FC2ブログ

縮小の時代

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

荀子の性悪説は利己主義の正当化ではない

社会の縮小化は好むか好まざるかに関係なく今後の必然だが、天然資源を使い放題に使った豊かな生活水準に慣れ切った現在の人々が、そのまま物質が減少した時代を迎えると、奪い合いや弱肉強食によって格差が広がり、多くの人々の人権や自由を損なう可能性が大きい。したがって、公正で平和な社会を保つためには分け合いしかない。この分け合いには、他人の利益を自分の利益と同等に配慮する必要があり、少しでも自分の利益を優先させれば奪い合いになる。奪い合いは、暴力的でなくても、自己利益優先である限り、一方の満足は他方の不満足によってしか得られず、結局はすべての人が幸福になることはできない。勿論、個人の努力差もあるから完全に平等な分配でなくても良いが、その差は社会的に公正な範囲、言い換えれば、少なくとも、誰にも不公平感が残らず、社会的合意として納得できる範囲に抑える必要がある。どの程度なら社会的に公正と言えるかはその社会の人々の考え方次第だが、現在の格差は、明らかに社会的公正の範囲を超えている。

分け合いと言っても、人の善意だけに依存するわけではない。大部分の人が殺人や窃盗などの犯罪行為などしたくないと思っても、その気持ちだけに頼ることは出来ず、強力な法律が必要であるように、分け合いにも、富が個人に集中しないような強力な法制が必要である。

しかし、現在の経済社会は、「他人の事など考えなくても、常に自分自身の利益だけを最大化することに全力を注げば、資源が最も合理的に配分され、すべての人が豊かになれる」という思想に基づいた奪い合いの社会で、それに疑問を持つ人はあまり多くないようだ。それを支えているのが性悪説である。縮小社会の論議の中でも、「人間の本性は悪だから縮小社会の実現は難しい」という意見がしばしば出て来る。

性善説か性悪説かは、洋の東西を問わず古くから論争の的だった。形の上とはいえ民主主義が行き渡った現代でも、性悪説の支持者が比較的多いように思われる。これは、社会で繰り返し繰り返しそう教えられていることにもよる。例えば、「企業は慈善事業ではない」、「正義や道徳を言うのは青臭い、それでは世の中は渡れない」などである。テレビドラマなどでも、そんなセリフが頻繁に出て来る。性悪説を支持する人達は、「人間の本性は悪だから利己主義に基づいて行動するのは当前だ」、更には「利己主義的に行動することが社会進歩の原動力になっている」と考えているようだ。

性悪説が支持されるのは、できるだけ政府の規制を排除して自由な市場競争を求める資本主義に適っている事にもよるが、性善説に比べて何か合理的な感じを与えることにもよるだろう。人間の行動を「自己利益最大化のための最も合理的な行動」と定義すれば、主観の余地が減少して理論化しやすいし、数理的な考察も可能になる。これを公理とすることにより、現在の経済学が科学に近づいたとされているらしい。

しかし、実際の人間の行動は主観に大きく左右されている。人間の本性は善か悪かという二分論にはならず、善と悪の本性を併せ持ち、どちらが優勢になるかは与えられた環境条件によるのである(本ブログ 2013年7月3日「性善説か性悪説か」) 。数理的な分析のために人間の行動原理から「心」を取り去った経済学も、その経済学に基づく社会も、結局は人間から離れ、人間には却って有害な結果を多く招いた。

性悪説を唱えた最も有名な人は、東洋では荀子(荀況)で、現在の性悪説支持者も荀子が一つの拠り所だろう。荀子は性善説を唱えた孟子を激しく非難している。しかし、荀子は孟子と同じく、礼や義を重んじる儒者である。荀子は何のために性悪説を説いたのだろうか。

荀子がいう本性とは、何も考えずに行う自然な行動の本を指す。例えば腹が減ったら食べる、物を欲しがる、他人を羨んだり妬んだりする、目や耳に快い物を見たり聞いたりしたがるどは、何も考えない時にも出て来る自然の行為で、それを行わせるのが本性である。それに対して、人に物を分け与えたり、譲ったり、目障り耳障りでも大切と思うことに注意を傾けたりすることは、全て何らかの配慮という作為が働いている。これが、荀子「性悪篇」の冒頭にある「人之性悪、其善者偽也(人の性は悪にして、その善なるは偽なり)」の意味である。ここに「偽」とはニセモノの意味ではなく、何かの配慮に基づいて行う行為や後天的に獲得したわざを指す(荀子「正名篇」)。

