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縮小の時代

原発立地市町村の身勝手な論理

大飯原発3,4号機の再稼働には地元の許可が必要だが、問題はどこまでを地元とするかである。滋賀県や京都府も地元にあたるとそれぞれの知事は主張し、枝野経産相も滋賀、京都両府県の了解が必要としている。ところが、福井県の河瀬敦賀市長(全国原発所在市町村協議会の会長でもある)は、地元とは立地自治体だけだとしている。地元の範囲を拡大すると、再稼働に時間がかかるので、立地市町村には戸惑いや反発の声があるという。
ただし、河瀬市長は、周辺自治体の心配も理解できるので、原子力災害があった場合は日本全体が補償の対象地域になるとも言っている(以上は福井新聞WEB版2012年4月2日午後9時19分)。

立地市町村だけが地元だということは、自分達さえ再稼働を認めれば、他の自治体の理解は必要ないということである。いつか大地震が起こる可能性は非常に大きく、大地震となれば周辺の自治体にも甚大な放射能被害を与えることは明らかだが、それでも、周辺自治体の意見は聞くな、自分達の判断だけで十分だ、というのである。

もし事故があった場合は、全国が補償の対象になると言っているが、その補償はだれがすることを考えているのだろうか。立地自治体にも補償の責任があるとは述べていないところからすると、責任を取るのは電力会社や政府で、再稼働を許可した立地自治体には何の責任もないと考えているに違いない。周辺の反対には耳を貸さず、自分達の判断だけで再稼働を許可しながら、いざ事故が起こると自分達の責任はそっちのけ、100%被害者のような顔をしながら、さも周辺のことも考慮しているかのように、補償は周辺まで含めよという。

権利だけ主張し、責任や義務は人になすりつけて知らん顔をする。これは、現在の日本、特に政府、官僚、企業、学者達に広く蔓延している悪弊だが、世の中を指導すべき人達がこのような考えだから、日本という国が将来良くなってゆくはずはない。若者が希望をなくすのも当然である。

本ブログで書いたように(3月23日)、滋賀県や京都府の知事は、立地自治体と放射能被害を被った際の補償契約を結ぶべきである。事故の可能性は十分あるにもかかわらず、周辺自治体の意向を無視して自分達だけの都合で勝手に再稼働をする立地自治体の責任は非常に大きい。仮に契約の締結が困難でも、契約の交渉をする過程が全国に公表されれば、原発を誘導する立地自治体の義務と責任について、国民全体に広く考えさせる良い機会になる。
2012年4月3日


  1. 2012/04/03(火) 11:25:23|
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日本はまたしてもドイツの反面教師になるのか

第二次大戦の後始末については、日本は常にドイツと比較されて来た。ナチスの悪行を徹底的に反省し、その痕跡を一掃したドイツとは反対に、日本は戦争責任の追及も反省もいい加減に済ませて来た。

ドイツからも日本からも侵略を受けた中国が、ドイツに対してはあまり恨みを引きずっている様子がないのに、日本に対してだけはいまだに毛嫌いする民衆が多いのも、ドイツと日本の戦後処理の違いが大きな理由に挙げられている。中国や韓国朝鮮には近親憎悪や同じ極東の東洋人による戦略という、欧米に対するのとは違う感情も手伝っているのは否定できないが、それにしても、戦争責任をなるべく回避しようとする日本の態度は、中国人や韓国朝鮮人の反日感情をいやが上にも掻き立てる大きな理由になっている。

国内でも同じで、「一億総ざんげ」、「平和を願う」という情緒だけで、戦争を起こした人達や軍国主義の提灯を持ったマスコミに対する追及はあいまいのままである。岸信介など戦犯の亡霊のような人物さえ首相になった。軍国主義を鼓舞するような言論がいまだにあとを絶たない。

福島原発事故後の日本全体の動きも、これと全く同じである。政府、財界、学会からマスコミに至るまで、事故の責任をなるべく曖昧にし、脱原発論が広がるのを防ぎ、原発に群がる一致部の人達の利権を守ることのみに汲々としている。国民には放射能の危険性を教育し、原発のような危険なものに安易に依存しようとしてきたことへの反省を促す代わりに、「災害に負けない」、「頑張ろう」などという情緒を掻き立てることによって原発の本質から目を背けさせようとする。

この日本とは反対に、ドイツのメルケル首相は、いままでは原発容認派であったにもかかわらず、福島の事故を知ってその態度を180度転換して、脱原発に踏み切った。これにはもちろん、ドイツ国民の大きな支持があるからである。事故の被害を直接受けながらも未だに反省がない日本と、遠い国の事故を大きな教訓として今までの方針を徹底的に反省して方向転換を図ったドイツとの違いは、軍国主義と戦争責任に対する態度の違いと全く変わらない。

