FC2ブログ

縮小の時代

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

縮小社会とは何か その1 最小限の必要条件

はじめに
本ブログでは「縮小社会」という言葉をしばしば使っている。縮小社会は現在より何かが縮小した将来の社会であることは確かである。昔の社会は現在から見ればみな縮小社会であり、そこには共通する何かがあった。しかし、歴史の完全な逆戻りはあり得ず、既に科学と技術を知り、民主主義・大量消費の文明を経験した我々が目指す縮小社会は、昔と全く同じ縮小社会ではない筈である。それでは、将来の縮小社会とは一体どんな社会を指すのだろうか。実は、筆者が属している「縮小社会研究会」でもはっきり定義されているわけではない。

これはむしろ当然で、誰でも普通に使っている資本主義国、社会主義国という言葉でさえ、その定義も本来あるべき姿もはっきりせず、資本主義国を自称する日本には中国以上に社会主義的な面もある一方で、社会主義国を自称する中国が日本以上に資本主義的な面を持っている。人が「何々社会」という名称をつけても、それはこうであってこれ以外ではないと、線で土地の区画をするような輪郭づけが目的ではないし、無理にそんな輪郭づけをしてもあまり意味がないのである。言葉の役割は物事を区別するためだが、それは必ずしも境界を確定することではない。境界が確定できないのは物事の本性から来ており、例えば男と女、植物と動物、自動車と自転車など、自然物か人工物かに限らず、必ずどちらとも区別できない部分が存在する。まして、社会は様々な考え方を持って様々な行動をする人間の集団だから、物質以上に輪郭がぼやけているのが普通である。縮小社会についても、万人が認める標準的な定義を決め、こうでなければならないという標準的な具体像を描くことは不可能だし、無意味なのである。それぞれの社会や個人が、自分達に最も適している在り方を考え、実践して行けばよい。

何をもって縮小社会と称するかは、そこの住民が何の縮小を重要と考えるかに左右される。これはそれぞれの社会の歴史的、地理的、文化的など様々な条件にもよるから、国によって異なるし、同じ国でもその時の状況によっても異なる。したがって、以下に書くのは、現在の地球全体にも、日本を初めとする個々の国や社会にも通ずると思われる縮小社会と呼べるために最小限必要な条件、つまり、縮小社会の核をなす部分についての私個人の考え方である。あくまでも私個人の考えであって、それが標準的でもなければ絶対的でもない。しかし、今の段階では、これが最もわかりやすく、確実に実施に移せるのではないかと思う。

結論を先に書くと、最小限の必要条件とは環境の持続可能性を回復すること、そのためにはまず化石燃料消費の厳格な総量規制に踏み切る事、および、それに付随して、所得の平等化を図る事である。それが縮小社会に近づく第一歩で、それさえ実行に移せば、縮小社会に関する諸々の具体的議論は差し置いても、縮小社会に向かって大きく舵を切ったと言える。

縮小社会が目指すこと
縮小社会は拡大社会である現在と対極にある。現在の社会は、何事も「より多く、より多様に、より速く、より遠く」が進歩であるいう拡大主義の考えが浸透しており、それはそのまま人間は皆他人を考慮せず自己の利益だけを追うのが最も効率的だという利己主義を基本とした経済成長主義と一体になっている。その最強の道具が科学に基づいた技術である。しかし、何事も無限の拡大が不可能であるように、経済も既に地球環境が許す限度を超えて肥大化し、環境汚染、資源の先細り、不平等な格差など致命的な病状を呈している。

経済生産とは資源を金銭に換えることに他ならない。現在は「金銭は富であり、富とは金銭である」と錯覚した金銭至上主義の世の中で、ただGDPという空虚な数値を増やすだけのために貴重な自然資源をせっせとつまらぬ商品に変換している。しかし実際は、金銭はそれ自体が富ではなく、実体財との引換券という虚構の富に過ぎない。自然環境にとって、金銭は負債であり、資源を強制的に供出させる令状である。自然資源をつまらぬ商品に換えて金銭を得ても、真の富である自然資源が減少するだけで、社会には何の得にもならない。自然資源の減少が加速している現在は、経済規模は既に適切な程度を超え、これ以上GDPを増やすことは困難になっている。無理に消費を増やせば利より害の方が大きく、既にその段階に来ている。仮に資源消費を減らしながらGDPを増やせても、それは貨幣価値を落とし、バブル化することでしかない。

