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縮小の時代

日本の憲法にはルーズベルトの理想が反映した

憲法の変更を主張する人達は、今の憲法はアメリカの押し付けだからという理由を掲げている。本音は戦争放棄の第9条を廃止して武力行使を可能にするという、改正ではなく改悪、歴史の後退である。

もちろん、現在の憲法が必ずしも最高に理想的とは限らない。第9条は理想に近いと言えるが、その他の条項には再検討の余地もあるだろう。したがって、日本の憲法はどうあるべきかという根本的なところから議論を始める必要があるという学者の意見は、正当ではある。しかし、現在の日本国憲法には、より理想的な社会を目指すという立場から見て、急いで改正しなければ困るところは特にない。そんな現在、憲法改正の議論を始めれば、必ず議論は第9条に集中し、議会の数の力で強行され、改正より改悪の方に進む可能性が非常に高い。したがって、今は憲法変更の論議を持ち出さない方が良い。

現行憲法がアメリカの押し付けだからという理由は、全く議論にならない幼稚ないい訳に過ぎない。それほど日本の自主性を重んじるなら、まずは政治・経済・文化のアメリカ追従をやめるべきだ。政治と経済は、現在の全球化(Globalization)の中では、欧米諸国とある程度歩調を合わせる必要があったとしても、それでも日本のアメリカ追従は欧州諸国よりも酷い。

文化面にいたってはもっと酷い。アメリカ追従の必要は全くないにもかかわらず、日本人は進んで日本の伝統文化を捨ててアメリカ文化の真似をしている。日本語より上等で格好がよいと思うからだろうか(本当はみっともないのに)、世の中は、日本語で十分表現できるところまでもどんどんカタカナ英語に変り、昭和時代の日本語でさえ、多くが古語になろうとしている。次々出来る新しい集合住宅はほぼ100%カタカナ英語(一部は他の欧州語)だし、公共施設や公用文書までも安易なカタカナ語が余りにも多い。東京のスカイツリー、宇治の源氏物語ミュージアムなど、日本の名所にしたい建造物や日本文化の象徴的施設さえも、カタカナ英語を付けたがる。商店街では、店の名前がほとんどカタカナまたはローマ字の外国語であり、テレビのFM放送番組表もカタカナ外国語の羅列である。

安易なカタカナ外国語使用は、日本語の造語能力を損なっている。明治時代は、西洋から入った新しい抽象概念に新しい日本語が次々と作られた。経済や哲学という言葉がそれである。今は、何でも外国語をそのままカタカナで表すため、新しい、美しい日本語が生まれなくなった。電脳用語など酷いものだ。日本語の新語が現れても、「ださい」とか「やばい」とか、口にしたくない汚い言葉ばかりである。小中学校でも、日本語の古文や漢文や日本史よりも英語教育の方が重視されている。これでも「日本独自の」憲法をと言い張る資格があるのだろうか。

話を戻そう。現在の平和憲法は、当時のアメリカの理想が反映したものである。1941年1月、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは議会に「4つの自由」を発表した。当時はソ連が急激に力を増し、労働運動や社会保障への国民の声が高まった時代でもあった。社会主義化への傾向を抑えるためにも、アメリカ合衆国を更に進んだ、世界に冠たる民主主義国家にしなければ、という機運が盛んだった。当時のアメリカは、第二次大戦への参戦は避けられない状況にあったが、戦争は単に敵を倒すためではなく、それまでの世界とは違った、新しい時代への転換点にならなければならないという考えがあった。全体主義からの最大の防御は、貧困も戦争もない良い社会を造ることと考えられた。

4つの自由とは:
①言論と表現の自由;
②宗教の自由;
③必要からの自由(すべての国の全ての人民に健康で平和でな生涯を保障すること);:
④恐怖からの自由(世界的軍縮、どの国も、どの国に対しても武力を行使しない);
である。

これは、単にアメリカ国内だけでなく、全世界、人類の全体を視野に入れた普遍的な考えである。4つの自由は多くの人に支持された。その4年後、第二次大戦の勝利がほぼ確実になった1944年、フランクリン・ルーズベルト大統領は、第二権利章典(Second Bill of Rights)を発表した。それは、経済的な保障と独立のないところに真の個人の自由は存在しないという理念の下に、
・有益で報酬のある職業につく権利;
・十分な衣食と余暇が可能な収入を持つ権利;
・農民が自分で栽培し、家族がまずまずの生活ができる価格で販売する権利;
・すべての職業人が、不公正な競争と独占がなく取引する権利;
・すべての家族がまずまずの住居に住む権利;
・十分な医療を受け、健康を達成して楽しむ権利;
・高齢、病気、事故、失業による経済的恐れから十分に保護される権利;
・よい教育を受ける権利。
を唱えたものである。これに先立つ1936年ルーズベルトは大統領は、「私の政権は商売と金融による支配に直接挑戦する初めての政権だ」と述べている。

当時のアメリカ政府が最も警戒していたのはファッシズムである。1947年の議会調査局(Legislative Reference Service of the Liberty of Congress)の調査報告書は、ファシズムの特徴として大企業好み、重工業の強化、エリートの利益追求を許す、カルテル化、巨大な軍事費、労働者の団体交渉および労働者による自治政府の禁止を挙げており、4つの自由と第二権利章典は、このファシズムへの最善の対抗になるものだった。

第二次大戦で日独伊のファシズム国家が敗北すると、ファシズムへの恐れは急激になくなり、ルーズベルトの理想はアメリカの憲法にも法律にも実現することがなかった。しかし、敗戦した日本を管理下に置いたアメリカは、日本のファッシズムの復活を防ぐことに最大の注意を払い、日本の憲法にルーズベルトの理想を盛り込んだのである。第9条は、4つの自由の一つである。

