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縮小の時代

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縮小社会とは何か ー その2:縮小社会はどんな社会か

縮小と進歩
「その1」では、縮小社会に転換することが必然かつ緊急であること、縮小社会の最小必要条件は人間活動の物理的規模を持続可能な範囲内に抑えること、その核心は化石燃料の消費を年々削減して準持続可能にすること、および、その実現のためには分配の平等化が不可欠であることを書いた。これは、化石燃料消費を時間をかけて限りなく0に近づけて行くことになるが、質・量共に化石燃料の代りになるエネルギー源は他に存在しない。バイオマスを除く太陽光、風力その他の再生可能エネルギーは、電力として利用できる量は極めて少量に限られる。発電装置も電気機器も化石燃料またはバイオマスという火力源がなければ生産できないが、バイオマスの総量は非常に少ないからである。日本が1年間に利用可能なバイオマス資源量を1.33EJ[1]とすると、2011年の化石燃料国内供給量18.7EJの7%程に過ぎない(この見積りでも非常に甘い)。したがって、行き着く先の再生可能エネルギー社会では、使えるエネルギーの総量は現在と比べて遥かに少なくなり、生産と消費はもとより、物理量(エネルギーや物質の量、時間、距離、面積など)で表されるあらゆる統計量が減少して行くだろう。これが社会の縮小である。
[1]資源エネルギー庁"バイオマスエネルギー開発・利用戦略の検討状況" 平成14年 総合資源エネルギー調査会第10回新エネルギー部会参考資料

縮小という言葉からは負の印象を受けるという人が非常に多い。これは、成長や拡大は進歩すなわち良い事だが、縮小は後退すなわち良くないという意味である。世の中に永久の成長・拡大があり得ないことや、電子技術の目覚ましい進歩はまさしく小型化だったことは百も承知していながら、縮小は後退であり良くない事だと思ってしまう人が多いのは何故だろうか。一つは、物の種類が増えて便利になること、選択肢が増えること、同じ時間により多くの事をし、より多くを見、より遠くへ行き、より多くを使うことはすべて進歩だという、経済成長・拡大主義の根源をなす思想を、子供時代から大人になった後まで、学校、家庭、社会のあらゆる機会を通じて叩き込まれているため、それが科学的常識さえも超えてしまい、一つの信仰のように人々の心の奥底に浸透してしまったからだろう。

あるいは、日増しに体が大きくなる成長期を過ぎた後は老化して最後は朽ち果てるという生物の宿命から、成長でなければ衰退だと感じてしまうのかも知れない。しかし、生物の種も社会も、個体の集合であって個体そのものではない。種にも社会にも成長期と衰退期があり、いつか滅びる時が来ることは否定できなくても、その寿命は個体から見れば無限と言えるほど長いから、成長期と衰退期に単純に二分することはできず、非常に長い定常期があり得るのである。生物は絶えず進化し続けるが、それは物理的(個体の数や個体の大きさ)な拡大ではなく、物理的な拡大が度を過ぎれば必ず個体の数は減少を始める。

縮小社会の縮小は物理的な単位で測られる量が対象だから、物理量で測れない社会の質がそれに比例して低下するわけではない。モノの種類や量はある程度以上になれば幸福とは無関係であり、現在の先進国は既にその程度を超えているという事が、数々の調査研究で明らかになっている。このままでは今後は社会の質が落ちる一方だからこそ、それを防ぐために物理的規模を縮小する。この意味で、縮小は後退でなく進歩である。

進歩とは、何かに価値基準を置いた人間の主観的判断だから、絶対的な進歩などない。ある価値基準から見れば進歩でも、別の価値基準から見れば退歩であるし、その価値基準は人により時代により変化する。自然環境に囲まれた生活から便利な製品に囲まれた生活に変ることは、従来は一般に進歩と見なされていたが、今では、それに異議を唱える人が増えている。科学の発達や知識の絶え間ぬ増加さえ、無条件に良い事だけではないから、必ずしも進歩とは言えないのである。

