も基本的な正義を踏みにじることであるし、人を家畜以下(家畜でさえ飼い主は使い捨てを忍びないと思っているだろう)の、使い捨て可能なただの道具と見なすこと自体、不正義そのものである。厳しい雇用条件と激しい競争の下で個人の高い倫理を要求することは、社会的な不正を個人の責任に転嫁することでしかない。

人を合理主義に基づいた激しい競争にさらすことによって新しいものが次々と創造され、科学や文化が一層豊かになり、経済が成長するという一般的な考えは、あまりにも根付いているために、なかなか否定し難い。しかし、それが本当に社会の進歩であり、人類の進歩であり、より多くの人間が幸福を感じるようになったのかと考えて見れば、はなはだ疑問である。職の安定という、人間にとって最も重要な条件さえあやふやな社会が、人類の目指す進歩した社会だろうか? 社会全体としての生産(GDP)が増えても、増えた分の多くは一部の勝者に集中し、格差が広がり、不満を感ずる人が増える。自然環境が悪化して生存権を奪われた人が、我々には見えないところに大勢いる。敗者が多ければ不正や犯罪も増える。競争が激しいほど他人のことを構っていられないから、人に対する思いやりはなくなり、人の幸福の最も大きな要素である人間関係が廃れる。

科学知識の拡大が早まったところで、現在の科学はほとんど技術のため、技術は金儲けのためであって、いずれも資源の浪費と環境破壊を早めているだけで、人間の質の向上に繋がってはいない。文化が多様化したようでも、実際は商業主義の軽薄な芸能や見るだけの産業化したスポーツがテレビ画面を埋めるだけで、これも人間の質の進歩とは程遠い。情報通信が簡単になっても、本当に必要で役に立つ情報はどれだけあるだろうか。電車やバスの中で乗客の大多数が同じような恰好をして携帯端末を覗き込んでいるのは見苦しい光景だが、将来の心配を通り越して滑稽でさえある。大して必要でもない数々の電気製品や高価な道具を必要と思わせれられ、それを手に入れるために自由時間を削って単純作業の仕事につき、それを使うためにまた時間を費やしている。若い女性はそのために子育てさえ満足にできない。
進歩を急ぐことはない。何が本当の進歩かは、時がたってみなければわからない場合が多いのだ。性急に進歩を図ったつもりが、却って後退だったことは十分あり得る。現在の経済がすでに、これ以上成長すればするほど真の豊かさを損なう後退になっている。

合理主義の競争を煽ることによって到達した社会とは、結局、こんな社会に過ぎない。一人一人の人間を犠牲にした見せかけだけの繁栄である。こんな社会の在り方を放置し、個人の倫理だけを強調しても、不正は撲滅不可能であるどころか、今後ますます増えていくだろう。企業も教育機関も研究機関も、人間を道具扱いし、成果主義に偏り、無理な競争に駆り立てることを即刻やめ、まずは職の安定を確保し、将来の生活を保障することが先決である。成果に追い立てられる研究では、本当に良い研究はできない。
2014年3月17日


  1. 2014/03/17(月) 13:55:05|
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縮小社会の技術

本ブログ4月27日の記事「意識を変える」で、現代人の心の奥底に刷り込まれている意識の一つに、技術信仰があると書いた。つまり、国内外を問わず、ほとんどの人は

・技術は人間の優秀性を示す証。
・技術の進歩は人類の進歩で、技術の利用が多いほど進歩した社会。
・新技術はすべて高級で優れている。
・新技術はすべて価値があり、直ちに利用すべき。
・技術が資源問題、環境問題を始めあらゆる問題を解決し、更なる経済成長を可能にする。
・将来の社会を支え、今後の進歩の原動力なるのは一段と高度な技術。