ルーズベルトの理想は、資本主義体制の枠内ではあるが、当時のアメリカとしては、人類社会が実現すべき最高の理想であった。自国のアメリカでは、その後の冷戦によって実現していないが、占領下にある日本だからこそ実現した。形の上では押し付け憲法ではあるが、決してアメリカ流の、アメリカ好みの思想の押し付けではなく、全世界に共通する普遍的な理念である。日本としても、もし日本が独自に憲法の草案を作ったとしたら、ここまで優れた憲法は出来なかっただろう。日本国憲法制定のいきさつは、日本にとって却って幸運だっといえる。

同じことはドイツにも言える。戦後の憲法を作ったのはドイツ人だが、やはりルーズベルトの理想が反映しているという。戦後最も急速に繁栄した国が日本とドイツであったのは、まさにこの平和主義の賜物である。

以上のように、日本国憲法はアメリカの押し付けだから自主憲法を、という理屈は、憲法という日本の将来、日本ばかりでなく人類の将来を左右するかもしれない大切な事を論議する根拠にはとしては、余りにも浅薄に過ぎる。それに、現在の日本では第9条を守るべきだという意見も、安部政権の戦争法案に反対する意見も大半を占めている。戦争法案を強引に通した安部自民党を中心とする政権が仮に憲法を変更したら、それこそ安部政権による押し付け憲法以外の何ものでもない。世界一の平和憲法に代わって、それより何段も落ちる憲法を押し付けられた日本人は、世界の、後世の笑いものにしかならないだろう。
(参考書:Robert W. McChesny and John Nichols "People Get Ready" Nation Books, 2016)

追記:
1980年代以後のアメリカは、ルーズベルトの第二権利章典からも却って遠のいている。アメリカの政治経済に追従している日本も同様である。一部への富の集中が激しくなり、格差が広がり、労働者の雇用条件も、社会福祉も悪化している。それにも関わらず、そんな日本に導き、その路線を踏襲し続けている自民党およびその亜流を、日本国民は相変わらず支持している。

そんな中で、アメリカの民主党大統領候補としてクリントンと争ったバーニー・サンダースは、ルーズベルトの第二権利章典を掲げ、人民による人民のための政治の推進を訴えている。彼は社会主義という言葉さえ口に出し、多数のアメリカ人の熱狂的な支持を受けている。もう少しのところでクリントンに敗れたのは残念だったが、「経済的な保障と独立のないところに真の個人の自由は存在しない」という理念の下に、富者と大企業のための政治から庶民のための政治に大きく転換する政策を掲げたサンダースがこれほどの支持を受けているのは、アメリカも本当に変るかも知れないという希望を抱かせる。少なくとも、戦後長い間禁句になっていた社会主義という言葉を、もはや禁句でなくしたことは大きい。そんなアメリカになったら、日本も追従してよい。■
2016年8月5日
  1. 2016/08/05(金) 16:09:29|
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道徳教育は必要だが

日本では、小学校は2018年度から、中学はで2019年度から道徳が教科になる。道徳を教科にすることには反対の声もある。その最も大きな理由は、一定の価値観、特に政府や現体制に都合の良い価値観の押し付けてはいけないということだろう。学校での国旗掲揚や国歌斉唱の義務化、従わない教員への罰などは、確かにあってはならないことだ。現在の安部内閣が軍事国家を目指し、言論の制限を強化していることも、道徳の教科化がますます安部好みの道徳観を強制するのではないかという懸念がある。

確かに、現体制の下での道徳教科化は、危険の面がある。だが、だから道徳教育がいけないというのは、道徳をいうものを十把ひとからげにしか考えていない、少々荒い論理である。

愛国心、国旗、国歌、天皇制、愛社精神、愛校心、上司や権力者への従順を強制するのは、権力者に都合の良い思想を押し付けることで、道徳の本質ではなく、むしろ、本当の道徳に反する。これらが心のうちに自然に生ずるのは良い。しかしそれは教えられるからではなく、自分にとっても誰にとっても本当に素晴らしい国であり会社であり学校だと実感するからこそ自然に生じるのであり、そう思わせるような国や会社や学校にすることが先決なのである。

本当の道徳とは、他人を配慮する心、すなわち自分を尊重すると同様に他人を尊重することにある。これは個人的自由の最大化とは矛盾することがある。自由には相対的な面もあり、一人の自由は他人の自由を奪うことによって拡大する場合があるからだ。したがって、自由も他人への配慮を失わない範囲に限定する必要がある。自由とは、他人の同様な自由を損なわない限りにおいて認められるのである。

他人への配慮は、社会にとって最も必要で、これがなかったら社会は成り立たない。全ての人間が、他人のことは全く構わず、ただ自分の利益のために、自分勝手に振舞う状況を想像してみるとよい。そこには、愛も、感動も、感謝も、文化もなく、したがって幸福を感じることは絶対にないだろう。それでは社会という集団を造って暮らす意味がない。動物の群れの方がましなくらいだ。

現在の教育は、戦前戦中の嫌な経験からでもあるが、道徳を完全に無視している。これがそもそも間違いで、一切の道徳教育を拒否する前に、何が必要な道徳で何が教える必要のない道徳かをきちんと検討すべきであった。政治的中立と同様、道徳にも中立はあり得ない。道徳に全く触れないことは、結果的に、社会一般に流布している道徳感に染めることになる。自然に流布している道徳感も政治思想も、結局は時の支配層の道徳感であり政治思想に偏っている。

現在の社会は利己主義から成り立っている。他人のことを考えず、自分の利益のためにだけ最善を尽くせ、というのである。これは現在の自由市場経済を信奉する経済学者や、そういう社会の恩恵を受ける強者が振りまいている道徳感である。その結果が現在の社会に蔓延している格差であり、雇用条件の悪化であり、人種・身分差別であり、人間不信であり、環境破壊であり、犯罪である。利己主義社会は既に末期的な症状を示している。