しかし、荀子が人の本性は悪だと言ったのは、現在の性悪説支持者のように「利己主義的に動くのは当然だ、むしろそれが進歩の原因だ」と言って利己主義を正当化するためではない。荀子に言わせれば、そんな人間は小人であり、悪人であり、主君がそれでは亡国しかない。人間が何も考えずこの本性に従って行動すれば、皆自分勝手になり、世の中は乱れ、多くの人々が苦しむ。したがって、人は本性の悪を克服することが何より必要である。「荀子」の中で、人の本性は悪だと書いてあるのは一か所だけで、全20巻32篇の大部分は礼や義の大切さ、それを一生涯かけて学び続ける事の必要性を説いているのである。

荀子の言う本性は、荀子独特の定義かも知れない。だが、少し拡張して、親が子のために自分を犠牲にして厭わないのも、共同生活の中で他人の事を考えるのも作為のない自然な配慮だと考えれば、それも本性のなせる業と言える。そもそも、悪い本性は克服すべきだと考えるのは、人間の自然な要求が悪より善を求めるから、悪を見るより善を見る方が快いから、悪を為すより善をなす方が嬉しいからである。本性をそのように捉えれば、荀子の性悪説は性善説と本質的な違いはない。

荀子は占いを信ぜず、自然の世界をあるがままに捉え、人間の精神や肉体は自然の作用で造られていると言い(天論篇)、また、社会の身分的秩序を重視しながらも、聖人と小人の違いは正道を身に着けたどうかであって素質は皆同じだと述べている(性悪篇)。このように、荀子は現在から見ても科学的、唯物論的、合理的、民主的なところがあって、学ぶべきところは多い。ところが、現代の性悪説支持者には、社会の平和と安定を思い、仁智礼義を身に着けた人間たらんとする荀子の理想は一かけらもなく、ただ自己の物欲主義を正当化するために字面だけの性悪説を利用している。

同じことはアダムスミスについても言える。アダムスミスも自己利益最大化のための合理的な行為に基づく市場競争が豊かさの原動力だと書いたが、だからといって利己主義を礼賛しているわけではない。「見えざる手」という言葉も一か所しか出てこない。大部の「道徳感情論」で理性と道徳の重要さを書いている他、「国富論」にも正義の法を犯さないこと、社会の成員を不正と抑圧から守ることの必要性が書かれている(例えば第4編第9章)。ところが現在は、正義や道徳といったアダムスミスの真意をそっちのけにして、市場原理の見えざる手が、利己主義の正当化だけに利用されている。

歴史上、性悪説を主張した人でも、だから利己主義の優先は正当で当然だと言った人はいただろうか。ほとんどは、荀子と同じように、悪い本性のまま動くのではなく、それ乗り越えて他人を配慮し、理性的に行動することの大切さを述べたのではないだろうか。例えば、人間は闘争状態にあるのが自然と見なしていたホッブスの社会契約も、無用な闘争を抑え、平和的な秩序を保つことが目的であったことは明らかである。

縮小社会では、自分の望みと同等に他人の望みも配慮することが現在以上に必要になる。これは人間の本性に逆らう不可能なことではなく、人間の本性の一部であり、古今東西の哲学者や聖人偉人達が、絶えずその重要性を説き続けて来たことなのである。そして、長い歴史を見れば、紆余曲折はありながらも、人類は少しずつその方向に近づいていると言えないだろうか。■
2015年5月20日


  1. 2015/05/20(水) 16:25:52|
  2. 政治・社会・経済
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<核兵器の廃絶は軍備の廃絶、軍備の廃絶は戦争の原因をなくすこと | ホーム | LEDは環境負荷を増加させる>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shitou23.blog.fc2.com/tb.php/177-453b3a7b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

石田靖彦

Author:石田靖彦

フリーエリア

最新記事

----------

過去の記事一覧

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (15)
環境 (20)
エネルギー (29)
原発 (45)
伝統文化 (0)
科学と技術 (21)
政治 (12)
政治・社会・経済 (48)
文化 (3)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。