弁証法的に見れば、社会は否定を通じて変化する。今までは物の少い生活を否定して物質消費の拡大を目指して来た。しかし、その行き過ぎによる弊害が顕著になったから、今度は拡大を否定して縮小社会を目指す(否定の否定)のである。だがこれは、以前と同じ価値基準に戻るようでも、単なる気まぐれで昔に戻ることではなく、不足時代も拡大時代も経験した上で今までになかった新たな社会を造ることである。この意味では、社会の縮小は退歩でなく進歩である。これは価値基準を変えるから進歩になるのであって、常に変らぬ同じ価値基準による一直線の進歩はあり得ない。例えば、自由や平等の拡大も永遠の価値基準ではなく、それだけを至上の目的として追求すれば、ある時には自由の行き過ぎ、平等の行き過ぎの弊害が現れるだろう。正義は何時でも正義だが、何が正義かは、やはり時代により変化する。拡大を否定する理由は環境破壊、不平等の増大、人間の精神的退廃などによるから、縮小による進歩とは、より人間らしい社会を築くという意味での進歩である。

具体像の要求
縮小社会のことを話すと、「縮小社会の具体像や移行のための具体的方法を示す必要がある」と言う人が多い。縮小社会が実際にどんな様子か、縮小社会の理念に少しでも関心を持つ人なら誰でも興味を抱くのは当然である。だが中には、具体像の提示が不可欠だという人も少なくない。その理由は、①具体像がないと縮小社会の理念がよくわからず、賛成すべきかどうか判断できない;②たとえ理念は理解できても、具体像や移行の方法を示さないと単なる実現不可能な抽象論であり絵に描いた餅に過ぎない、の二点にあるようだ。

しかし、具体像がなければ縮小社会は理解も実現も不可能という意見は、結局は縮小社会を否定する婉曲な表現である。何故なら、第一に、縮小社会の必然性と緊急性を理解するためには、縮小しなかった場合のおぞましい具体像なら役に立つが、縮小された結果の具体像は特に必要としない。第二に、縮小化の必然性と緊急性を理解すれば、縮小は実現不可能な絵に描いた餅だという批判はあり得ない。絵に描いた餅とは、それが必然でないことを意味するからである。第三に、化石燃料消費の年々削減という総量規制は、既に実施されているCO2排出規制と実質的にはほとんと同じだから、意志さえあれば直ちに着手可能な具体的方法であって、抽象的な観念論ではない。勿論、更なる具体的課題が皆無ではなく、例えば、実際に年々何%ずつ削減したら良いか、消費権を公平に分配する最適な方法は何か、或いは、残存埋蔵量の科学的な評価と公表の制度をどうするかなど、検討の余地はあるが、これらは専門家が得意とする事務的な課題であって、一般の人々や政治家がそれを知らなければ削減という大方針の当否すら判断できないというものではない。結局、縮小社会は実現不可能と言う批判は、客観的な根拠があってそう言うのではなく、縮小したくないという気持ちの表現なのだ。縮小したくないのは、それが必然かつ緊急でなく選択の問題と思うからであり、そう思うのは、技術の革新などによって現在の大量消費生活と経済成長主義の持続が可能だという、技術への信頼があるからからだろう。或いはその逆に、拡大型大量消費社会への執着を捨て切れないために、最後の拠り所として技術革新への期待に逃げているのかも知れない(恐らくそうだろう)。

すべての具体像を示すことは不可能
化石燃料削減の影響は産業、企業、教育、医療、農業、都市や農漁村、交通、家庭その他社会の様々な分野の構造や人々の日常生活の様子のあらゆる方面に及ぶから、それらすべてに関する具体像を提示することなどもとより不可能である。したがって、具体像を示せと言われても、どこまでの具体像が必要かは極めて主観的である。もともと縮小に肯定的な人は、他人から具体像が示されなくても自分で想像するだろうし、逆に、縮小したくないと思う人は、どんな具体像を示しても満足せず、やはり実現不可能と言い続けるだろう。示された具体像が一部の分野でしかなかったら、他の分野に関心を持つ人にとっては具体像が示されたことにならないし、もしそれで納得できるのだったら、具体像が必要だという理屈が通らない。

「その1」で述べたように、もともと一般に「何々社会」と言っても、各分野の具体的な状況まで「こうであってこうではない」という普遍的な形があるわけではない。理念は共通でも、具体像は個々の社会による理念の実現である。同じ人間でも個人によって人間像が異なるように、個々の社会によって社会像は異なるのは当然と言える。例えば、「民主主義社会」は多数決の原理、または為政者を選挙で選ぶという共通点はあるようだが、決まった具体像などあって無きが如しである。選挙の制度は様々だし、本当に優れた人が誰でも立候補でき、かつ当選の可能性があるかという点でも、選挙民が正しい情報で自由に投票できるかという点でも、国によって異なる。政党の独裁が民主主義の理念と合わないのは一般的に認められているだろうが、日米とも事実上は大企業優先の政党による独裁がずっと続いており、それを打ち破ることが非常に困難な環境になっている。王制を廃止した国もあれば世襲の王制を残している国もある。生まれながらに社会的な階級が決まってしまう傾向はどの国にもあるが、その程度は様々である。このように、民主主義の理念さえ定義が難しく、まして、何を以て民主主義社会の具体像と言えるかは非常に難しい。縮小社会も全く同様である。