道徳は学校でもきちんと教えるべきである。家庭での教育も大切だが、学校での教育はより効果が大きい。したがって、道徳を教科にすることは賛成だ。ただし、他人を自分と同じように大切にすること、自分がして欲しくないことは他人にもしないこと、自分の利益のために他人の利益を犠牲にしないこと、など等、一言で言えば「他人を配慮する心」それだけでよい。これは絶対に必要なことである。そこから生じる礼儀作法も教えて良いかも知れない。上位者への無条件の服従は道徳とは言えないが、年長者に敬意を払うことは悪いことではない。誰でも必ず年長者になるから、これは平等に反しない。それ以外は、特に愛国心や国旗・国歌、天皇への無条件の崇拝は絶対に教えてはいけない。

道徳の教科化には賛成でも、現在の状況では、愛国心や国旗・国歌の義務化、上位者への服従など偽の道徳に重点が置かれてしまうという懸念はある。道徳教育をする側に正しい道徳感がなければ、正しい道徳教育はとうていできない。現在の社会や、文科省に管理された教育界にあるのは、正しい道徳感よりも、むしろ危険な偽の道徳感が強い。他人、特に弱者への思いやりなど露ほどもなく、ただ己の物欲と権力の位置にいたいだけの政治家ばかりがうようよしている。こんな現在では、今すぐ道徳の教科化は心配だ。子供の道徳教育をする前に、大人が、社会が、とくに政治家をはじめとする社会の指導的立場にある人達が正しい道徳を身に付けなければならない。

また、教科になっても、それを点数で評価してはいけない。他人への配慮は点数ではなく、これに点数をつけたら、他人への配慮でも思いやりでもなくなり、自分の利益のためになってしまうからだ。それでは道徳でない。■
2016年7月26日
  1. 2016/07/26(火) 12:19:13|
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縮小社会とは何か その1 最小限の必要条件

はじめに
本ブログでは「縮小社会」という言葉をしばしば使っている。縮小社会は現在より何かが縮小した将来の社会であることは確かである。昔の社会は現在から見ればみな縮小社会であり、そこには共通する何かがあった。しかし、歴史の完全な逆戻りはあり得ず、既に科学と技術を知り、民主主義・大量消費の文明を経験した我々が目指す縮小社会は、昔と全く同じ縮小社会ではない筈である。それでは、将来の縮小社会とは一体どんな社会を指すのだろうか。実は、筆者が属している「縮小社会研究会」でもはっきり定義されているわけではない。

これはむしろ当然で、誰でも普通に使っている資本主義国、社会主義国という言葉でさえ、その定義も本来あるべき姿もはっきりせず、資本主義国を自称する日本には中国以上に社会主義的な面もある一方で、社会主義国を自称する中国が日本以上に資本主義的な面を持っている。人が「何々社会」という名称をつけても、それはこうであってこれ以外ではないと、線で土地の区画をするような輪郭づけが目的ではないし、無理にそんな輪郭づけをしてもあまり意味がないのである。言葉の役割は物事を区別するためだが、それは必ずしも境界を確定することではない。境界が確定できないのは物事の本性から来ており、例えば男と女、植物と動物、自動車と自転車など、自然物か人工物かに限らず、必ずどちらとも区別できない部分が存在する。まして、社会は様々な考え方を持って様々な行動をする人間の集団だから、物質以上に輪郭がぼやけているのが普通である。縮小社会についても、万人が認める標準的な定義を決め、こうでなければならないという標準的な具体像を描くことは不可能だし、無意味なのである。それぞれの社会や個人が、自分達に最も適している在り方を考え、実践して行けばよい。

何をもって縮小社会と称するかは、そこの住民が何の縮小を重要と考えるかに左右される。これはそれぞれの社会の歴史的、地理的、文化的など様々な条件にもよるから、国によって異なるし、同じ国でもその時の状況によっても異なる。したがって、以下に書くのは、現在の地球全体にも、日本を初めとする個々の国や社会にも通ずると思われる縮小社会と呼べるために最小限必要な条件、つまり、縮小社会の核をなす部分についての私個人の考え方である。あくまでも私個人の考えであって、それが標準的でもなければ絶対的でもない。しかし、今の段階では、これが最もわかりやすく、確実に実施に移せるのではないかと思う。

結論を先に書くと、最小限の必要条件とは環境の持続可能性を回復すること、そのためにはまず化石燃料消費の厳格な総量規制に踏み切る事、および、それに付随して、所得の平等化を図る事である。それが縮小社会に近づく第一歩で、それさえ実行に移せば、縮小社会に関する諸々の具体的議論は差し置いても、縮小社会に向かって大きく舵を切ったと言える。

縮小社会が目指すこと
縮小社会は拡大社会である現在と対極にある。現在の社会は、何事も「より多く、より多様に、より速く、より遠く」が進歩であるいう拡大主義の考えが浸透しており、それはそのまま人間は皆他人を考慮せず自己の利益だけを追うのが最も効率的だという利己主義を基本とした経済成長主義と一体になっている。その最強の道具が科学に基づいた技術である。しかし、何事も無限の拡大が不可能であるように、経済も既に地球環境が許す限度を超えて肥大化し、環境汚染、資源の先細り、不平等な格差など致命的な病状を呈している。

経済生産とは資源を金銭に換えることに他ならない。現在は「金銭は富であり、富とは金銭である」と錯覚した金銭至上主義の世の中で、ただGDPという空虚な数値を増やすだけのために貴重な自然資源をせっせとつまらぬ商品に変換している。しかし実際は、金銭はそれ自体が富ではなく、実体財との引換券という虚構の富に過ぎない。自然環境にとって、金銭は負債であり、資源を強制的に供出させる令状である。自然資源をつまらぬ商品に換えて金銭を得ても、真の富である自然資源が減少するだけで、社会には何の得にもならない。自然資源の減少が加速している現在は、経済規模は既に適切な程度を超え、これ以上GDPを増やすことは困難になっている。無理に消費を増やせば利より害の方が大きく、既にその段階に来ている。仮に資源消費を減らしながらGDPを増やせても、それは貨幣価値を落とし、バブル化することでしかない。

