縮小の時代

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「歩くまち」から「歩きたいまち」へ

京都市は「歩くまち・京都」という標語で町づくりを目指している。そのこと自体は素晴らしい。四条通りの河原町-烏丸間の車道を削って歩道を拡げたのは英断である。渋滞が激しくなったとか不便になったとかいう批判もかなりあるようだが、時が経てば、きっとこれで良かったと思う人が多くなるだろう。歩くということには、ただ目的地へ行くための移動だけでなく、身体を動かして歩くこと、ブラブラすること自体の楽しさもあり、健康にもよい。歩道拡張によってそういう楽しさが増え、街は賑わう。

京都は観光で生きる町である。観光客の楽しみは、いわゆる観光拠点に行くことだけでなく、街をぶらつき、住民や街の雰囲気に触れて、自分の故郷と違うものを感ずるところにある。住民にとっても、歩く楽しみの多いまちに住むことが、何にも増して最高である。ただの「歩くまち」でなく、「歩きたいまち」にしてもらいたいものだ。

今までの道路行政は、車の流れを良くすることだけに重点を置いていたが、そうすればするほど車が増え、渋滞がひどくなったのは歴史の教訓である。そればかりではない。歩行者や自転車は追いやられ、街の景観は損なわれ、商店街はさびれ、空気は汚れ、生活空間が失われ、結局は益より害の方が多い。こうして、どこもみな「歩きたくない道」、「歩きたくないまち」になって車を使うようになり、車が必需品になり、車優先の道路行政を促し、住みにくいまちになるという悪循環に陥っている。

車をなるべく使わない、どうしても必要な場合はできるだけ小さな車を、歩行者や自転車の安全と安心を第一にしてゆっくりと走らす、というふうに考え方を根本から変えれば、全く違った、安全で美しく、気持ちの良い、却って便利な町になるだろう。歩行者や自転車と同じ路面を大きな車が高速で走るという構図では、絶対によい街はできない。車は便利のようでも、それ以上に不便も多いのだ。安全のため空間を十分とったとしても、アメリカがそうであるように、決して便利で快適な町にならない。まして、狭い国土に人口の多い日本、特に京都のような町ではなおさらである。車がなければ公共交通機関も広がるし、近くの商店街も栄える。

「歩くまち京都」といっても、実情はまだまだだ。歩道のある道も自転車が安全に走れる道も非常に少ない。歩道や白線があっても幅が狭すぎるから、危ないだけでなく街全体がみすぼらしく場末の感じを与える。こんな道では、商店もまたみすぼらしい田舎商店にしか見えないのだ。こうして魅力のない「歩きたくない道」になり、歩く人が減って街はさびれ、一層歩きたくなくなる。京都に限らず、全国そんな街ばかりなのだ。道路は、自動車専用道路でない限り、第一優先は歩行者、第二優先は自転車にすべきである。

京都一番の繁華街である四条通りと河原町通りでは、歩道は終日、車道は8時から21時まで自転車通行が禁止されている。つまり、自転車は一日中、走ってはいけないのである。最初にこれを聞いたとき、私は耳を疑った。自転車は地元の人が、子供も老人も、誰でも乗れ、自動車より利用者が広い。なぜ自動車ならよくて自転車はいけないのだろう。いや、「自転車に乗る人」より「自動車に乗る人」を優先しなければならないのだろう。共存が危険なら、禁止すべきは自動車ではないだろうか。世界では自転車の推進や自動車締め出しを進めている都市がある現在、逆に自転車の締め出しとは、とんでもない逆行である。

道路は歩行者、自転車、自動車の通行帯を完全に分離することが望ましいが、すべての道路をそうするのは不可能だろう。現在は、通行帯の分離がない場合、街道や商店街では両側に白線が引かれ、住宅街ではその白線もないところが多い。しかし、この白線の引き方には車優先の思想が反映され、歩行者にとっては非常に危険である。

白線があれば、車の運転者は、「白線の外側が歩行者帯だから白線ギリギリまで車が走って良い」と考えるのが普通である。ところが、その歩行者帯があまりにも狭すぎる。人間の肩幅くらいしかないところさえある。ということは、歩行者すれすれまで車を走らせてもよい、ということになる。これは非常に危険であり、こんな道路は歩きたいと思う人はいないだろう。自転車も危ないから乗らないという人が多い。商店街がこれでは廃れるのは当たり前で、商店街の人達はなぜこん白線に甘んじているのか、不思議である。

道路交通法では、幅が3メートル以下の歩道は自転車は走っていけないことになっている。自転車は幅60cmとみなされているから、歩行者のために2.4メートルの余裕が必要ということである。この考えで行けば、車も歩行者より2.4メートル以内のところを走ってはいけない筈だ。歩行者にとって自動車は自転車より危険が大きいから、2.4メートル以上の余裕が必要である。ところが、実際は歩行者の肩に触れるくらいのところまで走って良い、という白線の引き方になっている。法的根拠はどこにあるのだろうか。

例えば、伏見稲荷大社は現在外国の観光客の人気が日本一だそうだが、その周辺の土産物商店街も、それに続く深草商店街もひどいものだ。狭い道に車がギリギリまで来て、歩行者は安心して散策などできない。車の通行を禁止できないのなら、白線の歩行者帯をたっぷり広げれば、観光客はもっと周辺を歩いてみたいという気になるし、そうすれば街はもっと栄えるだろう。

本来は、歩道のない道路は自動車の通行を禁止してもよい位だが、それができない場合、まずは両側の白線の位置を変えて、歩行者帯を少なくても2メートル、できればそれ以上にすべきである。そうすれば、歩行者は安全に歩ける。安全なら歩きたくなる。そうして歩く人が増えれば街は生き帰り、ますます歩きたい街になる。京都の歩道のない商店街の多くは歩きたくない街になっているが、比較的白線の歩行者帯が広いのが堺町筋である。ここは京の町屋風の店も多く、ちょっと歩きたいという気持ちにさせる。商店街だけでなく、住宅街の道路もまた、白線の歩行者帯をたっぷりとれば住民が歩いて外出しやすくなるし、子供も安全になる。

歩行者帯を十分とった残りの中央帯の幅によって車の通行制限を変えたらよい。例えば、中央帯が1.5m以下ならすべての車は通行禁止、2メートル以下なら軽自動車以外は禁止とする。それが出来なくても、速度は瞬間に停まれる速度、つまり10km/h以下にする、いずれにしても、一方通行なら車の通れる部分は2~2.5メートル以上は要らない。 これならほとんど費用をかけずに、簡単にできる。そうすれば通りの印象は全く変り、歩いてみたい、という気持が起り、街は活性を取り戻す。何より、街の景観が美しくなるだろう。

こんなことを言うと極端のように聞こえるかも知れないが、決して極端ではない。考えて見れば、歩行者や自転車と同じ路面を、技量も責任感もない普通の人が重くて大きな鉄の車を高速で運転する、そんな危険なことが許されていること自体、狂っているのである。

商店街や住宅街だけでなく、散歩の道も充実する必要がある。京都には鴨川や琵琶湖疏水をはじめ、散歩によい水辺があるが、鴨川の一部を除いてはまだ不十分で、歩いて通れなかったり、自転車が走れないところが多い。橋のあるところでは、いったん上に上がって車の道を横切らなければならないなど、歩きやすい道にしようという心遣いが感じられない場所も多い。文化のまちとは、歩きたくなるまちである。「歩きたい道」をふやし、「歩きたいまち」にすることによって、ますます「行きたい京都」「住みたい京都」になるだろう。■
2015年10月29日


  1. 2015/10/29(木) 13:19:56|
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