そもそも、具体像とそこに至る道程が不明では社会の改革は不可能という考えには、社会は何か一定の法則で変化し、一定の具体像となって現れるという前提がある。ここには、科学技術万能の現在を支配している機械的決定論の大きな影響が感じられる。「物質の運動状態は外力および初期条件と境界条件によって一義的に決まり、ニュートン力学ですべて予測可能である」;「物質の集合体は部分に分けて個別に解析すれば全体のすべてが明らかになる」という機械的決定論は、確かに科学と技術の発展に大成功を収めた。そのため、森羅万象はすべて機械的決定論で解明することができ、それによって人間は宇宙を支配できると思われた。一時世界を制したこの哲学は、その後、素粒子はニュートン力学とは異なった動きをし、決定論的な予測は不可能であることが発見されて物理学自身から否定されはしたが、依然として人々の頭にこびりついている。素粒子の動きには量子力学が必要でも、目に見える普通の物質を始め、宇宙飛行や天体の動きにはニュートン力学がそのまま使えることが、普通の人がこの哲学の絶対性を信じ続ける理由の一つだろう。

この哲学はそのまま社会や人間の動きにも適用され、「各個人が自己利益の最大化のために最も適切な行動を選択すれば社会の状態は一義的に決まる」という現在の市場経済社会の基礎をなす思想となっている。ここでは、人間もまた個別の性格を持たず、他の全ての物から分離して独立した物質分子と同じように、一定の状況ではみな同じ行動をすると見なされているのである。アダム・スミスが「見えざる手」という言葉を使った時には、物事を決定論的に動かす自然法則の存在を思い浮かべたのだろう(アダム・スミスの時代は自然科学が新しい思想として急速に普及した)。しかし、人は常に自己の利益だけを最優先するとは限らないので、同じ条件なら誰でも常に同じ行動をとる事にはならない。社会はそんな人間の集団だから、実際は機械論的には動かない。合理主義的理論に基づく政策が現実から遊離し、種々な悪弊を生み、人々を幸福にすることができないのはそのためである。

大変革は具体像なして進行する
実際は、何か大変革が行われる時、あらかじめ描いた変革後の具体像やそこに至る道程表に基づいて進行する例などほとんどない。社会の形成は機械の製造やディズニーランドの建設とは違うのである。洋の東西を問わず歴史上何度も繰り返された王朝や旧体制の打倒などの大変革は、革命児が先導した武力闘争の場合でも、同志や庶民の広い支持がなければ不可能だったが、その支持を得るために新体制社会の詳細な具体像が示された事などは一度もなかっただろう。近年になってから平和的に行われた明治維新も、アメリカの独立も、ソ連の解体も、南アフリカの黒人差別解消も、戦後から今なお進行中であるアジア諸国の民主化も、庶民は提示された将来の具体像を見てから支持したわけではない。外国の例はあっても、外国と条件が違う自国がどうなるかはわからない。企業でも同様で、何か革新的な事を行おうと誰かが提案する場合、あらかじめ詳細なシナリオを描いたという例も、シナリオの通りに実行できたという例もあまりないだろう。それが出来るようだったら、革新的でも何でもなく、他社に先駆けて独自の道を開くことなど不可能である。企業の革新は多少のリスクの覚悟も必要だろうが、縮小社会への方向転換にはリスクは何もない。