それにもかかわらず、日本も、世界の国々も、相変わらず経済成長の幻想に浸ってひたすら「成長戦略」ばかり考えている。本来の政治家は、一般の人々以上に先見の明があり、人間の求めるべきより理想的な社会を実現したいという道徳的意思を持っている筈だが、現在は、そんな政治家は世界中を探してもほとんど見当たらない。歴史的な大局観も正義感も乏しく、すでに危機が目前に迫っているのに、それを知らずか無視してか、超目先の利益を追って舞台で踊ることだけを仕事とする小人ばかりのようだ。人々の暮しが豊かになるどころか、却って貧しい人が増え、様々な社会的歪が現れているのは当然である。

このまま行けば、将来に見えるのは、ますます減少する資源を巡る奪い合いの激化であり、正義も道徳も薄れ、多くの人々が悲惨な思いをする崩壊した社会でしかない。既に戦争の危機が拡大しつつある。縮小社会の究極の狙いは、そんな社会の崩壊を防ぎ、利己主義と利己主義が競争して経済を拡大すれば皆が幸せになるなどと言った馬鹿げた妄想を捨て、人間同士が互いに尊重し、協力し合い、正義や道徳が通じる社会にすること、言い換えれば、近い将来に社会の崩壊を招くことが明らかな原因を取り除き、社会を持続可能な状態にすることである。 社会の縮小化は選択の問題ではなく必然である。選択できるのは自然のなり行きに任せるか、その前に計画的に縮小するかのいずれかでしかない。前者の場合は多くの人間が悲惨な目に遭い、後者の場合はそれが防げる。ちょうど、燃料が尽きかけている飛行機にいつまでも空中に留まるという選択はなく、選択があるとしたら、墜落を待つか、その前に着陸するかのどちらかでしかないのと同じである。従来の考え方を根本的に変えずに、経済の許す範囲の対策や効率向上などの環境技術だけに頼ろうとするのは、エンジン効率の改善で問題が解決できると考えるのと同じで、仮に航続距離が多少伸びても、着陸しなければ結局は墜落する。

縮小すべきは人間活動の物理的規模
現在は絶えず経済成長を続けなければ成り立たない社会になっているが、縮小社会は絶えず縮小し続ける社会ではなく、次の最小必要条件を満たすまで縮小すれば、それ以上の縮小は必ずしも必要ない。その最小必要条件とは「人間活動の物理的規模を環境が持続可能になるまで縮小すること」である。その理由を三つ挙げる:

第一に、食糧を始め生きるために必要なすべての物質の供給源であり、廃棄物の完全処理場であり、かつ精神の拠り所である自然環境が、人間の過剰な収奪によって疲弊し続け、既に持続不可能な状態に陥っているからである。いかなる社会であれ、健全な社会が存続するためには、まず自然環境の持続可能性回復が絶対である。自然環境の破壊は、資源は無限にあり、それを使えば生活の物理的規模を無限に拡大して無限の幸福が得られるという誤った考えがもたらした。したがって、地球の限界を認め、物理的規模を縮小することが、環境の持続可能性を回復する不可欠な条件である。

