FC2ブログ

縮小の時代

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

「死のまち」も「当分帰れない」も正しい表現

鉢呂経産相が原発被災地を死のまちと表現したことが野党やマスコミから、更には野田首相や他の閣僚からも批判されている。被災地の人達の心情を踏みにじるものだという理由だが、これは批判する方がおかしい。菅前首相が、当分帰れないと発言した時も同じだった。菅首相の言葉は真実を述べたもので、全く非難にあたるものではない。

朝日新聞によると、現地を視察した鉢呂大臣の発言は「・・・しかし残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子一人いない、まさに死のまちというかたちだった・・・」とある。テレビでも見たが、みんな避難して人っ子一人いなくなった街の現状を表現するには、まさに死のまちという言葉しかない。

批判は、ありのままの現実がどうであるかの問題を、まるで、その現実が好ましいか好ましくないかの問題にすり替えているようだ。鉢呂経産相も、死のまちになった現実をそのままで良いともやむを得ないとも言っておらず、再生が必要だと言っている。(もっとも、当分の間再生できるかどうかは疑わしいが。)

死のまちという表現がいけない、死のまちではないと言うのなら、すぐ避難命令を解除すればいいではないか。外部の人もそこへ行けばいいではないか。それができない間はまさしく死のまちだ。

原発が立地する大熊町の町長は、「ふるさとを『死のまち』なんて言われたらたまったもんじゃない、好きで避難しているわけではないんだから、避難者の気持ちも考えて発言して欲しい」と言っている(朝日新聞)。これも頓珍漢もいいところで、避難はもともと好きでするものではなく、避難せざるを得なくなったからこそ死のまちになった。

避難者の帰りたいという気持ち理解できる。だが、帰りたいということと帰れるということは別問題だ。帰りたいという気持ちを尊重することは大切だが、だからといってすぐ帰れるかのような気持ちにさせるのは、却って罪作りである。当面は帰れない、いつ帰れるかわからない、という現実を知らしめることの方が大切ではないのか。

死のまちと表現したり、当分帰れないないと発言することがいけないという人は、真実を指摘されると都合が悪い人達である。真実を述べないのは現実をごまかすことである。原発事故がかくも悲惨であること、放射能がかくも困ったものであるという事態の本質を、避難者の心情を利用して覆い隠すことである。

避難者が抗議すべき先は、当分人が住めない死のまちだと発言した人ではない。原発を推進して来た人達、原発を許容して来た人達、いまだに原発が必要だとわめいている人達だ。事故の被害を直視せず、軽視し、被害を最小限に抑えるための努力もしない学者、行政、マスコミだ。

避難者の気持ちばかり言うが、避難者の中には原発で潤い、原発に加担して来た人もいるだろう。その人達には自業自得の面もあり、原発に反対して来た人達や被害を受けた他の地域の人達にとっては加害者でもあるのだ。そのことに対する反省をせずに、責任を他人に転化するだけでは、同じ災難をいつかまた繰り返すことになる。
2011年9月10日

  1. 2011/09/10(土) 13:24:20|
  2. 原発
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<鉢呂経産相の辞任と被害者の気持ちの逆なで | ホーム | 宇宙開発が看板政策 ― 子供じみた夢か、軍備目的か>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shitou23.blog.fc2.com/tb.php/76-92e4ba43
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

石田靖彦

Author:石田靖彦

フリーエリア

最新記事

----------

過去の記事一覧

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (15)
環境 (20)
エネルギー (29)
原発 (45)
伝統文化 (0)
科学と技術 (21)
政治 (12)
政治・社会・経済 (48)
文化 (3)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。