などを当然と考え、まったく疑問を持たない。何か新しい技術が開発されると、テレビも新聞も、いかにも喜ばしい事のように報道する。技術に疑問を唱える者は、狂信的な宗教信者か、社会の主流から外れた偏屈者か、何か恨みでもあって社会に反抗する者か、または、ロマンチックな自然生活の愛好者のいずれかであって、まともな人間でないと思われそうである。あるいは、技術の否定は人間の可能性や進歩の否定、すなわち人間そのものの否定だと受け取られそうだ。このため、技術に異を唱えることには勇気を要し、多くの人は技術の批判には非常に消極的である。特に、指導的な立場にある人ほど技術を礼賛し、将来の技術進歩に対する大きな期待を表明する傾向にある。その方が多くの人々に歓迎され、自分に対する印象を良くするだけでなく、自分もまた技術を夢見て安心したいという気持ちがあるからだろう。

確かに、技術の力には驚嘆せざるを得ない。技術は、産業革命以前の人間はもちろんのこと、ほんの50年前の人間ですら思いもよらなかった数々の夢を実現し、現代の我々は、一昔前の王侯貴族も及ばない便利で快適な日常生活を送っている。これらの技術をものにした人間の能力の素晴らしさに圧倒され、自分もそうした人間であることに誇りを感じない人はいないだろう。だが、そこに技術の持つ危険性があり、誰でも容易に嵌ってしまう落し穴がある。近代技術こそ、地球環境をこれほどまで破壊した元凶に他ならない。現在ほど大規模な環境破壊も人口爆発も工業文明以前にはなかったし、もし近代技術がなかったら、決して起こらなかっただろう。

技術は自然法則に則ったものだから人間の主観から離れた客観的なものだという人もいるが、それは正しくない。技術は特定の人間(またはその集団)の価値観の表現である。数ある自然法則の中から、その人達にとって都合が良いと思われる法則だけが強調して利用され、同時に生ずる都合の悪い現象(副作用)は極力無視された製品になる。また、個人的にできる技術(例えば自分で道具を造ったり家を建てたりする等)ならまだしも、現在の技術の多くは大規模かつ様々な専門技術の集積になっているので、個人的に造ることはほとんど不可能で、企業や大組織の意図が反映した技術を心ならずも使わされているに過ぎない。

近代技術を駆使することによって、人間が高級になったと思う人が多いだろう。未開人とか低開発国などという言葉に、技術が未発達の民族や国を見下す気持ちがうかがえる。しかし、技術が進めば進むほど高級な文明だというのも、ただそう思わされているだけに過ぎない。現在の技術製品には人間の肉体的、精神的作業を省くという便利さを求めたものが非常に多い。また、テレビ、ゲーム、ドライブなど、余暇の過ごし方もすっかり技術製品に支配されている。これらの技術が提供する便利さや楽しみに日常生活のほとんどすべてを依存させることによって、自ら身体を動かし、考え、創造する能力や、感受性までも失われてしまう。我々の身の回りにある技術製品のうちで、失うものより得るものの方が大きいと断言できるものがどれだけあるだろうか。考え方次第だが、必要ない、或いは、ない方がよい製品の方が多いかも知れない。実際、本当に必要な物さえ充足されれば、それ以上の物の豊富さと幸福感とはほとんど相関がない、という調査結果があることは広く知られている。日本にも、喧騒な都会を離れて、自然豊かなところで手造りの生活を楽しんでいる人が少なくない。

企業の最大の関心事は企業利益の最大化である。したがって、現代の技術開発のほとんどすべては企業の利益拡大、ただそれだけのために行われる。交通、通信など多くの公共技術も、企業利益や経済成長には貢献しても、人々の暮しがそれによって本当に充実するかどうかは疑わしい。経済利益のための技術は、高付加価値、大量販売が目的だから、必然的に複雑巧妙、過剰な機能や性能に傾き、資源・エネルギーの大量消費、環境負担の増大を伴う。同時に製造原価の最小化のために、環境影響や安全への考慮は、販売の障害にならない限り最小限に留めようとする。こうして複雑巧妙化された現在の技術製品は、どれもみな、その生産には社会の広い分野が関わり、単一の技術ではなくなっている。例えば、自動車は言うまでもなく、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、パソコンと言った我々の生活に深く入り込んでいる製品にはみな材料技術、電子技術、加工技術、計測技術、モーターやネジ類など個々の要素部品技術、更には各部門間を繋ぐ交通輸送技術および情報通信技術など関わっており、どの一部が欠けても最終製品は生産できない。どんな製品も、一つの企業や産業分野だけではなく社会全体で生産されているのである。言い換えれば、現在の工業文明社会は、生産も使用もそれぞれ独立した個々の技術(または技術製品)の単なる集合体として成り立っているのではなく、分野も目的も様々なそれぞれの技術が有機的につながった総合体なのである。これはちょうど、人体が物質元素の単なる寄せ集めではなく、種々な元素が有機的に繋がって各器官を構成し、各器官が更に有機的に繋がって人体を形成しているのと似ている。