社会体制の一足飛びの転換でなく、普通に行われる政策でも、設計図など存在しない場合が多い。現在、どの国の政府も持続的な経済成長を最大の目的として種々な政策を行っている。政官財学の人達は、それが全ての人類に幸福をもたらす唯一の道だという怪しげな理屈をつけているだけで、将来社会の具体像は何も示していない。それでも政府の成長政策に反対する人が少ないのは、具体像が示されていないからこそである。都合の悪いことはあまり考えず、自分自身で不都合を感じない限り、現状がいつまでも続くことを願い、また、それが可能と思いたがるのは、誰にでもある一般的な傾向である。そうして、成長政策に賛成する人は、自分では、かつての景気の良かった時の様子を具体像として描いているのだろう。しかし、資源の不足などによって経済拡大の余地がなくなって奪い合いが激しくなっている現在の社会は、崖っぷちに迫っており、無理な成長政策が待ち受けている具体像を真面目に想像すれば、好景気の再来どころではなく、行き詰まった社会の姿でしかない。

人々が社会の大変革を支持するほとんど唯一の理由は、変革後の具体像に共感するからではなく、現在の自分達を苦しめている最大の原因を除けば世の中は良くなるという期待だろうう。大変革に不安を抱くのは人の常だが、現在の不条理を強く感じ、真の原因をはっきりと認識すればするほど、不安より期待の方が大きくなり、最初の漠然とした期待が確かな期待になり、変更を支持する気持ちも強くなる。したがって、大変革への期待の大きさは、眼下の現実の不条理を知ることに比例し、多くの人が現在の問題点とその原因を知りさえすれば、大変革への一歩を踏み出すことが出来る。現代の大多数の庶民にとって、生活の安定と幸福・平和を脅かしている最大の敵は大量消費を良しとする拡大主義であり、その実権を握っているのが化石燃料という王族だから、まずはその力を削ぐことが第一歩で、多くの人がそう認識さえすれば、直ちに着手可能である。この認識には、理性的に考えれば容易に達する。もしそれが認識できないとしたら、それを妨げているのは客観的な根拠ではなく、大量消費社会への執着という主観だけだろう。

なお、ここでは、将来の具体的な姿を考えることはすべて無意味と言っているのではない。例えば、何かの技術を導入する場合には、あらかじめ環境、道徳、社会への影響をできるだけ具体的に検討しておく必要がある。技術はそれ自身が社会の目的ではなく、本来は人間や社会の質の向上のための手段に過ぎないにも関わらず、その普及が人間の管理が及ばない悪い結果を齎すことが多いからである。原子力の利用はその筆頭だが、大規模に普及した複雑かつ高機能高性能の技術製品や、いわゆるハイテク技術と言われる技術には、既にその悪影響が大きく現れている。

具体像は徐々に形成される
何事によらず、変革は核心となる行動から始まる。王朝の打倒や支配階級の特権の剥奪など諸悪の根源と思われることの解消、あるいは、選挙制度などそれまでにはなかった画期的な制度の開始などである。それが様々な方面にいかに影響するかという具体像をあらかじめ描いてから開始した国ことなどなかっただろう。縮小社会への第一歩も化石燃料消費を年々削減することから始まると書いたが、それがいかなる分野に波及し、どのように展開して最終的にいかなる具体像になるかは、人が何を望み、その過程でどんな課題が新たに生じ、それに対して人々が如何に対応するかによるから、今後の経過を見なければわからない。本来、社会の改革は上からの指示で行われるものではない。上からの指示待ちでは改革も問題の根本的解決も不可能である。平和的な改革を望むならなおさら、一人一人が考え、それを自分自身の行動に移して行かなければならない。一人一人のそのような行動の積み重ねが社会全体に反映することによって、徐々に具体像が形成されて行く。歴史はそうして造られて行くのだろう。

化石燃料の許容消費量が減少してゆくにつれ、エネルギー消費の多い製品やサービスは高価格になって市場原理で次第に淘汰されて行く。ただし、エコポイント、エコカーや太陽光発電の補助のように、政府の作為が入ると市場原理がうまく働かずに、偽のエコ製品がいつまでも残る可能性がある。エネルギー消費の大きな製品が市場から消えて行くと、人々の生活もそれに合わせて変って行く。市場原理だけでうまく対応できない場合には、補助的な政策を加えてもよい。例えば、一般道路での大型車や高性能車の締出し(安全上からもそうありたい)、家電製品のエネルギー消費規制などは、エネルギー消費の削減をより促進するだろう。それはともかく、化石燃料消費の削減を一挙にではなく毎年少しずつ削減して行くのは、様々な分野ができるだけ無理なく対応できるようにするためである。したがって、最終的に化石燃料消費が実質的に0になるまでにはかなりの期間を要するから、その過程では実際の具体像そのものも一定に留まる事なく変化して行く。