第二に、環境の危機は技術の進歩で解決できると安易に考えている人が多いようだが、それは不可能で、人間活動の物理的規模の縮小しかあり得ないからである。現在多くの人々が考えている技術進歩とは、従来以上に複雑巧妙で、貴重資源を多量に使用し、生産コストが上がる技術である。環境にやさしいと宣伝され、人々の期待を集めている「いわゆる環境技術」も、ほとんどはその範囲を出ない。これらは拡大主義の延長にある技術だから、そんな技術が普及した場合、生産・使用・リサイクル・最終的な破棄という全過程を地球規模で総合的に考えれば、結果的に資源や化石燃料の使用量が却って増大する可能性の方が高い。環境負荷の正確な分析は不可能なので、楽観的な見積りに騙されやすいが、経費が上昇することや、それが経済成長になると考える経済専門家がいることも、却って環境負荷が増大する可能性が高いことを示唆している[1]。個々の製品のエネルギー効率も、総量規制が無ければ、却ってエネルギー総消費量を増やすことにしかならない。これは、効率向上はその製品の大量使用を前提としているからである。縮小社会の技術に要求されることは、効率向上や機能・性能の拡大より、とにかく資源やエネルギーや廃棄物を総量として小さく抑え、決して増やさないことが絶対優先だから、結局は物理的規模の縮小である。それは、機械への依存を減らすこと、機能や性能の簡素化、小型化、ハイテクよりローテクという、今迄の技術とは方向の逆転であって、資源の総量制限が実施されなければ、そのような逆転は起らないだろう。
[1]石田靖彦、"試論:お金のかかる環境保護は本物か" 縮小社会研究会 第8回研究会資料 2011.4.3 http://shukusho.org/data/8-3.pdf

第三に、物理的規模の拡大をやめれば、無限の経済成長への幻想がなくなり、それに伴って、成長主義経済がもたらした環境破壊以外の様々な問題、すなわち格差、不平等、人間疎外といった正義や道徳に関する種々な社会的歪もおしなべて改善され易くなるからである。凡そすべての社会問題は、正義や倫理に反すると理性が教えるからこそ社会問題になるのであって、問題の根源は、他人を踏みつけても自分の利益だけを最優先すればよいという現在の成長主義経済思想から来ている。したがって、経済成長主義がなくなれば、利己主義のぶつけ合いよりも協力の方が重んじられ、多くの社会問題がより解決しやすくなるだろう。

言うまでもなく、物理的規模の縮小だけで社会が完全に持続可能になるとは限らない。例えば、小規模な農業でも、いつかは土地が疲弊してしまう可能性もあるし、社会を崩壊に至らしめる理由は自然環境の破壊以外にもある。しかし、社会の持続を不可能にする原因をこと細かく探求しての一切合財を取除いた完璧な持続可能型社会を提案することが現在の必要ではないし、不可能でもある。それを待っていたら何も進まない。今必要なことは、現在の最も重要かつ緊急の課題である自然環境の持続可能性を回復すること、そのための必要最小限の方策の実施に踏み出すことである。縮小社会の定義はわからないと上に書いたが、縮小社会とは、様々な具体的様相まではっきりしたモデルを指すのではなく、物理的規模を持続可能な範囲内に抑えることによって生じた社会が縮小社会であり、各部分の具体的な様相には様々な形があり得ると考え方がよい。

三項目の必要条件
人間活動の物理的規模と言っても、例えば人口、利用する土地の広さ、移動距離、使用する物質やエネルギーの量など様々あるが、最小限の必要条件は次の三項目である:
①再生可能資源(生物資源等)の利用量を再生量以下に抑える;
②非再生可能資源(化石燃料等)の利用量は、残存可採年数を減少させない範囲に抑える;
③環境への排出量は、環境が完全に同化処理できる量以下に抑える。

これは、有名な「持続可能であるためのデイリーの三原則」のうち、非再生可能資源に関する項目②を私なりに修正したものである。①、③は誰が見ても当然で修正の必要はない。これらについては、現在既に規制されているので、今後も必要に応じて規制の範囲を広げながら強化して強化して行けばよい。非再生可能資源については、デイリーは、利用した分だけ代替となる再生可能資源に投資すること、例えば、年間に採掘した石油と同量のアルコール燃料を毎年作れるだけの樹木を植えればよいと書いている [2]。しかし、石油にせよ、他の化石燃料や金属資源にせよ、質・量共に代替できる再生可能資源は事実上存在しない。例えば、石油は燃料以外にもアルコールで代替できない種々な用途があるし、金属元素にはそれぞれ他の元素では代替できない特質がある(だからこそ様々な種類の金属が適材適所で使われている)。太陽光発電等への投資でも、その発電装置が老化すればそれで終りだから代替にならない。
[2]DALY, Herman E. "Toward Some Operational Principles of Sustainable Development" Ecological Economics, 2 (1990) 1-6 なお、デイリーは、旭硝子財団が主催するブループラネット賞の今年の受賞者になった。