このような近代技術と工業文明を可能にし、それを支えているのが自然資源、特に化石燃料であることは論を待たない。化石燃料は太古の時代に太陽エネルギーが何千万年もかかって非常に高いエネルギー密度まで凝縮されたもので、人間はこれを簡単に掘り出し、太古に生成した速度の何万倍もの速度で使うことができた。まさに棚からボタ餅だが、新しいボタ餅が再び目の前に現れる可能性はない。中でも石油は、工業文明社会の血流にも相当する輸送交通のほとんどを賄っており、石油がなくなることは、血流が不足するのと同じように、肥大化した現在の工業文明の崩壊を意味する。この石油を、世界は100年そこそこの間に、既に地球全埋蔵量(約2兆バレル)の半分を使った。需要はなお増え続けている一方、後に残った埋蔵分ほど質が悪く、採掘や精製にエネルギーが要るので、正味の埋蔵エネルギーは既に採掘した量よりはるかに少ない。新油田の発見量は1963年以来年々下がりっぱなしである上に、現在の年間石油消費量は、新発見される油田の埋蔵量をはるかに超えている。世界の石油生産はほぼ歴史上の頂点を過ぎたと見られ、今後は、多少の上下はあっても、減少の一途を辿ることになる。シェールガスもメタンハイドレートも種々な再生可能エネルギーも、液体でない、エネルギー収支が悪い、量的に不十分、環境破壊など、どれかの理由で、今日の石油の役目は代替できない。今までのように石油を安く大量に使うことができなくなるから、現代の工業文明はどうしても形を変えてゆかざるを得ないのである。

したがって、現在の技術の問題、特に資源の減少や環境汚染に関する問題は、個々の技術の問題として見ても有効な手立ては得られない。例えば、エネルギー問題を効率向上や他のエネルギー源の開発で解決しようとしても不可能で、工業文明社会全体の問題として対処しなければならない。にもかかわらず、太陽光発電、風力発電、蓄電池、電気自動車等々、どうしても個々の技術の中に解を見出すことしか考えないところに、現代人の技術信仰が現れている。それらの「いわゆる環境技術」を大量に使用して現在のような便利な工業文明を続けることなど、どうして可能になるのだろうか。石油の乏しい時代に、現在のような技術製品をどうやって大量に生産し、大量に輸送するのだろうか。現在の家庭にある便利な耐久消費財のほとんどが高価格な贅沢品になる時代に、それらを買うだけの所得を、一般庶民はどうやって得るのだろうか。より革新的な技術が現在の諸問題を解決し、将来の文明を支えるなどという考えが幻想に過ぎないことはこれでよくわかるだろう。(参考:本ブログ13年2月6日「再生可能エネルギー100%の社会」

結局、現在の豊かな工業文明を造ったのは技術だが、それを壊すのもまた技術である。成長の原因は、適当なところで成長をやめない限り、必ず崩壊の原因にもなるのは、自然の法則といえる。したがって、環境や資源の問題は、見かけ上関係している技術だけが生み出したものではなく、工業文明社会全体として生み出したものだという認識が大切なのである。個々の技術の改善や新しい技術に頼ろうとすればするほど、文明の崩壊は早く訪れることになるだろう。

