縮小の時代

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正義、良心、真の民主主義

すべては正義の問題

人間がもたらした社会問題の全ては正義に関わる問題と見て良い。環境破壊、格差問題、貧困問題、技術がもたらす数々の問題、森友や加計への有力政治家の個人的介入、貿易摩擦、国家間の武力紛争、悪化する労働環境・・・、その他どんな社会的問題も、突き詰めればそれが正義や良心に反する結果を生むからこそ問題とされる。そうでない限り、どんなことも大した問題にはならないし、誰かに対して憤りを感じることもない。縮小社会の呼びかけも、現在の拡大主義が正義に反することになるからである。縮小社会も、その究極の目的は正義の通る社会の実現にほかならない。

正義はわかりやすい

正義には種々異なる定義が可能だが、難しく考える必要はない。それより、世界中に共通した、従って比較的わかりやすい概念があると思われる。「強きを挫き弱きを助ける正義の味方」あるいは「あの人は良心的だ」といったら、誰もが同じような人物像を描くだろう。鞍馬天狗、水戸黄門、鉄腕アトム、スーパーマンといった人物が登場すると、正義について教えられたことのない子供でも正義の味方が現れたと大喜びをする。何が正義かは子供でもわかるのだ。
 このような正義は、大人の言葉を使えば、他人への配慮(他慮)、人権尊重、自由、平等、公平、公正、倫理(道徳)などに共通する、あるいはこれらすべてを総合したものである。これらのどれ一つが欠けていても正義ではなく、他慮のない正義、人権尊重のない正義、自由のない正義、平等のない正義、公平、公正、道徳のない正義は考えられない。また、上のどれか一つが欠けていれば、他のどの一つも存在しない。例えば、他慮がなければ人権尊重も自由も平等も公平も公正も道徳もあり得ず、人権尊重がなければ他慮も自由もその他もすべてあり得ない。以下同様である。このような正義や良心の尊重こそ民主主義のもともとの狙いであったと考えれば、正義も良心も真の民主主義もほぼ同じようなものだと考えて良い。

正義なければ社会なし
正義は社会が社会であるために最も必要なことである。確かに、これこそ正義の社会だといえる社会は世界中を探しても見つからず、いまだかつて存在したこともない。古今東西、どんな社会にも必ず何らかの大きな社会問題を見出すことができる。だが、それでも曲りなりに社会として存在し、文化や歴史を造ってこれたのは、どこかに必ず正義が生きており、良心的な人間関係が存在したからだ。封建領主、地主、悪徳役人に苦しめられた時代でも人々がなんとか生きて行けたのは、周りの人々の善意に支えられてこそだろう。利己主義は正義の対極にある。もし、すべての人間が、他人や全体のことなど全く考えず自分勝手な行動しかしないとすれば、社会を作る意義は皆無で、闘争に明け暮れるより孤立して生活したほうがよほど安全快適だ。だとしたら原始時代から社会は発生せず、したがって文化も歴史も生まれなかった。

正義を邪魔もの扱いする現代社会

その大切な正義など捨ててしまえというのが現代社会だ。現代社会は経済のために動いている。経済成長が何よりも大切であり、経済成長を損なうもの、経済生産に関与しないものはすべて取り除いてしまおうとする。アダム・スミスから始まった市場経済の原理である。その経済成長には、すべての人々が他人を配慮せず自己利益の最大化に務めることが大切とされている。その極端が現在の新自由主義で、利己主義追求の自由が他のいかなる自由よりも優先される。利己主義追求のためには、他人の人格を無視して道具のようにこき使い、他人を蹴落とし、他人の幸福を奪い、自然環境や資源のような本来公共の財産ですら、勝手に私物化する自由を許す。自由とは、あくまでも他人を損なわない限りの自由でなければならないという原則を忘れているのである。
 利己主義追求の効率化のためには競争が第一だと、人々は一生を通じて激しい競争に駆り立てられる。それに意義を唱える者に対しては、人の性は悪なりと言った性悪説を持ち出し、それが人間の本来の姿だと悟ったような言い方をする。それに少しでも抗議すると、未熟者、社会知らずと言って軽蔑する。
 正義を排除し、一人ひとりの人権尊重より他人を損なう自由を優先することによって利益を得るのは、弱い者を傷めつけて富と権力を独占する強者だ。現在、強者の頂点に君臨するのは億万長者である。かれらは経済力によって政治まで支配し、ますます自分たちに有利な政策を要求する。こうして、人口のわずか1%が世界の富の過半数を占有する格差社会、不平等社会に至った。