化石燃料や金属などの非再生可能資源は、賦存量が有限である以上、如何に少ない消費でも永久に消費し続けることは不可能で、完全に消費を止めない限り持続可能にはならない。しかし、いま直ちにすべての消費を止めることもできないので、徐々に消費を減らして行くしかない。将来の世代との公平を考慮すれば、これからは「残存可採年数を減少させない」のが最も妥当で、これ以外にはないだろう。これは完全ではないが準持続可能な状態と言える。この方法は、現在の残存可採年数を50年とすると、消費量を毎年2%ずつ削減させることを意味する。現在の残存可採年数が100年なら、毎年1%の消費削減となる。毎年2%の削減は、その気になれば大した混乱なく十分可能だと思われるが、それでも35年毎に総使用量を半減させなければならないから、かなりの大幅な削減になる。埋蔵量の確認は種々な問題を伴うが、科学的根拠と公表を原則にする必要がある。

核心は化石燃料
上述した物理的規模縮小の三項目の中でも、その核心として真っ先に実施すべきは化石燃料の消費削減である。化石燃料は現在の世界のエネルギー消費の大部分を占めている。化石燃料は人力や畜力は無論の事、水力、風力などの物理的な天然エネルギーと比べても桁違いに高密度のエネルギー源であって、それまでの文明の在り方を一変した。この高密度エネルギーの生成には何万年分もの太陽エネルギーの凝縮を必要としたのであり、現在の太陽エネルギーをその場で転換した「再生可能エネルギー」が化石燃料の代替になり得ないのはそのためである。(「再生可能エネルギー」とカッコ付きで書いたのは、太陽光発電も風力発電も真の再生可能エネルギーではないからである[3]。)
[3]本ブログ 2013年11月18日 "自然エネルギーも虚偽表示だ"
http://shitou23.blog.fc2.com/blog-entry-159.html

化石燃料はまだ豊富にあるので、本当に枯渇するのは遠い先だと一般に信じられているようだが、それは現在の大量消費生活と一層の経済成長を続けたいという願望が現実を見る目を覆っているからに過ぎない。資源を持つ国や企業の秘密主義にもよる。実際は良質で採掘簡単な資源から採掘されて行くので、後に残る資源ほど質が悪化して採掘に必要なエネルギーが多くなり、実質的に取得可能な正味のエネルギーは、見かけの埋蔵量より急速に減少してゆく。大量にあると言われているシェールガス、シェールオイル、メタンハイドレートなどの「新化石燃料」も、劣化した化石燃料資源と同じだし、もし安く大量に使えればそれも早々に底をつく。化石燃料の価格は資源の劣化と共に高くなるので、完全に枯渇する前に大量使用が不可能になって現在の経済が続かなくなる。

種々な化石燃料は必ずしも相互代替にはならない。特に輸送交通エネルギーの大部分を占めている石油は、世界の産出量が既に歴史的な頂点を超え、供給力はこれから年々下がる一方で、物流の広域化と途上国への自動車普及で需要はますます高まっている。産油国も自国での消費が急速に上昇中で、輸出の余裕がなくなりつつある。近い将来の高騰は避けられず、そうなると輸送交通が途絶え、食糧や生活用品の高騰を招いて、庶民の生活に大打撃を与える。そうなる前に一日も早く総消費量の削減を開始し、それに合わせて社会や生活の在り方を変えて行き、社会資産として後世に伝えること、これが現代人に残されたせめてもの義務である。