例えば、毎年2%ずつの化石燃料削減を決めたとすると、総消費量は35年毎に半減する(年X%の削減なら70/X年毎に半減)。35年後には現在の50%まで下がるが、この程度の数値は、既にCO2削減目標に掲げている国もあるから、驚くに当らない。日本の化石燃料国内供給量は、1968年が2011年の45%、1965年が2011年の30%だったから、物質的生活水準はそれほど低くはならない。それ以後も35年毎に半減し続け、70年後には現在の25%になるが、現在の10%以下になるのは114年、1%以下になるのは228年後と、かなり先である。ただし、実際には、この計算のように毎年一定の割合で削減が続くかどうかはわからない。状況によっては、削減率の変更もあり得るし、残存資源の質の低下による価格上昇がそれ以上の自然削減をもたらすかも知れない。また、将来引き続いてエネルギー供給量が減少し続ける事が前提条件となれば、経済の継続的な縮小が予想されるから、新規の投資が減少し、経済とエネルギー需要の縮小を更に加速させるかも知れない。可能性としてはこれらの方が高いだろう。

また、水力、地熱、太陽光、風力などの再生可能エネルギーに多大な期待を寄せる人のために、化石燃料もバイオマスも必要とせずにそれらを大量の電力や熱に変換する技術が生まれる可能性があると仮定しよう(実際にはその可能性はほとんどないと思われるが)。そうすると、縮小の最小必要条件が達成された時点で利用可能な総エネルギーの量がどれほどか、したがって物質的な生活水準がどれほどになるかは尚更不透明である。現在、これらの再生可能エネルギー利用技術は、多くの疑問点を棚上げにしたまま、ひたすら経済成長を目論む政府の資金援助などにより推進されているが、実際に化石燃料供給が減少して行けば、これらがどれだけ本物かを事実が明らかにするだろう。

また、エネルギーが持続可能になっただけでは自然環境の持続可能性を回復できない場合には、更に再生可能資源の利用制限や環境への物質排出の制限を強化しなければならないが、これがどの程度必要で、経済や人々の生活に更にどのような影響を及ぼすかは、今のところは全くわからない。いずれにしても、社会の変化は見えない部分が多く、しかも一定の変化を続けるのではなく、ある時には大きく変り、ある時にはあまり変らないという状態を繰り返して行くものである。

具体像の手がかりは豊富にある
上述のように、社会は常に変化して行くことも、決まった具体像が描けない一つの理由になっている。したがって、具体像のようなものを今考えるとしたら、それは計画や必然の結果ではなく、「こうなるだろう(またはならないだろう)」という予想、あるいは「こうありたい」という希望であること、したがって、人によりかなりの相違があることを承知しておく必要がある。こんな具体像が様々示され、多くの人が議論するのは縮小社会を身近なものにするために大変良い事だが、これは他人に尋ねたり、他人の指示を待ったりするより、まずは個人個人で考えて見る方が良い。とは言っても、全くの白紙状態から想像しなくても、手がかりはいくらでもある。

日本でも外国でも、環境保護、地産地消、リサイクル、自転車や路面電車の推進、里山運動、もったいない運動その他、多くの人がこうあるべきだ、こうありたいと願って様々な活動をしている。新聞、テレビ、雑誌、インターネットにも沢山の情報があるし、書店に行けば詳しく書いた本が山ほど並んでいる。これらの多くは環境や資源に関係する問題、あるいは所得格差、労働条件の悪化、失業など、現代経済がもたらした倫理・正義に絡む問題の緩和または解決を目指しており、その根本的な原因はすべて現在の消費経済が拡大し過ぎたことにある。文化や教育など、環境や経済とは直接関係が薄いように見える分野の問題も、その根本原因が拡大型経済社会の在り方にある場合が多い。したがって、これらの諸活動が目指すものはそれぞれ、縮小社会の具体的な一面なのである。言い換えれば、これらすべての活動の本質は社会の縮小である。「縮小社会」という言葉は負の印象を与えるという人でも、持続可能な社会、地産地消、環境保護、リサイクルなど他の言葉で表現すれば負の印象を感じないとすれば、それは、それらの本質が縮小であること理解していないことになる。

