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興業スポーツはスポーツでないーオリンピック東京開催

2020年オリンピックの東京開催が決まった。東京招致には国内でも反対意見がかなりあったはずだが、テレビも新聞も、国民全員が一丸となって招致を願望しているかのような報道ぶりだった。福島原発事故の報道で評価が高くなっている東京新聞もしかりである。東京招致のために、前回の石原知事に続いて、今回も東京は莫大な公金を使った筈だ。招致の狙いはただ経済効果だけである。ますます強まりつつある格差拡大、雇用不安、労働条件悪化、生活の苦しさによって、国民の政治不信が日増しに高まっていることにも、原発事故の後が何も進んでいないことにも、政治家達は真の原因を問うこともせず、オリンピックなどという一時的なお祭りにすがろうとしているのである。

仮にオリンピック開催に経済刺激の効果が期待でき、世界の国や民族の公平な発展の機会を与えるなら、トルコ(イスタンブール)の方が良かった。既に世界最先端に近い発展を成し遂げ、経済も過剰なほど大きくなった東京、しかも既に一度開催したことのある東京に再び招致するのは、世界全体から見れば、公平の精神に欠け、甘い汁を一人占めしようとするエゴ以上の何物でもない。IOCの委員の多数が東京を支持したのは、私的な利益に誘導されたIOC委員の堕落を示すものだろう。

オリンピック開催は、もはや先進国にとっての経済効果は期待できないだけでなく、資源の無駄、環境破壊を促進するだけである。かつて、オリンピック開催が経済成長を刺激したのは、その時代が人類史を通じての稀なる経済上昇期にあったからである。その経済上昇とは、無尽蔵と思われた自然資源と安いエネルギーをふんだんに使った生産と消費の拡大である。だが、現在は資源もエネルギーも陰りが見え始めただけでなく、先進国では既に物に溢れ過ぎており、これ以上に必要な物はあまりないため、消費拡大への欲求も以前よりかなり減少している。新たに開発され市場に現れた製品やサービスも、あっても煩わしいものばかりで、買う気をそそるものはほとんどない。

したがって、仮にオリンピックのお祭りで経済が少し上向いても、一時的なあだ花で、決して長続きするものではない。公共施設への多大な投資も無駄になるだけだ。これは途上国にとっても同じで、先進国に比べれば経済成長の刺激効果は大きいかも知れないが、その目標は先のない先進国型の、持続不可能で一時的な過剰消費社会だから、結果は同じである。こんなつまらないことに知事生命をかける東京都知事の、物事の本質を見る目のお粗末さは、とうていまともな作家とは思えない。遠路はるばるアルゼンチンまで乗り込んだ東京都知事の記者会見の顔がいかにも思慮のない馬鹿面に見えた。

オリンピックの商業主義化は以前から批判されているが、一向に改善の様子はない。現在は、大会の運営の仕方だけでなく、スポーツそのものが商業化、興業化している。もともと様々な余暇活動の中で特にスポーツが重んじられるのは、「健康な身体を造る」ためだから、自分で体を動かさず、ただ見るだけのスポーツはスポーツではない。また、職業的スポーツの選手にとっても、競技は単なる経済目的の興業に過ぎない。実際、健康な身体を造るどころか、やり過ぎて健康障害を起こす選手が少なくない。

最近、オリンピックからレスリングが除外されるということで、日本のマスコミ全体の姿勢は除外反対だった。そこに駆り出されていたのは、オリンピックで入賞したレスリング選手達で、何のことはない、結局は自分達の商売のためである。レスリングという競技があっても構わないが、一般の人が行う運動ではないし、一般の人に特に奨励すべき運動でもない。オリンピックにそんな種目があっても、「健康のためのスポーツ奨励」には何の意味もないのだ。レスリングに限らず、多くの種目がそうである。

見世物スポーツは、昔から庶民を欺くために利用された。ローマ帝国で見せるスポーツ競技が盛んだったのは、皇帝の専制に対する人々の不満をそらすために他ならない。興業化したスポーツを必要以上にもてはやしている現在もしかりである。

見世物スポーツはすべて勝敗を競うものである。スポーツが勝敗を競う遊びの要素を取り入れたのは、飽きずに楽しく運動をするためと考えられ、勝敗を争うこと自体が目的ではない。また、節度ある競争は公正、礼儀、相手への思いやりという精神を養うことにもなる。ところが、現在のスポーツは勝つことだけが目的になり、そのため闘争心をむき出しにすることが良しとされているようだ。今は当たり前になっている選手のガッツポーズなどは、本来はスポーツ精神に反する非常に見苦しいもので、昔は禁止されていたそうだ。

オリンピックは元はアマチュアのものだったが、現在はプロ選手も参加資格があり、ますます興業化した。アマチュアスポーツの本場である学生スポーツもまた、若者の純粋な心身鍛錬の場と見なされているが、実際はアマチュアというよりプロの予備軍になっている。多くの学生や子供達がスポーツを始める最大の動機は、将来のスポーツ選手としての名声や富を夢見ての事で、心身の鍛錬などと言う意識はあまりないのだろう。仮に選手自身は勝敗より心身鍛錬を重んじたくても、自分の富と名声を望む学校や監督がそれだけでは許さず、勝つために必要以上の過酷な練習を強いる。ついでだが、高校野球がそうであるように、大抵の学生スポーツは、ほとんどそれを職業とする大人の監督が、日常の練習から試合運び、更には選手の一挙一動まで指示している。選手が大人の道具として動くだけの高校野球はもはや本当の高校生の野球ではないし、スポーツとも言えない。

こうして、多くの若者が毎日毎日、明けても暮れても練習に励み、貴重な時間を無駄にしている。勉強時間が削られ、読書など勉強以外の文化的活動や社会活動はほとんどせず、家の手伝いなども全くしないどころか、親兄弟にも多大な負担をかけている。東日本大震災の時、自分の家庭が受けた大きな被害にもかかわらず野球の練習を続けた選手達が美談のように報道されたが、見方を変えれば、家や社会の事はほったらかして後片付けの手伝いもせず、自分だけ好きな野球に逃げていたとも言える。緊急時に日頃鍛えた身体を役立てることもできないのでは、何のためのスポーツ、何のための教育だろうか。何でも一つの事だけに打ち込みさえすれば良いのではない。

マスコミは試合の実況放送や専門化したスポーツ技術の細かな解説、チームの勝敗や選手の個人的成績の報道など、あの手この手で人々の興味を興業スポーツに向けさせようとする。興業スポーツはマスコミの大きな収益の源なのである。そうして頂点に立った花形選手達は、若者たちのあこがれである。

花形選手がテレビや新聞に登場し、或いは母校の講演会に招かれて「夢は必ず実現する」などと言い、若者達がますます練習に励むように刺激しているが、これは論理的にも矛盾する嘘っぱちである。そういった夢物語にそそのかされ、他の大切な事をないがしろにして練習に明け暮れても、大きな大会で有名になったり、プロの選手になれるのは何千人、何万人に1人でしかない。限りなく希少だからこそ花形選手なのであって、努力さえすれば全員がなれるのなら、花形選手ではない。夢が実現できなかった大多数の選手にとっては、スポーツをやったこと自体は後悔しなくても、他の大事なことをもっと学んでおくべきだったと思うに違いない。結局彼らは、スポーツを興業主義化させた現代経済社会の犠牲者であり、これは社会にとっての大きな損失である。
2013年9月8日


  1. 2013/09/08(日) 13:10:23|
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