勿論、すべての技術が悪いわけではない。縮小社会には技術が不要というのではなく、衣食住、生活用品、治水工事などの伝統技術も技術だから、文明を造るのがやはり技術であることに変わりはない。しかし、縮小社会では、現在とは技術に対する考え方、したがって技術製品の姿や使い方が異なり、冒頭に挙げた技術観のほとんどは捨てられる。技術が自然法則の利用であることは同じだが、現在は、自然には起らない現象を人工的に起させる技術が多いので、環境に大きな負担をかけ、原理も構造も専門家にしかわからないような複雑な装置を必要とする。縮小社会の技術は、そのような「ハイテク」志向ではなく、なるべく自然に起る現象をそのまま利用することを良しとするから、装置も比較的簡単で、誰でも一目で理解できる。近代工業文明の以前からある伝統的な技術はこのような技術で、化石燃料や高密度の大量エネルギーに依存しないから、弊害が少なく、持続可能な優れた技術といえる。この意味で、自動車より自転車の方が技術として優れている。ハイテクも全く不要とは言わないが、日常生活や生産がハイテクに依存することを避け、その使用は、本当に必要な場合に限定する方がよい。また、伝統技術といえども、必要以上に使えば自然を壊すことになりかねない。

ジョン・ミカエル・グレアは、“The Long Descent” (長い下り坂)という著書の中で、脱工業時代の技術には次の四つの要素が必要だと書いている[1]:

・durability (耐久性):長持ちし、使い捨てでないこと。
・independence (独立性):他の技術に依存しない。
・replicability (復元性):生産に他の高度な技術を必要とせず、簡単に同じものが造れる。
・transparency (透明性):その製品自体に原理や使い方が現れている。

著者は、そのような技術の典型的な例として計算尺を挙げている。私の机の引き出しにも、昔愛用したヘンミの計算尺がある。計算尺は加減乗除の他に三角関数、対数からベキ乗まで計算可能で、飛行機さえこれで設計できる優れた道具である。竹製の計算尺は長持ちし、他の特別な技術がなくても、手作りで同じものが容易に生産できる(独立性、復元性)。仮に、計算尺などすっかり忘れ去られた何千年か後の人間が、遺跡から計算尺を発見したとしても、それをつらつら眺めて考えれば、その原理から使用方法までわかり、同じものを造ることができる(透明性)。電卓だったら、中身はブラックボックスだから、原理はおろか、何に使う道具かさえもわからないだろう。透明性は、いつの時代でも技術が継承できるための条件である。

農業にせよ、物造りにせよ、伝統技術は上の四つの要素を持っていた。医療もまた、原理こそ理解できなかったが、民間に代々伝えられて来た。伝統技術が持続可能な技術だったのは、大量生産・大量使用ができなかったからで、それは高密度で安くて豊富な化石燃料の利用を知らなかったからである。現代人は、化石燃料に浸り、生産性や便利さや金になることを追うあまり、これらの多くの優れた技術も、その知識も捨ててしまった。石油が乏しくなり、工業製品が使えなくなって来れば、生きることさえ困難になる。我々は、石油浸りの技術信仰から早く目をさまし、技術に対する考え方を改め、ハイテクばかりを追うのではなく、伝統技術をできるだけ復活させることが必要である。

[1] John Michael Greer“The Long Descent”New Society Publishers,2008,p170
ここでは「長い下り坂」と訳しておいたが、「下り」は否定的な意味ではない。この本では、Descentとは、石油生産が今後長い期間にわたって年々減少することを指す。それに伴って社会が大きく変って行き、その行き着く先が脱工業社会である。
き2013年5月29日


  1. 2013/05/29(水) 14:38:01|
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交通事故死者の命は軽い?