日本は再びドイツ人と比較されることになろう。ドイツ人は知性の高い、全人類に対する責任感を持った高度な文明人として尊敬される一方で、日本人は何の反省もできない、程度の低い人間として見下げられる。この「日本人の程度の低さ」は、日本が技術や経済で世界からの注目を集めれば集めるほど、一層目立つようになるだろう。かれらはなりふり構わず利益だけを追及する人間だと。

日本は再びドイツの反面教師になろうとしている。同じことを繰り返すのは日本人としてあまりにも情けない、恥ずかしい思いがする。教養ある外国人と堂々と胸を張って話すことさえ躊躇したくなるほどだ。日本人の優秀さ、日本人の文明の高さ世界に示したいのなら、日本は率先して世界中の尊敬の的になるような行動を取るべきである。尊敬される国とは、巧妙な技術に長けた国でも経済力の強い国でもなく、人類にとって真に正しいと思われることを思い切って実施する国である。原発に対するこれまでの態度、原発という危険なものに依存してきた生活態度や社会経済を深く反省し、直ちに脱原発を決意して全世界に模範を示したいものだ。
2012年3月25日

  1. 2012/03/25(日) 10:43:21|
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近隣自治体と原発立地自治体との補償契約

野田政権は大飯原発の再稼働を地元自治体に説得する意向のようだが、滋賀県については、知事が説明を求めているのに対して、説明の必要はないと言っている(3月16日産経ニュース)。大飯原発の再稼働には京都府も慎重であり、橋下大阪市長は明確に脱原発を表明している。

中央政府が原発の立地自治体に再稼働の説得をするということは、立地自治体が再稼働の拒否権を持っているということである。原発関連施設の建設もまた、立地自治体の同意がなければ立地できないことになっている。しかし、近隣自治体は、事故があれば大きな被害を受ける反面、立地による交付金などの見返りはないのに、その拒否権がない。

したがって、近隣自治体の意向に反して原発の建設や運転が進められる場合には、近隣自治体は立地自治体との間に事前に契約を結ぶとよい。その契約内容とは:

「事故や運転により放射能など好ましからぬ影響を少しでも受けた場合には、立地自治体は近隣自治体に補償をすること。この補償は、健康への直接被害はもちろんのこと、あらゆる精神的、経済的影響に対する完全な補償であること」である。

何か事が起こった場合、道義から言えば、立地自治体は、自県の被害より近隣県の被害を優先して補償するべきである。自分が起こした交通事故で他人が損害を被った場合、自分の損害より他人の損害を優先して補償しなければならないのと同じである。

このような契約は当然であり、必要である。このような契約があれば、立地県の住民も、原発の判断にはより慎重にならざるを得ない。近隣自治体は、このような契約を申し入れたらどうか。
2012年3月23日


  1. 2012/03/24(土) 14:30:29|
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技術的評価の名を借りた政治的判断

内閣府原子力安全委員会(委員長斑目春樹)は昨日、関西電力大飯原子力発電所が再稼働に問題なしという安全審査(ストレステスト)の結果を正式に認めた。野田政権はこれに基づいて地元 (福井県おおい町) 自治体に再稼働の説得を始める意向とのことだ。

原子力発電に関する判断機構の仕組みを見ると、次の事が前提になっていると思われる:
(1) 原子力発電の安全性判断は主観や政治的意図を排除し、完全に客観的、科学的な検討に基づいて行う。
(2) そのためには高度な専門知識が要求され、専門家でなければ正しい判断は不可能。

だが、前提(1)は幻想に過ぎない。客観的に見れば、地震や災害、あるいは人為的な事故はいつか必ず起こるし、将来何千年にもわたる放射性廃棄物の安全管理など誰にも保証できないから、科学的、客観的に絶対安全を保証するためには、原発はやめるしかないのである。したがって、これを敢えて安全と判断するのは、もはや技術的判断でも科学的判断でもなく、政治的判断である。

前提(2)もまた幻想である。原子力安全委員会は、原子力発電を実施するという前提のもとに置かれている組織である。4月からは原子力規制委員会と名を変えるそうだが、それでも本質は全く変わらない。原子力発電所はやらないと国が決意すれば、規制委員会すら必要ないのだ。

したがって、原子力安全(規制)委員会の結論は初めから「許可」に決っている。彼らには「不許可」の選択はないのである。仮に一時的に不許可でも、いつまでも不許可を通すことはあり得ない。委員の中には速やかに脱原発すべきだという考えを持った人もいるかも知れないが、それが多数派を占めることはあり得ない。必ず賛成派が多数を占めるような委員人事になるだろう。

このように、原子力安全委員会の結論は、高度な専門知識を持った人達による科学的な判断を装った結論だが、彼らには真の科学的な判断は不可能である。実際には科学の名を借りた、一方的な政治的判断であり、原子力安全委員会は国家によるごまかし機構の一つに過ぎない。