それにもかかわらず、日本も、世界の国々も、相変わらず経済成長の幻想に浸ってひたすら「成長戦略」ばかり考えている。本来の政治家は、一般の人々以上に先見の明があり、人間の求めるべきより理想的な社会を実現したいという道徳的意思を持っている筈だが、現在は、そんな政治家は世界中を探してもほとんど見当たらない。歴史的な大局観も正義感も乏しく、すでに危機が目前に迫っているのに、それを知らずか無視してか、超目先の利益を追って舞台で踊ることだけを仕事とする小人ばかりのようだ。人々の暮しが豊かになるどころか、却って貧しい人が増え、様々な社会的歪が現れているのは当然である。

このまま行けば、将来に見えるのは、ますます減少する資源を巡る奪い合いの激化であり、正義も道徳も薄れ、多くの人々が悲惨な思いをする崩壊した社会でしかない。既に戦争の危機が拡大しつつある。縮小社会の究極の狙いは、そんな社会の崩壊を防ぎ、利己主義と利己主義が競争して経済を拡大すれば皆が幸せになるなどと言った馬鹿げた妄想を捨て、人間同士が互いに尊重し、協力し合い、正義や道徳が通じる社会にすること、言い換えれば、近い将来に社会の崩壊を招くことが明らかな原因を取り除き、社会を持続可能な状態にすることである。 社会の縮小化は選択の問題ではなく必然である。選択できるのは自然のなり行きに任せるか、その前に計画的に縮小するかのいずれかでしかない。前者の場合は多くの人間が悲惨な目に遭い、後者の場合はそれが防げる。ちょうど、燃料が尽きかけている飛行機にいつまでも空中に留まるという選択はなく、選択があるとしたら、墜落を待つか、その前に着陸するかのどちらかでしかないのと同じである。従来の考え方を根本的に変えずに、経済の許す範囲の対策や効率向上などの環境技術だけに頼ろうとするのは、エンジン効率の改善で問題が解決できると考えるのと同じで、仮に航続距離が多少伸びても、着陸しなければ結局は墜落する。

縮小すべきは人間活動の物理的規模
現在は絶えず経済成長を続けなければ成り立たない社会になっているが、縮小社会は絶えず縮小し続ける社会ではなく、次の最小必要条件を満たすまで縮小すれば、それ以上の縮小は必ずしも必要ない。その最小必要条件とは「人間活動の物理的規模を環境が持続可能になるまで縮小すること」である。その理由を三つ挙げる:

第一に、食糧を始め生きるために必要なすべての物質の供給源であり、廃棄物の完全処理場であり、かつ精神の拠り所である自然環境が、人間の過剰な収奪によって疲弊し続け、既に持続不可能な状態に陥っているからである。いかなる社会であれ、健全な社会が存続するためには、まず自然環境の持続可能性回復が絶対である。自然環境の破壊は、資源は無限にあり、それを使えば生活の物理的規模を無限に拡大して無限の幸福が得られるという誤った考えがもたらした。したがって、地球の限界を認め、物理的規模を縮小することが、環境の持続可能性を回復する不可欠な条件である。

第二に、環境の危機は技術の進歩で解決できると安易に考えている人が多いようだが、それは不可能で、人間活動の物理的規模の縮小しかあり得ないからである。現在多くの人々が考えている技術進歩とは、従来以上に複雑巧妙で、貴重資源を多量に使用し、生産コストが上がる技術である。環境にやさしいと宣伝され、人々の期待を集めている「いわゆる環境技術」も、ほとんどはその範囲を出ない。これらは拡大主義の延長にある技術だから、そんな技術が普及した場合、生産・使用・リサイクル・最終的な破棄という全過程を地球規模で総合的に考えれば、結果的に資源や化石燃料の使用量が却って増大する可能性の方が高い。環境負荷の正確な分析は不可能なので、楽観的な見積りに騙されやすいが、経費が上昇することや、それが経済成長になると考える経済専門家がいることも、却って環境負荷が増大する可能性が高いことを示唆している[1]。個々の製品のエネルギー効率も、総量規制が無ければ、却ってエネルギー総消費量を増やすことにしかならない。これは、効率向上はその製品の大量使用を前提としているからである。縮小社会の技術に要求されることは、効率向上や機能・性能の拡大より、とにかく資源やエネルギーや廃棄物を総量として小さく抑え、決して増やさないことが絶対優先だから、結局は物理的規模の縮小である。それは、機械への依存を減らすこと、機能や性能の簡素化、小型化、ハイテクよりローテクという、今迄の技術とは方向の逆転であって、資源の総量制限が実施されなければ、そのような逆転は起らないだろう。
[1]石田靖彦、"試論:お金のかかる環境保護は本物か" 縮小社会研究会 第8回研究会資料 2011.4.3 http://shukusho.org/data/8-3.pdf

第三に、物理的規模の拡大をやめれば、無限の経済成長への幻想がなくなり、それに伴って、成長主義経済がもたらした環境破壊以外の様々な問題、すなわち格差、不平等、人間疎外といった正義や道徳に関する種々な社会的歪もおしなべて改善され易くなるからである。凡そすべての社会問題は、正義や倫理に反すると理性が教えるからこそ社会問題になるのであって、問題の根源は、他人を踏みつけても自分の利益だけを最優先すればよいという現在の成長主義経済思想から来ている。したがって、経済成長主義がなくなれば、利己主義のぶつけ合いよりも協力の方が重んじられ、多くの社会問題がより解決しやすくなるだろう。