警察庁のまとめによると、2012年1年間の全国の交通事故死者は4411人で、12年連続して減少しているという。17000人近くあった1970年頃と比べると著しい減少である。しかし、それで喜んではいけない。年間4000人以上という死者数は依然として膨大なもので、他の事故の死者に比べたら桁違いに多い。しかも、4411人というのは24時間以内の死者だから、後日に事故が原因で死亡した人の数を加えればもっと多いはずだ。更に負傷者は85万余人もある。死者1人に対して、200人近い負傷者がいるのだ。毎日確実に12人の死者、2300人の負傷者を出していることになる。世界中では、世界保健機構(WHO)によると、交通事故死者は年間130万人に達していると言う。毎日3600人もの命が必ず交通事故で奪われているのである。

飛行機事故が起ると世界中に報道され、航空機製造会社も整備会社も運行会社もは綿密な原因調査と改善を迫られるが、2011年の民間航空会社の定期便の飛行機事故(事件を除く)死者は414人である。エレベーターの事故で1人死ねば、全国で大騒ぎになり、やはりエレベーターの製造会社にも保守会社にも調査が入る。今、原発事故に関連して一人でも死者が出れば、多くの人達が憤慨するだろう。

ところが、毎日これだけ多くの死者を出す自動車事故については、新聞やテレビではほんの一部が小さく取り上げられるだけである。それも、ほとんどは事故当事者(自動車の利用者または被害者)の個人的責任のごとく報道され、自動車会社も道路管理者も事故の責任を追及されることはない。毎日これだけ多くの事故が起こることに対する問題意識はなく、事故の発生はほとんど当り前のことにされている。人命尊重のため脱原発に熱心な人達も、自動車事故には関心を示さない。飛行機やエレベーターや原発の事故で死んだ人の命に比べると、自動車事故で死んだ人の命は取るに足りないほど軽いのだろうか。エレベーターや原発で一人でも人が死ぬのは許せなくても、自動車事故で何千人も死ぬのは許せるのだろうか。

私は、エレベーターや飛行機や原発の事故で死者がでても騒ぐなと言っているのではない。どんな事故でも、原因と責任を追及して事故を皆無にすべく最大の努力をするべきであるし、事故を当然視することは絶対に許してはいけない。私が言いたいのは、逆に、エレベーターや飛行機や原発の事故による人的被害を重大視すると同様に、自動車事故も重大視すべきである、ということだ。

自動車事故の責任は、本当に自動車を使う人間か被害者かのいずれかだけだろうか。決してそうではない。どんな製品でも、使用法が誤って事故になることがある。この場合、使用法を誤りやすい製品の設計になっており、使用法の誤りで重大事故が起こる場合には、製品側の責任は大きい。訴訟の国アメリカではこのような事故で製造会社が賠償を命じられる例が多いと聞く。日本でも、2、3年前に、こんにゃくゼリーがのどに詰まって死んだ子供の親が製造会社の責任として訴えたことがあった。判決は企業の勝ちだったが、企業責任を問う声も新聞にはあった。

製品の性質上、完全な安全対策が難しい場合は、製品その物の所持や使用者を制限することが一般的である。工事用車両や業務用の特殊な機器もそうだし、刃渡りの長いナイフもその例である。

自動車は極めて使用法を誤りやすい製品である。アクセルとブレーキの間違いやハンドル操作の間違いによる事故も頻繁に起きているが、それよりも、全く危険を感じないで簡単に速度を出せることが、安全の見地からは最大の欠陥である。こんなに大きくて重い物が高速で走ること自体、本来は非常に危険なのだ。自動車技術はエンジンの出力増大だけでなく、乗り心地、静かさ、走行安定性などを著しく改善させ、今の自動車は高速運転が非常に簡単かつ快適になった。体感では、ゆっくり走っている時と同じように、全く危険を感じない。ほとんどの人は、これを技術の進歩と考えるだろう。しかし、本当にそうだろうか。高速の危険性を体感できなくし、人を一層危険運転に追いやるこれらの技術が、本当に人間にとって優れた技術と言えるか、大いに疑問である。しかも自動車は、運転者の体調や精神状態や性格を選ばず、だれも簡単に運転できる。