・例えば地産地消は、物質循環、地域環境の保護、地域の経済的文化的な活性にとって非常に有効であり、農業だけでなく日用品などの小工業部門も含めれば一層効果的だが、それは、エネルギー消費はもとより企業規模、人や物の輸送量と移動距離などの縮小であり、経済の縮小でもある。したがって地産地消の進展は交通体系、産業構造、都市や農漁村の様相、工業製品の種類や機能性能の変化と必ず連動する。何がどこまでどのように変化して行くか、今は詳細は不明だが、社会のあり方も人々の日常生活も一変することは確かである。
・温暖化防止、大気・水・土壌の防止、森林や生物多様性の保護などの環境保護活動も、すべては社会の縮小にその本質があり、社会の縮小を伴なわなければ目的の達成はできない。環境破壊はエネルギーと資源の多用が齎したものだから、これらの環境保護運動の目指すところは本論の縮小社会と同じである。政府や財界およびそれに密着した学界による環境保護活動がほとんど実を結んでいないのは、縮小の意識が無く、相変わらず拡大経済主義の枠組みの中で行おうとしているからである。環境関連の産業による経済成長などはあり得ない。
・道路交通の安全、自転車や路面電車の普及、地方鉄道の回復や充実などに関する活動もすべて脱自動車、したがって交通に関わるエネルギーや資源消費の縮小である。交通輸送の縮小は地産地消を進めることでもある。
・地域貨幣、減価貨幣、贈与経済の提案も、主な目的は地域経済の活性化(地産地消)や、無限の経済成長を促す要因を取り除くことが目的だから、縮小社会の一つの姿である。
・伝統文化や固有の言語が忘れられるのを防ぎ、これらを大切にしながら更に発展させようという活動も、その根本的な原因が経済の広域化・全球化にあるから、社会が縮小すれば人・物・情報の外国との交流もそれに伴って減少し、伝統文化が復活して行くだろう。ただし、縮小社会は物質的な縮小だが、文化は物質の多寡にはあまり関係ないから、社会の縮小によって文化がどれだけ変るかは、人々の選択に全面的に依存し、予測は不可能である。

これらの諸活動は皆、全国的、世界的に拡がってしかるべきであるし、将来必然的にその方向に変って行くだろうと思われる事も多い。だが現在は、これらの諸活動に関心を寄せ、積極的に参加する人は、増えているかも知れないが、社会全体から見ればまだ少数に留まっており、急速に広まって社会全体を変える趨勢には至っていない。その大きな理由は、社会全体が現在もなお大量消費・拡大思想に支配されているからである。この思想の下では、これらの活動を支持するか否かは選択の問題とされ、それぞれ独立した個別の運動の範囲を出ない。現在積極的に活動している人達からも、それがより全体的な縮小社会の一側面である言葉はあまり聞かない。したがって、これらの諸活動にはすべて社会の縮小という共通点があると意識すれば、それぞれが理論の上でも実践の上でも繋がることができ、より多くの人を理解させ、引き付けることができるだろう。逆に、縮小社会を意図し、その核心である化石燃料の削減に踏み出せば、これらのどの活動にとっても有力な条件となり、実現化や社会全体への拡大が早まるだろう。

縮小社会の将来像を自分で描くためには、自分自身の生活の縮小を試みるとよい。大量消費や必要以上の技術の使用を余儀なくされている現在の社会では、自主的な縮小だけでは限度があり、政治を動かさない限り本格的な縮小社会にはならないが、それでも、自主的な行動を通じて縮小社会の考えが身近になり、自分なりの具体像や政府に望むべき政策が次第に浮かび上がって来るだろう。生活の縮小は、それを通じて縮小社会の必要性・必然性をしっかり理解し、政治や社会を動かす力に変えることだから、誰でも考えるようなありふれたことを、無理をせず自分のできる範囲ですればよい。ありふれたことと言うのは、要するに「足るを知る」ことであって、資源の消費を減らすために余分な物やエネルギーを使わず、必要な物は大切に長く使う事、機械に頼らずなるべく自分の身体を使う事、無用な経済成長を防ぐために余分な金儲け、特に金融による不労所得を考えないこと、消費や日常の家業運営経費は借金に依存しない事、生活を楽しむのは、カネやモノを使うより自分の身体や頭を使うことに楽しみ喜びを見つけることである。社会を動かすための最小の行動は、選挙でそれにふさわしい候補者に投票することで、これも誰でも容易にできる。それによって、次第によりふさわしい候補者の数が増え、やがては政治を動かす力になってゆくだろう。
2014年8月6日

  1. 2014/08/06(水) 21:51:43|
  2. 政治・社会・経済
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