言うまでもなく、物理的規模の縮小だけで社会が完全に持続可能になるとは限らない。例えば、小規模な農業でも、いつかは土地が疲弊してしまう可能性もあるし、社会を崩壊に至らしめる理由は自然環境の破壊以外にもある。しかし、社会の持続を不可能にする原因をこと細かく探求しての一切合財を取除いた完璧な持続可能型社会を提案することが現在の必要ではないし、不可能でもある。それを待っていたら何も進まない。今必要なことは、現在の最も重要かつ緊急の課題である自然環境の持続可能性を回復すること、そのための必要最小限の方策の実施に踏み出すことである。縮小社会の定義はわからないと上に書いたが、縮小社会とは、様々な具体的様相まではっきりしたモデルを指すのではなく、物理的規模を持続可能な範囲内に抑えることによって生じた社会が縮小社会であり、各部分の具体的な様相には様々な形があり得ると考え方がよい。

三項目の必要条件
人間活動の物理的規模と言っても、例えば人口、利用する土地の広さ、移動距離、使用する物質やエネルギーの量など様々あるが、最小限の必要条件は次の三項目である:
①再生可能資源(生物資源等)の利用量を再生量以下に抑える;
②非再生可能資源(化石燃料等)の利用量は、残存可採年数を減少させない範囲に抑える;
③環境への排出量は、環境が完全に同化処理できる量以下に抑える。

これは、有名な「持続可能であるためのデイリーの三原則」のうち、非再生可能資源に関する項目②を私なりに修正したものである。①、③は誰が見ても当然で修正の必要はない。これらについては、現在既に規制されているので、今後も必要に応じて規制の範囲を広げながら強化して強化して行けばよい。非再生可能資源については、デイリーは、利用した分だけ代替となる再生可能資源に投資すること、例えば、年間に採掘した石油と同量のアルコール燃料を毎年作れるだけの樹木を植えればよいと書いている [2]。しかし、石油にせよ、他の化石燃料や金属資源にせよ、質・量共に代替できる再生可能資源は事実上存在しない。例えば、石油は燃料以外にもアルコールで代替できない種々な用途があるし、金属元素にはそれぞれ他の元素では代替できない特質がある(だからこそ様々な種類の金属が適材適所で使われている)。太陽光発電等への投資でも、その発電装置が老化すればそれで終りだから代替にならない。
[2]DALY, Herman E. "Toward Some Operational Principles of Sustainable Development" Ecological Economics, 2 (1990) 1-6 なお、デイリーは、旭硝子財団が主催するブループラネット賞の今年の受賞者になった。

化石燃料や金属などの非再生可能資源は、賦存量が有限である以上、如何に少ない消費でも永久に消費し続けることは不可能で、完全に消費を止めない限り持続可能にはならない。しかし、いま直ちにすべての消費を止めることもできないので、徐々に消費を減らして行くしかない。将来の世代との公平を考慮すれば、これからは「残存可採年数を減少させない」のが最も妥当で、これ以外にはないだろう。これは完全ではないが準持続可能な状態と言える。この方法は、現在の残存可採年数を50年とすると、消費量を毎年2%ずつ削減させることを意味する。現在の残存可採年数が100年なら、毎年1%の消費削減となる。毎年2%の削減は、その気になれば大した混乱なく十分可能だと思われるが、それでも35年毎に総使用量を半減させなければならないから、かなりの大幅な削減になる。埋蔵量の確認は種々な問題を伴うが、科学的根拠と公表を原則にする必要がある。

核心は化石燃料
上述した物理的規模縮小の三項目の中でも、その核心として真っ先に実施すべきは化石燃料の消費削減である。化石燃料は現在の世界のエネルギー消費の大部分を占めている。化石燃料は人力や畜力は無論の事、水力、風力などの物理的な天然エネルギーと比べても桁違いに高密度のエネルギー源であって、それまでの文明の在り方を一変した。この高密度エネルギーの生成には何万年分もの太陽エネルギーの凝縮を必要としたのであり、現在の太陽エネルギーをその場で転換した「再生可能エネルギー」が化石燃料の代替になり得ないのはそのためである。(「再生可能エネルギー」とカッコ付きで書いたのは、太陽光発電も風力発電も真の再生可能エネルギーではないからである[3]。)
[3]本ブログ 2013年11月18日 "自然エネルギーも虚偽表示だ"
http://shitou23.blog.fc2.com/blog-entry-159.html

化石燃料はまだ豊富にあるので、本当に枯渇するのは遠い先だと一般に信じられているようだが、それは現在の大量消費生活と一層の経済成長を続けたいという願望が現実を見る目を覆っているからに過ぎない。資源を持つ国や企業の秘密主義にもよる。実際は良質で採掘簡単な資源から採掘されて行くので、後に残る資源ほど質が悪化して採掘に必要なエネルギーが多くなり、実質的に取得可能な正味のエネルギーは、見かけの埋蔵量より急速に減少してゆく。大量にあると言われているシェールガス、シェールオイル、メタンハイドレートなどの「新化石燃料」も、劣化した化石燃料資源と同じだし、もし安く大量に使えればそれも早々に底をつく。化石燃料の価格は資源の劣化と共に高くなるので、完全に枯渇する前に大量使用が不可能になって現在の経済が続かなくなる。

種々な化石燃料は必ずしも相互代替にはならない。特に輸送交通エネルギーの大部分を占めている石油は、世界の産出量が既に歴史的な頂点を超え、供給力はこれから年々下がる一方で、物流の広域化と途上国への自動車普及で需要はますます高まっている。産油国も自国での消費が急速に上昇中で、輸出の余裕がなくなりつつある。近い将来の高騰は避けられず、そうなると輸送交通が途絶え、食糧や生活用品の高騰を招いて、庶民の生活に大打撃を与える。そうなる前に一日も早く総消費量の削減を開始し、それに合わせて社会や生活の在り方を変えて行き、社会資産として後世に伝えること、これが現代人に残されたせめてもの義務である。