民主主義以前の職場
 現在、正義の社会がどこにも存在しないように、真の民主主義社会も存在しない。職場は家庭と並んで最も大切な人生の場だ。人が働くのは収入のためだけでなく、仕事そのものの中に生きがいを求めるからである。仕事のやりがいを左右する大きな要素は、何を、どこで、如何に生産し、生産物を誰に販売し、利益をどのように配分するか、といった仕事の経営に関する決定権を自ら持つことである。だが現在は、私企業でも公営事業でも、経営権は投資者(株主)が認めた極めて少数の経営者が独占し、そこで働く大部分の就業者には、経営の決定に参加する権利は一切認められていない。従業員はすべて同じ事業目的を持った共同生産者だからコストではあり得ないが、実際は人格のない労働力として、他の生産機械と全く同様に扱われる。利益は経営者がお手盛りで勝手に分配し、労働者に対しては人件費あるいは賃金という名のコストとして最小限に抑えられる。
 職場では上位絶対制がしかれ、上司は部下を人間として下級であるがごとく命令口調であれこれと細かく指示し、命令に従わなければ解雇、減給その他の報復が待っている。職場の人間関係は封建時代、専制君主制時代をそっくりそのまま継承している。政治的な形の上では現在は民主主義の時代とされ、そう思っている人が大部分だが、その実、真の民主主義とは程遠く、どちらかといえばまだ封建時代に近いと言っても良いくらいだ。職場の民主化なしには真の民主主義社会はなく、職場の民主化のためには、Worker Cooperative (労働者協同組合と訳されるのが一般的だが、ここでは労働者共同経営としておく)がふさわしい。すべての労働者が同時に企業の共同所有者であり、共同経営者である。労働者共同経営は、スペインやイタリアを中心に世界に広まりつつある。

正義のない社会は必ず滅びる

億万長者の得た富は、決して、かれらの努力と才能だけによるものではない。強者に有利な社会の仕組み、金持ちに金が集まる仕組みにうまく乗っかっただけで、才能も努力も彼らとほとんと変りない他の大多数を犠牲にしているだけに過ぎない。社会の要である正義をないがしろにした現在の社会が永続する筈はなく、既に自己崩壊の兆候を見せている。先進国の経済成長策はどれもこれも一向に効果なく、格差は拡大するばかり。正義や良心がバカにされる現在は、人間の歴史から見ても最低の時代と言える。
 技術の恩恵が正義を軽視する損失を補って余りあると考える人がいるかも知れない。だが、今の技術は人のためより金のため、人々に一層の浪費を促す手段に過ぎなくなった。エコ技術を始め、技術には嘘が多い。過剰な技術がますます自然環境の持続可能性を損ない、人々に不安を与え、技術から取り残された多数を産んでいる。それに、現在の技術社会は化石燃料や金属類と言った有限資源の大量消費に依存する大量消費社会の上に成り立っており、今後何百年も続かない。本当に人の役に立つ手頃な技術製品でさえ、いずれは自由に使えなくなる可能性が高い。正義の社会は永遠だが、技術社会は永遠でないのである。

いまこそ正義を叫ぼう

現在の人類が最も必要としているの正義である。躊躇なく堂々と正義を唱えることができる社会である。正義さえあればどんな貧しさも大抵は周囲の人達と共に我慢できる。他人を思い、他人と協力し、喜びや悲しみを共有することこそ、人間の最大の幸福だ。個人的行動にせよ、集団的行動にせよ、真っ先に正義にもとることがないかどうか慎重に検討した上で実施する社会にしよう。
 現在すでに、非常に多くの人々が正義のために、あるいは社会の悪を正そうと活躍している。様々な社会運動やボランティア活動に参加し、企業や政府の悪徳に対する抗議行動を起こしている。彼らは表立って「正義のため」という看板を掲げはしないだろうが、やっていることはまさしく正義のためであり、彼らの真の望みは正義が通るの社会なのだ。
 彼らには、自分の活動目的が正義であることを強く自覚し、遠慮せずに、もっと堂々と正義を口に出してほしい。社会問題を社会問題として取り上げるマスコミは、その問題を解決するのは正義のためだとはっきり言おう。みんなが正義を口にするようになれば、正義に基づいた行動が何より大切だという理解が社会全体に広がってゆく。逆に、他人を犠牲にしてはばからない利己主義的な行動や富の不当な独占を恥ずかしいと思う人が増えるだろう。

正義は強制してはいけない
ただし、正義は人に強制していはいけない。正義も良心もあくまでも自発的でなければならず、どんなに善いことでも、強制した途端に正義ではなくなる。

更に詳しくは
縮小社会研究会論文集第2号(2018年3月)に、「縮小社会と民主主義」という表題で、上記に関連連したことを更に詳しく論じている。ぜひ参照して頂きたい。
 縮小社会研究会HP http://shukusho.org
 当論文のURL http://shukusho.org/data/Journal/No.2/2ishida.pdf
 なお、上記論文の入力ミスを以下に訂正します:
  ・6ページ (2)節 末から2行目 非必然的→必然的
  ・7ページ 13行目 事故負担→自己負担

■2018年4月6日
  1. 2018/04/06(金) 15:38:45|
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