危険な高速運転が非常に簡単で、運転者に危険が気づきにくく、しかも、人間には必ずあるちょっとした誤りや気の緩みで重大事故を起こす。これらこそが自動車の本質的な欠陥である。これによって生じた事故の責任の大半は、そのような自動車を製造したメーカー、およびそのような自動車の使用を許している道路の管理者にあるのではないだろうか。日本の製造物責任法(PL法)は、製品の欠陥によって生じた生命、身体、財産に対する損害に対して製造会社などの賠償責任を定めた法律だが、問題は上のような本質的な欠陥を欠陥として認めていないことにある。人間のための技術製品ではなく、企業のための技術製品という認識なのだ。

エレベーターや飛行機の事故と違って、自動車事故は毎日必ずどこかで起きている。今日も、日本全国で10人は必ず死ぬだろうし、1000人以上の負傷者が出るだろう。世界中では今日一日で3600人もの人が確実に死ぬ。ある自動車企業の日本での占拠率を20%とすれば、その企業の製品が日本で毎日必ず2人以上を殺し、400人ほどを傷つけている。今日もまたそれだけの人を殺す。その企業の世界の占拠率を5%とすれば、世界中ではそのメーカーだけで毎日必ず180人も殺している。そして、今日もそれだけ殺す。自動車企業にたずさわる人、「快適に速く走る」自動車を造ることしか考えない自動車技術者達は、このことに何も感じないのだろうか。これでも自分達の製品に誇りが持てるだろうか。

人間の20倍も重くて固い車が、すぐに停まれない速度で歩行者や自転車と同じ道を走る。しかも、運転者は軽い気持ちで簡単に速度を上げる。これでは事故が起こるのは当たり前で、どんなに技術的対策を講じても、世界中の事故を無くすことは不可能である。危険を察知して自動的にブレーキをかけるとか、情報通信技術で道路交通を制御するとか、複雑の上に複雑を加えた事故防止技術が開発研究されているが、いくらそんな技術を開発したところで、突出した自動車事故死者数を他の事故並みに減らすことはできない。仮に多少の事故減少に効果があっても、世界中にそんな車が普及するまでには、まだ何千万人も犠牲になるだろう。問題は安全技術にあるのではなく、こんな自動車の製造、販売、使用が許されていることである。

自動車事故の頻度を他の事故と同程度にするためには、自動車に対する考え方を根本的に変える必要がある。自動車だけを事故が多くてもやむを得ないと優遇してよい理由は何もない。歩行者や自転車と車線を共用するのなら、歩行者または自転車以上の速度は出せず、歩行者と同じように瞬間に停まれる車以外は禁止すべきである。自動車の思い切った小型低速化、公共交通機関の充実、歩行者と自転車の安全を最優先した道路構造と交通規則こそが、自動車のあらゆる悪をなくす最も確実かつ技術的に容易な方法である。
2013年1月13日


  1. 2013/01/13(日) 12:38:37|
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騒ぎ過ぎのノーベル賞

今年のノーベル賞受賞者の発表が始まった。日本人の受賞を喜ばないわけではないが、近年はあまりにも騒ぎ過ぎである。こんなことを言うと、偏屈な人間か、あるいは愛国心に欠ける人間と思われそうだが、敢えて一言することにした。

現在のノーベル賞はまるでオリンピックと同じである。マスコミがこぞって人々の興味を掻き立て、少数の「偉大な成功者」と崇め奉ることによって、受賞者の地位とその希少価値をいやが上にも高める。学問もスポーツも最高の権威ある賞の獲得競争になってしまった。大学も国も、それらの賞を一つでも多く獲得することに全力を挙げるようになっている。

しかし、学問もスポーツも、競争して賞を獲ることが本来の目的でないことは言うまでもない。賞はあってもよいが、騒ぎ過ぎは学問の本来の意義を損なう。学問は単に知識を広げることだけではなく、知識体系を広げることによって人間とは何か、人間は如何に生きるべきかについて、より深く哲学することに最大の意義がある。学問上の受賞をオリンピックの金メダルのように騒ぎ立てることは、却って学問を堕落させることにしかならない。賞の「権威」を高めることは、学問の「意義」と矛盾することもあり、かつて、権威主義に強く反対していたサルトルがノーベル賞を辞退した例がある。ノーベル賞を受賞した人の中にも、人に騒がれることを望まなかった人が大勢いるに違いない。人が他の人の学問的業績に感じ入るのは、それによって自分自身が物を考える上で多くを啓発され、教えられたと思うかからであり、世間で騒がれたか、賞を貰ったか、金儲けの種になる、さして必要でもない新商品に結びついたかなどはどうでもよいことなのである。