化石燃料の大量消費は現在の技術文明と拡大社会の根源であり、もし化石燃料がなかったら、これほどの経済成長も環境破壊もなかった。したがって、化石燃料の消費を大幅削減させれば、その結果としてあらゆる方面の人間活動が縮小の方向に向かい、①、③の条件も波及効果として自然に満たされる可能性がある。 逆に、化石燃料の削減なしには、いかなる縮小を図っても自然環境の持続可能性は回復できないから、真の縮小にはならず、社会の崩壊は免れない。

化石燃料の大幅な消費削減は、前述のような達成目標を法律化し、確固とした政策を実施しない限り、効率向上技術でも、個人や企業の自主的行動でも不可能である。総量規制のない単品の効率向上は、却って使用時間や普及率の増加を促し、社会全体としては却って消費量を増加させるのが一般的である(リバウンド効果)。自主的な節約だけでは、現在の生活水準を大きく変えるところまでは行かない。総量規制の実施方法はCO2の排出削減と実質的に同じで、既に割当制度、炭素税(あるいはエネルギー税)など様々な方法が提案されている。国際的な協調も必要だが、仮にそれが困難でも、自国だけでも実施する決断が必要である。どのみち、化石燃料消費の縮小は経済の国際化を縮小させ、一国主義の傾向を強める。
CO2排出削減が目標通り行かないのは、物理的な困難からではなく、目標の絶対達成という覚悟がないからに過ぎない。これが経済成長より優先すべき課題だという認識に欠け、本心はやりたくないために、代替手段(質・量共に化石燃料に代替するエネルギーの普及)が不十分という物理的障害に問題を置き換えていつまでも先延ばししているのが現状である。代替手段の有無に関係なく早く削減に踏み切ることが先決で、これは、食べ過ぎによる肥満を治すには、好きなだけ食べても太らない方法を探すしてぐずぐずしているより、まず節食に踏み切ることが先決なのと同じである。

化石燃料制限が偽のエコを淘汰する
現在の世の中でエコと言われている技術の多くは、化石燃料消費の削減になると信じられている。太陽光発電、風力発電、電気自動車、ハイブリッド車、水素燃料電池、家庭用蓄電池等々。しかし、本ブログでも度々取り上げているように、これらが本当に全体として化石燃料消費の削減になるかどうかは非常に疑わしい。エネルギー以外の環境技術、例えば紙や金属のリサイクル、排出物の処理技術なども、それらの普及によって化石燃料消費が増えるようでは真のエコにならない。
これらの技術がエコだと信じられている理由は、その技術製品の生涯(原材料およびエネルギーの生産から部品や本体の生産、生産物の配送、使用、使用後の処理という全過程を含む)にわたる化石燃料の消費量や、その他の環境負担の評価(生涯環境影響調査 LCA)を正確に行うことが事実上不可能だからである[1]。評価が困難という事は、実際に実用段階に入っても、大量に普及するまでは負の面が見えて来ない事でもある。それ故、技術への信仰が強い現在の社会では、企業寄りの人達が行う、負の側面をなるべく無視した見積り計算による「効果あり」という評価報告が容易に信じられてしまい、環境保護に熱心な人は高い代金を払って積極的に使おうとし、そうでない人には政府は税金を使って使用を促そうとしている。企業や政府がこれらの怪しげなエコ製品を推進するのは、本当に地球環境の保護を目指しているのではなく、それが新たな市場の開発であり、企業の利益や経済成長に寄与すると考えるからである。
[1]例えば "太陽光発電や風力発電を信用する根拠は?" 本ブログ2011年5月26日、または
"試論:お金のかかる環境保護は本物か" 第8回縮小社会研究会資料 http://shukusho.org/data/8-3.pdf

しかし、化石燃料の総消費量を削減して行けば、生産に大量の化石燃料を消費する製品は高価になって経済的に成り立たなくなり、市場から淘汰されて行くことになる。エネルギー関連技術に限らず、他の環境技術についても同じことが言える。逆に、もし本当に化石燃料消費を削減する製品なら、他の製品より価格的にも有利になり、政府援助など行わなくても自然に普及して行く筈である。したがって、真の環境技術を普及させるために最も効果的な方法は、化石燃料総消費量の削減を実施することである。

化石燃料の制限に伴う森林破壊の防止
化石燃料は火力エネルギー源である。日本では、最終エネルギー消費のうち電力は26.0%で、残りの74%は交通燃料や工場・家庭での熱源、つまり火力エネルギーとして使われている(2012年エネルギーバランス表)。化石燃料以外の火力エネルギー源は木材しかないから、化石燃料が使えなくなれば、その代替として木材の需要が高まり、放っておけばたちまち国中が禿山だらけなってしまう。これは前述した三項目のうち①(再生可能資源の使用は再生量以下)の侵害である。現在より桁違いにエネルギー消費が少なかった昔でさえ、燃料源として森林を破壊したために滅びた社会がいくつもあった。江戸時代でも、森林破壊が国を滅ぼすことは良く理解され、森林保護は厳格だった。したがって、化石燃料規制と同時に、森林伐採も厳しく規制しなければならない。なお、現在のような電力社会でも電力需要は火力需要の1/4に過ぎないことは重要で、化石燃料が減少すれば電気料金と共に電気製品(その生産に大量の化石燃料が必要)の生産コストも上昇して簡単に買えなくなるので、電力需要の割合は一層減少するだろう。したがって、太陽光発電、風力発電などをあまり増やそうとしても意味がない。