化石燃料の大量消費は現在の技術文明と拡大社会の根源であり、もし化石燃料がなかったら、これほどの経済成長も環境破壊もなかった。したがって、化石燃料の消費を大幅削減させれば、その結果としてあらゆる方面の人間活動が縮小の方向に向かい、①、③の条件も波及効果として自然に満たされる可能性がある。 逆に、化石燃料の削減なしには、いかなる縮小を図っても自然環境の持続可能性は回復できないから、真の縮小にはならず、社会の崩壊は免れない。

化石燃料の大幅な消費削減は、前述のような達成目標を法律化し、確固とした政策を実施しない限り、効率向上技術でも、個人や企業の自主的行動でも不可能である。総量規制のない単品の効率向上は、却って使用時間や普及率の増加を促し、社会全体としては却って消費量を増加させるのが一般的である(リバウンド効果)。自主的な節約だけでは、現在の生活水準を大きく変えるところまでは行かない。総量規制の実施方法はCO2の排出削減と実質的に同じで、既に割当制度、炭素税(あるいはエネルギー税)など様々な方法が提案されている。国際的な協調も必要だが、仮にそれが困難でも、自国だけでも実施する決断が必要である。どのみち、化石燃料消費の縮小は経済の国際化を縮小させ、一国主義の傾向を強める。
CO2排出削減が目標通り行かないのは、物理的な困難からではなく、目標の絶対達成という覚悟がないからに過ぎない。これが経済成長より優先すべき課題だという認識に欠け、本心はやりたくないために、代替手段(質・量共に化石燃料に代替するエネルギーの普及)が不十分という物理的障害に問題を置き換えていつまでも先延ばししているのが現状である。代替手段の有無に関係なく早く削減に踏み切ることが先決で、これは、食べ過ぎによる肥満を治すには、好きなだけ食べても太らない方法を探すしてぐずぐずしているより、まず節食に踏み切ることが先決なのと同じである。

化石燃料制限が偽のエコを淘汰する
現在の世の中でエコと言われている技術の多くは、化石燃料消費の削減になると信じられている。太陽光発電、風力発電、電気自動車、ハイブリッド車、水素燃料電池、家庭用蓄電池等々。しかし、本ブログでも度々取り上げているように、これらが本当に全体として化石燃料消費の削減になるかどうかは非常に疑わしい。エネルギー以外の環境技術、例えば紙や金属のリサイクル、排出物の処理技術なども、それらの普及によって化石燃料消費が増えるようでは真のエコにならない。
これらの技術がエコだと信じられている理由は、その技術製品の生涯(原材料およびエネルギーの生産から部品や本体の生産、生産物の配送、使用、使用後の処理という全過程を含む)にわたる化石燃料の消費量や、その他の環境負担の評価(生涯環境影響調査 LCA)を正確に行うことが事実上不可能だからである[1]。評価が困難という事は、実際に実用段階に入っても、大量に普及するまでは負の面が見えて来ない事でもある。それ故、技術への信仰が強い現在の社会では、企業寄りの人達が行う、負の側面をなるべく無視した見積り計算による「効果あり」という評価報告が容易に信じられてしまい、環境保護に熱心な人は高い代金を払って積極的に使おうとし、そうでない人には政府は税金を使って使用を促そうとしている。企業や政府がこれらの怪しげなエコ製品を推進するのは、本当に地球環境の保護を目指しているのではなく、それが新たな市場の開発であり、企業の利益や経済成長に寄与すると考えるからである。
[1]例えば "太陽光発電や風力発電を信用する根拠は?" 本ブログ2011年5月26日、または
"試論:お金のかかる環境保護は本物か" 第8回縮小社会研究会資料 http://shukusho.org/data/8-3.pdf

しかし、化石燃料の総消費量を削減して行けば、生産に大量の化石燃料を消費する製品は高価になって経済的に成り立たなくなり、市場から淘汰されて行くことになる。エネルギー関連技術に限らず、他の環境技術についても同じことが言える。逆に、もし本当に化石燃料消費を削減する製品なら、他の製品より価格的にも有利になり、政府援助など行わなくても自然に普及して行く筈である。したがって、真の環境技術を普及させるために最も効果的な方法は、化石燃料総消費量の削減を実施することである。

