縮小の時代

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利己主義の社会は成り立たない

「縮小社会」という言葉に関心を持つ人が少しずつ増えているのは喜ばしい。縮小社会の定義は必ずしも決まっているわけではないが、詳しく知りたい読者は参考資料[1][2]を参照されたい。
[1]石田“縮小社会とは何か:その1 最小限の必要条件” http://shitou23.blog.fc2.com/blog-entry-167.html
[2]石田“縮小社会とは何か:その2:縮小社会はどんな社会か”
http://shitou23.blog.fc2.com/blog-entry-169.html

縮小社会は人間の良心に基づいた社会である。現代の社会は自分の事しか考えない利己主義を基本としているのに対し、縮小社会は他慮(他人に対する配慮)を重視する社会である。他慮とは、自分より他人を優先することではない。自分への配慮と同等に他人の配慮もする、という意味である[3]。
[3]石田“縮小社会と倫理”縮小社会研究会、論説 http://shukusho.org/

しかし、「人間は本来利己主義だ。性善説に基づいた縮小社会は単なる理想に過ぎず、実現困難はないか」という人も非常に多い。縮小社会に関心を持つ人達の中にさえ、そんな人が少なからずいる。確かに、人間に利己主義や性悪の部分があることは否定できないが、同時に、人間には性善の部分も良心も理性もある。善の性と悪の性のどちらが優勢になるかは、その時の事情や環境に左右されるのである[4]。しかし、どんな環境でも、利己主義のみで生きる人はむしろ少なく、利己主義が横行すればするほど、良心的な社会を渇望する人も増える。
[4]石田“性善説か性悪説か”http://shitou23.blog.fc2.com/blog-entry-149.html

現在の世の中は良心だけで生きるのは難しい。だが、そうさせているのは、人間が本来利己主義の固まりだからではない。現在の社会が人々をそのように思わせ、良心を捨てて利己主義に駆り立てようとしているだけである。現在の主流経済学は「人間は自己の利益の最大化のために最も合理的な行動をとろうとする」という利己主義を前提として組み立てられており、政治の最大の目的が、その経済学に基づいて経済の最大化、すなわちGDPの最大化を図ることに集中している。現在の社会は、良心を捨てて自分の事さえ考えればよいと、人々に迫っている。

実際、現在の安倍内閣に、国民一人一人に対する思いやりも良心もまったく感じられない。彼らは、金のある者が金の力を利用してますます豊かになるための方法以外には何も考えていない。苦しい立場に立つ人は、すべて自己責任にされる。そんな安倍内閣でも多くの選挙民が支持しているのは、利己主義教育がそれだけ徹底し、国民の心に浸透ているからだろう。一人一人が利己主義的に行動すれば見えざる手に導かれて最も効率よく社会の富が生産できると言ったのはアダムスミスだが、そのアダムスミスは、だから利己主義で動くべきだとも、人間は必ず利己主義的に動くはずだとも言っていない。むしろ、利己主義は富の生産には効率的でも、道徳に背くことが多いから、常に理性による抑制が必要と言っている。人間は利己主義で動くというのは、現在の経済学の単なる仮定に過ぎないが、いつの間にか、それが普遍的な真実と見なされるようになってしまった。

しかし、良心のないところに社会はない。社会が社会として機能するのは、「他慮」「良心」「正義」といった道徳観があるからである。もしすべての人間が完全な利己主義者であり、他人のことは全く配慮せず、すべて自分の物欲を少しでも多く満足させることしか考えず、そのような行動しかとらないとしたら、どんな社会になるだろうか。おそらく、人々は絶えず他人を疑い、奪い合いと喧嘩に明け暮れ、一時も安心できない。社会など無きに等しい。いかなる封建社会でも、暴君の独裁社会でも、少しの間でも人々が何とか暮して行けたのは、良心があったからこそである。過酷な政治をしのげるのは、人々が身を寄せ合うことでしかない。身を寄せ合うとは他人と心を通じ、信頼することで、良心に基づいている。それでもあまりに過酷なら、支配体制の転覆しかなかった。

現在の社会は利己主義を本位としているが、それでも、人間に良心がなければ一日たりとも平和な日はない。人は完全な利己主義者にはなれない。人の性は悪なりと強弁している人でさえ、良心を全く持たない人はいないし、自分は善なる性は何も持っていないとは決して言わないだろう。殺人、窃盗、詐欺などを悪い事として法律で禁じているのも、それが良心に反する行為だからである。法律で何を禁じ、何を許すかの判断は、良心に基づいている。人間に良心がなければ法律も存在せず、自分の身は自分で守るしかない。法律は大多数の人が良心的に行動することを前提としている。人が法律を守るのは良心があるからである。もしすべての人間に良心の一かけらもなかったら、誰もが、あらゆる機会をとらえて法律を破ろうとするだろう。警察に捕まりさえしなければ何をしていもよいから、人が見ていないところでは殺人も窃盗もする。誰もが同じ気持ちでいるから、自分だけその気持ちを抑制しようとは思わないし、誰かに告発される心配も少ない。犯罪を防ぐためには、すべての人間の行動を一日中誰かが監視していなければならないが、そんなことは不可能である。団体で防ごうとしても、団体の中では信頼という良心が必要である。

結局、いかに法律があっても、法律を守り、犯罪的行為を抑制しているのは人間の良心である。人に良心がなければ法律は何の役にも立たない。「人間の本性は利己主義だから性善説では社会は成り立たず、利己主義を前提とした社会の仕組みが必要だ」という人達も、他人に騙されないか、泥棒や強盗やひったくりに合わないかと常に心配し、身構えているわけではなく、何の心配もなさそうに平和に毎日を暮している。それは結局、人は自分の利益のために他人に被害を与えたりはしないものだという善意や良心を信じているからに他ならない。そして実際、人々のその良心のお蔭で、今日も一日平和に暮らせたのである。

したがって、社会を実際に成り立たせているのは人の善なる性、良心であって、悪なる性、利己主義ではない。存在が難しいのは性善説に基づいた社会でなく性悪説に基づいた社会の方である。縮小社会は人の良心を大切にする社会で、良心的に生きようとする人達が十分にその良心を発揮できるような社会である。もちろん、良心的行為だけにすべてを頼るのでなく、犯罪や他人の生きる権利を損なう行為を禁じる法律がある。人の良心に頼る社会の実現は難しい、などという説は、現実とも人間社会が辿った歴史とも矛盾しているのである。■
2014年11月26日


  1. 2014/11/26(水) 14:26:35|
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