所得の平等化は不可欠
物理的規模の縮小のために必要なもう一つの不可欠な方策は「所得の平等化」である。環境の持続可能性が保たれる状態では、使える資源の量、従って物質的生活水準は現在と比べてかなり低い。現在のような奪い合いを原則とした競争社会では、物質総量が減少すればますます無情な競争が激化し、貧富の格差が一層拡大して不満を持つ者が増え、世の中は不安定になる。しかし、物質の総量が減って生活水準が質素になっても、皆が同じなら誰も苦労だとも不幸だとも思わない。現在のような奪い合いの競争に基づいた社会では、自分の縮小が「負け」のように感じて消極的になるから、総量削減は非常に困難(恐らく不可能)だが、分配の平等化を同時に行えば、かなりの総量削減が可能になる。「みんな一緒なら大丈夫」である。

所得の平等化は、累進率の高い所得税、ベーシックインカム、高水準の最低賃金法、企業の勝手を制限して雇用を安定化を図る事、独占禁止法の強化、大企業化に一定の制限を設ける事など、様々な方法がある。国際貿易の制限は、地産地消を促進して所得の平等化にもなる他、石油消費の削減、環境汚染の軽減にもなる。いずれにせよ、これらの実施には法律の力が必要である。もちろん、所得の平等といっても、個人個人の条件や努力を無視した絶対的平等と言うわけではない。しかし、最も所得の少ない人でも、この世は不公平だと感じなくてすむ程度までの平等化は必要である。現在の所得格差は決して個人の努力や才能の結果ではなく、たまたまよい環境に生まれたという偶然、あるいは、金のある者や権力のある者がますます有利になるという、道徳より利己主義が優先された社会の欠陥がもたらしたものであって、正義の範囲を超えている。
2014年6月27日

  1. 2014/06/27(金) 12:38:37|
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急ぐことは時間を無駄にすること

現代人は一生を急いで過ごしている。子供の頃は母親から最も頻繁に聞く言葉が「速くしなさい」であり、学校に上がれば先生から、就職すれば上司から、急げ急げ、速く速くと毎日はっぱをかけられる。こうして、いつの間にか急ぐことが大切だという観念が身に付くと、周りからせかされることがなくても、何事も自ら進んで急ごうとする。

何でも速さが尊重されるのは、同じことをするのには少しでも短い時間でする事が効率的で、それによって人生を豊かに過ごせるという通念があるからだろう。所用時間の最小化とは、生産性の最も重要な要素である。この生産には経済生産だけでなく知識や経験を広める精神的な生産も含めて良いが、精神的な生産性の向上も、現在では、結局は経済生産力の高い人間を造ることが目的になっている。「時は金なり」という諺がそれを端的に表している。

時間の効率が上がって同じことが短い時間でできるようになると、余った時間はどうするのだろうか。昔の時代は、遊んで過ごしたと思う。初期の近代経済学者にとっても、生産性向上の目的はそれだった。遊ぶとは無意味に時間を消費することではなく、何事にも制約されず「楽しむ」ことである。これこそ至福の時間であり、生き甲斐を感じる時間である。楽しんで生きることこそ、人生の目的といっても良い。子供は遊びの達人で、無心でただひたすら遊びに徹する(現代の日本の子供に遊びがなくなったことは、2012年7月28日の本ブログ記事「オリンピックとスポーツ こんなものは要らない」でも触れた)。もちろん、昔も無意味な時間のつぶし方をする人がいたであろうし、現在はそんな人が増えているのではないかと思われる。これは、社会の重圧に押しつぶされて自分の人生に生き甲斐を感じなくなっているからだろう。

しかし、現代人は余った時間を遊ぶことには使わず、もっと多く生産するために使う。これは仕事を離れても同じで、例えば、旅行に行くと少しでも早く目的地に着いて少しでも多くを見ようとする。こうして、いかに時間効率を上げてもゆっくりできる自由な時間は一向に増えず、ますます時間に追われるようになる。「もっと多く」は、それ自体が遊びにも勝る人生の最大の楽しみと信じられているか、あるいは、楽しむ時間を犠牲にしてもその追及を余儀なくされているかのいずれかである。

こうした「もっと多く」の追及によって本当により多くを得ているだろうか。手に入れた物事も、ある限度を超えれば、代わりに得損なった物事の方が大きくなるのは自然の理である。どこまでが限度かは個人の考えにもよるが、限界を超えていることに本人が気が付かない場合もあるだろう。一人ひとり振り返って見ることが必要だが、私の感想からすれば、日本人やいわゆる先進国の人達の平均的な生活は既にこの限度を超えているように思う。生活水準が今より遥かに低かった大昔でさえ、多くの人が足るを知ることによる自分の充実感を様々な文書で著して来たのである。

所用時間の最小化という時間効率は、経済学的な観念である。時間はエネルギーと同様に、客観的で無機質な、金を生み出すための単なる生産要素に過ぎないから、必要とする量が少なければ少ないほど良いと考えるのである。だが、時間はエネルギーと違い、客観的で無機質な生産要素ではない。人間にとって、時間を過ごすことは生きることそのものなのである。

急ぐこと、すなわち、ある行為をしている時間が短いほど良いと考えることは、その時間を「本来は無かった方がよい無駄な時間」と見なすことである。それは、そうして人生の一刻を過ごしているという事実、すなわち人生の一部を否定することである。しかも、時間短縮によって得た時間を他の行為に回しても、それがやはり短縮されるべき時間と見なされるのなら、結局は人生の大半を否定することになってしまう。