昔の学問は哲学と同じだった。ギリシャの学問も儒学もそうだった。儒学では、学問することは君子となるために自分を磨くことであり、その君子とは仁、義、礼、知を備えた人間、つまり、人にやさしく、信頼でき、礼儀正しく、深い知識を持った人間である。これは現在でもそのまま通じ、民主的で公平、健全かつ持続可能な、人と人との信頼関係に基づく社会の良き一員としてのあるべき姿である。

学問が功利主義と合体したのは、啓蒙時代から産業革命以後のことだろう。ノーベルのいた時期はそのような近代科学・技術の急成長期にあった。ノーベルは、その遺産を「人類のために貢献をした人に分配する」と遺言したという。その時代は科学・技術の発展がそのまま人類のための貢献と考えられていたかも知れないが、ダイナマイトの発明で遺産を築いたノーベル自身、ダイナマイトだけでなく科学の応用に慎重さを欠けば自然破壊、人間破壊をもたらすことを懸念していたと思われる。

現在は科学・技術の発展と人類への貢献とがますます乖離している。現在の科学は技術への応用価値が大きな比重を占める。そして、その技術といえば、それまでは大して必要でもなかった新たな需要を開拓して経済利益を高める手段でしかなくなったから、結局、科学もまた経済のためという色彩が非常に濃くなった。スポーツが金儲けの道具に堕落したのと変わりがない。このような科学・技術による環境破壊、格差拡大、人間疎外が目に余るようになった現在は、科学も技術も今までの拡大志向から、大きな方向転換が必要なのである。

中山伸弥教授によるiPS細胞の開発も、山中教授自身が倫理との関係をしっかり詰める必要があると述べておられるように、かならずしも人類に貢献するかどうかはわからない。仮にiPS細胞を利用した難病の治療法が開発されたとしても、それが世界中のすべての必要な人に直ちに応用できることにはならないだろう。自ずから、治療を受けられる人と受けられない人の区別が生ずる。高度で経費と時間のかかる治療法であればあるほど、少数の人間しかその恩恵に浴することはできない。これは、人間の格差を拡大することであって、社会全体にとっては貢献とは逆の効果になるかも知れない。あらゆる技術を駆使して難病を治したところで、人間の寿命が大幅に伸びるわけでもないのである。

ノーベル賞も、オリンピックも、他の賞や表彰も、拡大志向や経済効果を判断の基準とし、競争を煽り立てるようなものは、その役目はすでに終了し、これからの縮小の時代には重要性を持たない。ノーベル賞の受賞を目的とするような学問や大学に関する政策はもはや時代遅れであり、今後の社会の進歩を阻害するものとしか考えられない。
2012年10月10日


  1. 2012/10/10(水) 14:08:54|
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超小型車の認定制度と道路交通体系について

日産自動車の超小型電気自動車「CONCEPT」の発表や、ダイハツ工業が昨年のモーターショウに超小型電気自動車「PICO」を出品したことなどを受けて、これからは超小型自動車の需要が高まることを予想してか、国土交通省は新たに「超小型車」認定基準を設ける方針である。報道各社の報道によると、国交省は超小型車を主に高齢者の近距離移動手段と位置付け、排気量は125cc程度、走行距離は1日10km程度を想定している。

公共交通機関の不備、商店の郊外移転によって、自家用車が不可欠にされている現在、増加する高齢者に使い易い移動手段の需要が高まることは確かだろう。

超小型車の導入自体は歓迎すべきことである。しかし、超小型車をこのように高齢者向けの「自動車の新たな市場分野の追加」としてしか見ないことには、大きな問題と実施上の困難を伴う。現在のような高速・大型の普通自動車(ここでは現在の小型乗用車も含める)中心の道路に低速の超小型自動車が入り込めば、普通自動車を運転する側からは邪魔者扱いされるだろう。さりとて自転車と同じように歩道を走ることもできない。歩道や自転車の通行帯さえお粗末な現状に、新たに超小型車の通行帯を設けることは、今の行政ではほとんど不可能だろう。