こうまでしてなぜ原子力発電にこだわるのか。原発を推進あるいは容認する人のただ一つの理由は経済のために必要、それだけである。彼らとて原発が完全に無害かつ安全で、将来に負の遺産を残すことが全くないなどと思ってはいないだろう。それでも、経済を維持するため、国際競争に負けないためには原発は欠かせないというのだ。だが、彼らの経済とは人間が生きるために必要不可欠な経済ではない。カネが増え、モノに溺れ、不要なモノに囲まれてもなお飽くことを知らない「もっと欲しい経済」だ。

「もっと欲しい経済」がすでに地球の限界を超えており、持続不可能であり、もはや幸福でなく不幸をもたらすものなっていることは科学者でなくてもわかる筈だが、「もっと欲しい経済」こそ人生を幸福にする唯一の道だと信じている彼らは、狂信的宗教に憑かれた信者と変わらない。技術や科学の専門家も、この宗教に捉われている限り、真の科学者技術者ではあり得ない。彼らの判断は専門的知識に基づく科学的判断ではなく、狂信的宗教に基づく政治的判断なのである。
2012年3月23日


  1. 2012/03/24(土) 11:47:36|
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専門家の危険な判断

関西電力大飯原子力発電所3,4号機のストレステストの結果、原子力安全委員会は安全と判断したようだ。再稼働の最終的な判断は政府が行うとのことだが、命より経済を優先する野田首相だから、いよいよ再稼働に向かって進む危険性が増してきた。

技術の安全性について、殆どの場合は科学や技術の専門家に判断がゆだねられているが、それは極めて危険である。原子力発電所が事故を起す可能性はほどんどゼロだ、仮に何かあっても二重、三重の安全装置がほどこされているから、大事に至ることは絶対にないと強く言って来たのはほかならぬ専門家である。そして、非専門家が疑問や心配な点を投げかければ、それは取るに足らない素人判断だと無視されてしまう。その結果はご覧の通りである。

原発に限らない。建築物でも同じだ。どんな地震でも絶対に大丈夫だと建築家が太鼓判を押したはずの高速道路が阪神大震災で崩壊した。専門家によって安全性には心配がないとされていた多くの化学物質が、その後危険であることが分かった例も枚挙にいとまがない。

このブログでは、以前に、政治家による安全宣言は不安全宣言と同じだと書いた(2011年6月30日)。自分で実際に確かめたわけでもなく、確かめるだけの知識もない政治家が専門家の一方的な進言をそのまま鵜呑みにして安全だと世間に向かって宣言する。これは素人の安全宣言が信頼を置けないことを書いたものだが、実は、政治家の判断のもとになっている専門家の安全判断がそれ以上に危険なのだ。

我々の生活は高度な技術に囲まれている。その技術はどれも必ず負の側面があり、中には非常に大きな危険を及ぼすものもある。ある技術を受け入れるかどうかは、個人個人の判断であって、仮に専門家が心配ないといっても、受け入れる側には、嫌なものは拒否する権利がある。ところが、安全かどうかの判断には高度な専門的な知識が必要だから、素人が関与すべきでない、という変な論理がまかり通る。

専門家がいくら安全だと判断しても、原子力発電は嫌だと国民が言えば、それを尊重しなければならない。国民の代表である政治家は、原子力安全委員会が如何に安全を主張しても、原発は国民が好まないからやめるべきだと堂々と主張すべきである。専門家の論理に引きずり込まれたら素人の勝ち目はない。

専門家は常に自分の分野を推進する側に立とうとする。だからこそその専門分野に入ったのであり、専門家になった以上、それを推進するのが心意気だと思うのである。それゆえ、どんな技術にも必ず負の側面があるのだが、どうしても専門家は益を過大評価して負を過小評価してしまう。だからこそ、専門家に判断をゆだねることは危険なのである。

専門家の視野がなぜ狭くなるのか。それは、人間を特定の専門分野に特化することが経済効率を上げることになるからである。そのためには、専門バカになる方がよい。こうして専門バカが大量生産されているのが今の社会である。専門バカの最もバカなる由縁は、自分の専門分野を神聖であり、自分にとってはそれが唯一であり、それを推進することが社会にとって有益であると思い込んでしまうことである。

専門バカにならないためには、自分の専門分野に捉われず、常に人間や社会という総合的な、一段上の観点から物事を判断しなければならない。

人間を薬漬けにすることが自分の使命であり、薬学の目的であると思っている医薬品の専門家はいないだろう。逆に、医薬品をなるべく使わずにすませることが彼らの本当の使命と思われる。したがって、世の中を技術で満たすことが技術者の使命ではないのである。余分な技術はできるだけ使わずに済ませることが技術専門家の重要な使命と考えるべきである。
2012年3月14日


  1. 2012/03/14(水) 11:28:20|
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