それよりも、時間を過ごしていること自体、すなわち大切な人生の一刻一刻を過ごしているということをもっと重視した方がよい。最小化されるべき所要時間だと思っている時間も、実は、短縮せずとも、思った以上に多くを得ることが出来る、楽しい時間かも知れないのである。例えば、旅行の移動時間は短い方が良いわけではない。本来、旅の良さは移動することの中にあり、ゆっくりと移動している中に大きな発見や楽しみがある筈だが、拠点から拠点へ高速移動するだけの現代の旅は、その楽しみを大いに損なっている。日常生活でも、なるべく自動車より自転車、自転車より歩くことによって、知らず知らずのうちにより多くに触れることができる。家事や料理でも、便利な機械で素早く行うより、時間をかけて自分で行えば、大きな楽しみや達成感が得られる。子供を人に預けてその時間を他に使うよりは、自分で時間をかけて子守りした方が、自分にとっても子供にとっても遥かによい。子供と一緒に居られた時間が人生の中でも最も充実した楽しい時間であることは、子供が離れて行ってからますます実感するものだ。

一般の仕事においても、同じ時間に如何に多くを生産したかより、仕事をしている時間そのものを楽しく、充実したものにすることの方が大切である。日本人は昔からその気持ちが強いのではないかと思う。沢山作り、沢山儲けるよりも、「なんでも鑑定団」の中島誠之助氏の言う「良い仕事」をすることに意義を見出す。物作りの職人に限らず、人に喜ばれる商売をしたいという商売人も、社会に役立つ仕事をしたいという会社員も同じで、みな儲けることだけに捉われない職人気質と言ってよい。こうして、職人として満足する仕事ができれば、仕事を離れた自由時間もまた急がず心行くまで楽しむことができる。

結局、何かをする時間を短くすることよりも、それを行っている時間のなかに潜んでいる意義を感ずることがより大切と思われる。結果でなく経過を楽しむことである。いや、経過の良いことが良い結果と言ってもいいだろう。一人の人間にとって、時は金でない。時間は人生そのものである。何事も急がず、一刻一刻を味わうつもりで行動すれば、人生観が大きく変るのではないだろうか。ユックリズムやスローライフは、縮小社会の重要な側面である。
2012年11月23日


  1. 2012/11/23(金) 15:26:23|
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一つの時代の終りと新しい時代の始まり



最近の世界の状況を見て、人類の明るい将来に繋がるものはほとんどない。地球環境の破壊、資源の過剰な収奪、経済の閉塞と格差拡大、原発への執着、金融の一人歩き等々。これに対する政策もまたどれもこれも、問題を一層大きくするか一時しのぎかのどちらかで、根本的に問題を解決してくれそうなものは一つもない。日本でも、政治家(屋)がやっていることで、子供や孫が希望を持てるようなことは何一つない。

何をやっても駄目、ろくな政策が出て来ないというのは、一つの時代の終り、末期的な症状である。終りつつある一つの時代とは、産業革命以来250年余り続いて来た、ただただ物質的な豊かさだけを追求してきた経済成長主義の時代である。この方向を変えない限り、いかに有効に見える方策が出ても急場しのぎ以上にはならず、結局はますます深い泥沼に落ち込んでゆくことになるだろう。

地球の資源は速度を増して消耗しつつある。エネルギー需要を増やす一方なのに質の良い化石燃料が残り少なくなったため、原発やオイルサンドなど汚いエネルギー源に群がろうとしている。先進国では必要な物はほぼ行き渡って内需の伸びがなくなったのに、なおかつ経済成長を求めて途上国に物を売り付けるために、経済自由化の名目で資源収奪と格差拡大を世界中に広めている。あるいは、物資的な生産の代りにカネがカネを生むだけの虚構の金融経済に走ってバブル化し、借金で動きが取れなくなっている。

地球の資源容量を超えた浪費生活をしながらなおかつ浪費を増やすことしか考えないのが経済成長主義である。そういう観念に捉われている限り、何をやっても駄目、どんなに革新的な技術が現れても駄目なのは当然で、あらゆる政策がすべて的外れで将来に希望が持てないのも、未だに地球の容量が無限であるという事実から目をそらしているからである。

輝かしい時代も250年はやはり一つの区切りだろうか。人間の知恵の結集、英知の頂点、文明の到達点としてゆるぎないように見えた技術文明も、実はそれほど長く続くものではなかった。最高のものと思って来た技術も、結局は環境の持続可能性、社会の持続可能性を損なうことにしか使われなかった。もちろん、技術は人間の所産である。欠陥は技術そのものにあるのではなく、技術を信仰し、複雑巧妙で人間ばなれした技術を過大評価し、生産性(すなわち資源の大量消費性)という面にしか目がゆかなかった人間の英知の不足、文明の未熟さにある。

約270年続いた江戸時代や中国の清王朝、約200年続いたフランスブルボン王朝も、一時は隆盛を極めたが、やがて産業革命、経済成長の時代という潮流には逆らえず、歴史の幕を閉じた。その最盛期には同じような時代がそのままいつまでも続くと信じた人が大部分だっただろう。終末期になっても、再び勢いを盛り返すことができると信じた人が少なからずいたことだろう。しかし、やがて、同じ時代の延長という夢は幻想に過ぎないことを悟る。

一つの時代の終りということは、新しい時代の始まりである。新しい時代にはまず社会を縮小しなければならない。縮小とは資源消費など人間活動による物理量を持続可能な範囲まで縮小することで、物理量で測れない質的な面の悪化は意味しない。むしろ、これからの社会の質の向上には、肥大し過ぎた物理的な面の縮小が必要なのである。我々が夢見るべきは、経済成長、物欲主義という古い時代精神にしがみつくことではなく、足るを知って地球環境が与えてくれる環境の範囲で分け合って暮らし、一人一人の人間を大切にした、新しい絆の社会である。経済成長主義の継続は自然法則の制約によって不可能だが、絆の社会の創造は物理的な制約がないから、できるかどうかは人間の考え方だけに依存する。人間にはそれだけの知恵があると信じることが未来にかける私の夢であり、楽観である。
2012年1月3日


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  1. 2012/01/03(火) 10:59:51|
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