人間の20倍も重い固い物体が人間の何倍もの高速で、人間と同じ道路を通行すれば、事故が起こるのは必然で、どんな技術でも十分に防ぐことはできない。しかもどんな人間がどんな状態で運転しているか知れたものではない。

自動車の超小型・低速化は、単に高齢者向けに限らず、すべての自動車にとって、安全以外に環境、資源・エネルギー、平等などあらゆる観点から見ても今後の必然の動向である。逆に、現在のような高速かつ大型の自動車社会を続けようとする限り、自動車社会の持続は不可能で、自動車事故の大量の犠牲者もなくならない。したがって、超小型車は、単なる新しい自動車区分の追加ではなく、自動車および道路行政を全体的に見て、道路交通を再編する積りで導入を図る必要がある。

図体の小型化以上に重要なことは低速化である。資源、エネルギー、安全の面では、速度が増すにつれて急激に不利になる。速度を増せば安全確保や快適さのために大型化するので、低速化すれば車体も小さくなる。しかし、いくら低速化しても、昔の大八車のように、大きな荷物を運ぶにはそれに応じた大きな車体が必要になる。引っ越し荷物や商店への商品配達など、ある程度の大きさの車両は縮小社会でも必要だろう。したがって、通行帯を考える場合は、図体よりも速度の面から区分する考え方も必要である。

道路交通に関する筆者の考えを簡単にまとめれば次のようになる:

(1)超低速車は設計最高速度30km/h程度以下。加えて幅1m、全長2.5m以下程度の自動車を超小型低速車と区分してもよい。

(2)車道(歩道、自転車《軽車両》)通行帯と完全に分離された自動車専用の通行帯)がない道路には超低速車以外の自動車の進入を禁止する(消防車、救急車など緊急の公用車両は除く)。緊急車両以外の、この道路における超低速車の制限速度は時速6km/h以下(すなわち歩行者と同程度)。

(3)車道のない道路で自転車(軽車両)通行帯が分離されている場合は、超低速車は自転車(軽車両)通行帯を走る。この場合、超低速車の最高速度は時速20km/h程度以下(すなわち自転車と同程度)。

(4)道路構造の面からは、自動車専用道路以外の道路(市街地、郊外、都市間の道路も同じ)においては、できるだけ歩道と自転車(軽車両)を分離する。自転車(軽車両)通行帯は超小型車の普及を考慮して広めに設ける。

(5)車道の設置は、歩道と自転車(軽車両)通行帯を区分してなお余裕がある場合に限る。

(6)車道がある場合は、超低速車は車道を走る。車道の交通規則も超低速車を優先する。

(7)図体の大きさによる区分に関しては、現在に準じて、道路によって一定以上の大型の車両を通行制限する。

(8)自動車の用途は近距離用(100km以内)と位置付ける(超低速車で長距離旅行することはもちろん可能)。

(9)長距離の高速移動は鉄道を中心に位置付ける(ただし鉄道も速ければ速いほどよいというわけではない。大都市間高速鉄道より地域に便利な鉄道が望まれる)。

(10)鉄道のない都市間交通で自動車に頼らざるを得ない場合、道路に車道がなければ超低速車しか使えない。これでも自転車並みの速度だから、現在より多少の時間はかかって実用的には大して困らないだろう。

(11)高速自動車道路や一般道路車道の設置は、鉄道が引けない地域に鉄道の代りとして位置付けるのがよい。

参考
(*)本ブログ2011年5月28日、2011年10月22日、2012年4月24日、書籍「縮小社会への道」、小論「縮小社会の自動車」http://vibration.jp/shrink/data/right11.pdf
2012年5月29日


  1. 2012/05/29(火) 13:19:35|
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