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小保方さん問題は競争社会の問題

組織細胞を弱酸性の溶液につけて刺激を与えるという簡単な操作だけで、組織細胞に分化する前のSTAP幹細胞を作ることができたという、世界的に注目を浴びた小保方晴子さんの論文に文章の盗用、掲載写真の取違いや人為的操作があることがわかり、大きな問題になっている。

今回の問題は、STAP幹細胞は本当に出来たのか、それとも捏造なのかについては未だ明らかではないが、いずれにしても論文のずさんさという点で科学者の倫理が問われる問題である。今回は、もし本当ならノーベル賞級と言われるほと画期的な研究であり、それで救われるかも知れない多くの病人に希望を持たせただけに、特に大きな問題になっているが、科学者倫理の問題は今に始まったことではなく、近年は特に増加しているように思われる。

今回の問題も、小保方さんを初めとする著者、小保方さんの所属する理化学研究所、同様な欠陥が明るみに出た小保方さんの博士論文を認めた早稲田大学、不十分な査読で論文を掲載した雑誌「Nature」など、当事者に対する倫理を問う声が大きい。一方で、激しい競争、および短い任期の間に目立った成果を要求されるという、現在の非常に厳しい研究環境を問題視する意見もあるが、当事者責任論の強さにかき消されてしまいそうである。

確かに、当事者の責任は免れない。科学者としてのみならず、普通の人間としても、事実を曲げてまで自分の成績を上げようとするのは、明らかに正義に反している。しかし、いかに自己責任は免れ得ないとは言え、当事者を責めるだけでは、どうしても、社会の責任より当事者責任の方が強調されてしまい、社会の責任の追及が緩んでしまう。私は、今回の問題の責任の90%以上は社会にあると言っても過言でないと思う。いや、こんな酷い競争社会でなかったら今回の問題は起らなかったとすれば、責任の100%は社会にあるかも知れない。

社会の責任とは、現在のような競争社会を造りだし、放置していることである。これは、各個人がひたすら自己利益を追うことによって最も合理的な選択がされ、最も効率よく社会を繁栄させることができるという合理主義に基づいている。この合理主義によって、人間もまた合理的に扱われるべき対象とされる。人を使うことは機械や道具を使うのと同じで、少しでも安い経費で高い成果を上げることが人事の目的になっている。こうして、企業は無論の事、公官庁や教育、研究、医療や福祉に従事する人間までも成果主義が強要され、雇用や解雇が簡単になり、激しい競争にさらされているのが現在の日本であり、非正規社員、派遣社員といった低賃金・不安定な労働条件が公官庁、大学、研究の世界まで広がっている。

大学や研究所の教員・研究者の多くは数年任期の臨時雇いであり、その間に成果を上げないと雇用の継続さえできないから、若い研究者は必死にならざるを得ない。任期が近づいて来れば、尚更必死になり、切羽詰まれば不正に走る者も出て来る。そんな条件の中で不正の誘惑に負けないためには、非常に強い意思と正義感が要求される。

仮に、個人個人の自己管理が完璧で個人の不正が全く起らないとしても、それは決して社会から不正が消えたことにはならない。激しい競争社会であることは、競争に勝ち残る者、あるいは、勝者とは言えなくても生き残れる者が少ないことを意味する。大多数は不安で非常に厳しい生活を余儀なくされる。精神的な苦労から病になる人も増える。そんな緊張に耐えて正義を貫き、不正の撲滅に努力すれば、それで良しとされるだけで、厳しい労働環境は永久に改善されず、ますます悪化するのみだろう。これは、すべての人間は人並みの人間らしい生活をする権利があり、社会にはそれを保障する義務があるという、社会としての最も基本的な正義を踏みにじることであるし、人を家畜以下(家畜でさえ飼い主は使い捨てを忍びないと思っているだろう)の、使い捨て可能なただの道具と見なすこと自体、不正義そのものである。厳しい雇用条件と激しい競争の下で個人の高い倫理を要求することは、社会的な不正を個人の責任に転嫁することでしかない。

人を合理主義に基づいた激しい競争にさらすことによって新しいものが次々と創造され、科学や文化が一層豊かになり、経済が成長するという一般的な考えは、あまりにも根付いているために、なかなか否定し難い。しかし、それが本当に社会の進歩であり、人類の進歩であり、より多くの人間が幸福を感じるようになったのかと考えて見れば、はなはだ疑問である。職の安定という、人間にとって最も重要な条件さえあやふやな社会が、人類の目指す進歩した社会だろうか? 社会全体としての生産(GDP)が増えても、増えた分の多くは一部の勝者に集中し、格差が広がり、不満を感ずる人が増える。自然環境が悪化して生存権を奪われた人が、我々には見えないところに大勢いる。敗者が多ければ不正や犯罪も増える。競争が激しいほど他人のことを構っていられないから、人に対する思いやりはなくなり、人の幸福の最も大きな要素である人間関係が廃れる。

科学知識の拡大が早まったところで、現在の科学はほとんど技術のため、技術は金儲けのためであって、いずれも資源の浪費と環境破壊を早めているだけで、人間の質の向上に繋がってはいない。文化が多様化したようでも、実際は商業主義の軽薄な芸能や見るだけの産業化したスポーツがテレビ画面を埋めるだけで、これも人間の質の進歩とは程遠い。情報通信が簡単になっても、本当に必要で役に立つ情報はどれだけあるだろうか。電車やバスの中で乗客の大多数が同じような恰好をして携帯端末を覗き込んでいるのは見苦しい光景だが、将来の心配を通り越して滑稽でさえある。大して必要でもない数々の電気製品や高価な道具を必要と思わせれられ、それを手に入れるために自由時間を削って単純作業の仕事につき、それを使うためにまた時間を費やしている。若い女性はそのために子育てさえ満足にできない。
進歩を急ぐことはない。何が本当の進歩かは、時がたってみなければわからない場合が多いのだ。性急に進歩を図ったつもりが、却って後退だったことは十分あり得る。現在の経済がすでに、これ以上成長すればするほど真の豊かさを損なう後退になっている。

合理主義の競争を煽ることによって到達した社会とは、結局、こんな社会に過ぎない。一人一人の人間を犠牲にした見せかけだけの繁栄である。こんな社会の在り方を放置し、個人の倫理だけを強調しても、不正は撲滅不可能であるどころか、今後ますます増えていくだろう。企業も教育機関も研究機関も、人間を道具扱いし、成果主義に偏り、無理な競争に駆り立てることを即刻やめ、まずは職の安定を確保し、将来の生活を保障することが先決である。成果に追い立てられる研究では、本当に良い研究はできない。
2014年3月17日


  1. 2014/03/17(月) 13:55:05|
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