化石燃料の制限に伴う森林破壊の防止
化石燃料は火力エネルギー源である。日本では、最終エネルギー消費のうち電力は26.0%で、残りの74%は交通燃料や工場・家庭での熱源、つまり火力エネルギーとして使われている(2012年エネルギーバランス表)。化石燃料以外の火力エネルギー源は木材しかないから、化石燃料が使えなくなれば、その代替として木材の需要が高まり、放っておけばたちまち国中が禿山だらけなってしまう。これは前述した三項目のうち①(再生可能資源の使用は再生量以下)の侵害である。現在より桁違いにエネルギー消費が少なかった昔でさえ、燃料源として森林を破壊したために滅びた社会がいくつもあった。江戸時代でも、森林破壊が国を滅ぼすことは良く理解され、森林保護は厳格だった。したがって、化石燃料規制と同時に、森林伐採も厳しく規制しなければならない。なお、現在のような電力社会でも電力需要は火力需要の1/4に過ぎないことは重要で、化石燃料が減少すれば電気料金と共に電気製品(その生産に大量の化石燃料が必要)の生産コストも上昇して簡単に買えなくなるので、電力需要の割合は一層減少するだろう。したがって、太陽光発電、風力発電などをあまり増やそうとしても意味がない。

所得の平等化は不可欠
物理的規模の縮小のために必要なもう一つの不可欠な方策は「所得の平等化」である。環境の持続可能性が保たれる状態では、使える資源の量、従って物質的生活水準は現在と比べてかなり低い。現在のような奪い合いを原則とした競争社会では、物質総量が減少すればますます無情な競争が激化し、貧富の格差が一層拡大して不満を持つ者が増え、世の中は不安定になる。しかし、物質の総量が減って生活水準が質素になっても、皆が同じなら誰も苦労だとも不幸だとも思わない。現在のような奪い合いの競争に基づいた社会では、自分の縮小が「負け」のように感じて消極的になるから、総量削減は非常に困難(恐らく不可能)だが、分配の平等化を同時に行えば、かなりの総量削減が可能になる。「みんな一緒なら大丈夫」である。

所得の平等化は、累進率の高い所得税、ベーシックインカム、高水準の最低賃金法、企業の勝手を制限して雇用を安定化を図る事、独占禁止法の強化、大企業化に一定の制限を設ける事など、様々な方法がある。国際貿易の制限は、地産地消を促進して所得の平等化にもなる他、石油消費の削減、環境汚染の軽減にもなる。いずれにせよ、これらの実施には法律の力が必要である。もちろん、所得の平等といっても、個人個人の条件や努力を無視した絶対的平等と言うわけではない。しかし、最も所得の少ない人でも、この世は不公平だと感じなくてすむ程度までの平等化は必要である。現在の所得格差は決して個人の努力や才能の結果ではなく、たまたまよい環境に生まれたという偶然、あるいは、金のある者や権力のある者がますます有利になるという、道徳より利己主義が優先された社会の欠陥がもたらしたものであって、正義の範囲を超えている。
2014年6月27日

  1. 2014/06/27(金) 12:38:37|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:0
<<集団的自衛権の閣議決定:歴史に残る悪政 | ホーム | STAP細胞問題の論点は何か>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://shitou23.blog.fc2.com/tb.php/167-8d72a035
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

現代社会は持続可能か

一応そうであるとして、次の問題は、この先、将来、人々がますます無宗教となっていく
  1. 2014/06/29(日) 21:15:52 |
  2. 哲学はなぜ間違うのか?

プロフィール

石田靖彦

Author:石田靖彦

フリーエリア

最新記事

----------

過去の記事一覧

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (15)
環境 (20)
エネルギー (29)
原発 (45)
伝統文化 (0)
科学と技術 (21)
政治 (12)
政治・社会・経済 (48)
文化 (3)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。