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縮小の時代

個人の独立性を偏重してはいけない-成人の日によせて

成人式になぜ振り袖姿で「可愛い女の子」を演出しようとするのか、なぜもっと大人らしい服装にしないのか、いつも疑問に思うが、それはさておき、「成人の日」を定めて全国一斉に儀式を行う国は日本以外には少ないようだ。だが、子供から大人になる区切りとして、それぞれで一定の年齢に達する誕生日を祝ったり、何らかの儀式を行う習慣は、古今東西どこにでもある。成人の日より少し遅れたが、今日は人間の独立について書くことにする。

一人前の大人としての条件は何だろうか。まず、精神的な自立が必要条件であることは誰も認めるだろう。精神的な自立とは、社会的責任を自覚すること、自分で物事の判断ができることなどいろいろ考えられるが、明確な定義はなかなか難しいし、ここではとりあえずその必要はない。どんな定義にせよ重要な点は、精神的自立とは、決して、他人への依存意識や連帯意識を全く持たず、完全に独立した人間でなければならないと自覚することではない、ということだ。

次に、経済的かつ身体的な自立は、一人前の大人であるための十分条件と言える。これらが必要条件ではなく十分条件というのは、精神的には大人でも、病気や障害などによる身体的理由、あるいは失業などの社会的理由で他人の補助が必要な場合もあるからである。また、親の負担で高等教育を受けていても大人と見なされるのは、いざとなれば経済的に自立する能力があると見なされているからだろう。

以上のように、他人とは全く関係を持たずに完全に独立して生きることは、一人前の人間としての必要条件ではない。ところが現在では、完全な独立が過剰に重要視されているのが問題である。自分自身も他人も完全に独立した人間であると見なし、自分の独立性への干渉を許さず、他人ともなるべく関係を持たずに済まそうとする。そうすることが基本的人権の尊重だと考えられているようだ。こうして個人と個人は互いに分断されていくのが現在の傾向である。

独立性の重視から、人は個人情報に対して過敏になっている。個人情報は秘密にすべきだ、個人情報を聞くのは失礼だ、ということが常識とされ、そのおかげで、最近では近所に誰が住んでいるのかさえもわからない。分断主義が個人情報の秘密を拡大し、個人情報の秘密がますます人と人の分断を促している。分断主義の社会では、心の通い合う共同体は決して生まれない。社会は独立した分子の単なる集合に過ぎないから、社会ならではの生きがいも喜びも味のある文化も生まれない。

そうすることがあたかも基本的人権の尊重であるかのように、個人の独立性を名目にして一人ひとりを互いに切り離す分断主義は、他人との共存関係を薄めるから、必然的にすべてのモノの私的所有を促す。生産設備や生産の組織から、本来は共有であるはずの土地や自然の資源、更には知識までも私的所有物になる。日常生活に必要な消費財はほとんどすべて家庭ごとに別々に所有し、家庭の中でさえ、1人1人自動車を持ち、子供でも個室や携帯電話、更にはテレビまで持つことが当前になっている。

個人の独立のためには多くのモノを所有しなければならず、そのためにはカネが要る。一生他人の世話にならずに済むためには、できるだけ多くのカネを稼ぎ、貯えておかなければならない。だが、カネは財やサービスが希少だからこそ意味がある。より多くのカネを作ることは、より多くのモノを希少化させることでもある。土地、資源、生産手段、知識の私有化は、これらをカネに変えるための希少化に他ならない。現在は、カネに変えられるものは何でも希少化してカネに変える。家事、育児、老人介護、娯楽、スポーツその他、かつてはカネが要らず自分達でしたことも、現在は皆カネで買うものになった。

しかし、カネに変えられるものが無限にあるわけでないから、どうしても他人との奪い合いになる。奪い合いが激しくなればモノの値段(カネの価値)が変るから、カネはいくら貯めてもなかなか安心できない。こうして、完全に独立した人間とはカネのために競争し、カネのために働く人間でなければならなくなる。競争のためには他人を犠牲にしてもやむを得ない。このような冷酷な競争も、それが生物の本性であり、社会の本性だと正当化される。そんな生存競争が科学的な法則であるとして、近代科学思想に非常に大きな影響を及ぼしたダーウィンの自然淘汰説が持ち出される(本当の自然淘汰説は、自然環境に適合しない種が消滅すると言うだけであって、他の種を犠牲にする生存競争ではない)。

分断主義は現代の経済学にとって非常に都合がよい。現代の経済学はまさに個人や経済主体を分断された分子と見なし、「すべての経済主体は、自らの利益の最大化のために最も合理的な方法を選択して活動する」を公理としている。現在の政治も、大部分の科学や技術も、そうした経済学的思想に基づいている。分断主義に基づいたこの経済思想は、財物の需要を拡大し、個人の欲望を掻き立て、無限の経済成長を促す。カネはいくらあっても足りないから、カネを増やすこと、GDPを際限なく増やすことが目的になる。カネを生み出すために、本来は共有物であるすべての資源や知識、更には社会的な慣習までも私有化して希少なものにする。こうして子孫に残すべき資源まで浪費され、地球環境が破壊され、人間の生存条件まで脅かしつつある。更に、現在はカネに変えられるものがだんだん少なくなって来たので、私有化によって生み出された富がますます少数の人間に集中し、貧富の差が拡大している。独立主義、分断主義は人間の尊厳を高めるどころか、逆に不公平、不平等を促進し、人間の心を奪い、社会を冷酷な味気ないものにしているのだ。

分断主義、独立主義は、人間の本性ではない。これは近代の経済思想(個人の欲望追及を最上級の命題とする経済成長主義)とともに人為的に作られたものだ。これは、現代人の心に生まれた時から刷り込まれ続けているので、それに疑念を抱く人は非常に少ない。例えば、子供の個室は無理やり必要と思わされているだけで、本当に必要ではない。少なくとも、鍵のかかる個室など与えない方がよい。その方が家族と共同することや、共同体の中での自分の在り方について学べるし、良からぬこともしない。

自力で生きる能力をつけようとすることはもちろん大切だが、実は、人間は本当に自分1人では生きることができない。無人島にたった一人漂流した人がその後何とか自活できたとしても、それは他人の力を全く借りないで生きたのではない。何故なら、漂流した時に僅かに残った道具や身に付けていた衣類は他人が作ったものだし、その後自分で生活に必要な道具を造ることも、危険から自分を守ったり、生きるためにいろいろな工夫をすることも、みな以前に他人から学んだ知識によるからである。このことを忘れて、人間は個人で生きられると勘違いするところに、今日の大きな問題の本源がある。

技術も経済もそれほど発達していなかった昔は、分断、私有よりも共存、共有の思想が強かった。特に狩猟採取時代は、同じ部族の人間は自分と他人との区別さえなく、ほとんどすべてを共有し、助け合うことが普通だった。分断主義は物質的な豊かさ、経済成長をもたらしたが、それが幸福には結びついていない。特に最近はもはや却って冷酷で不安な社会の原因になっており、若者は将来に期待が持てない。


人間は独立したものだ、独立すべきだ、それが基本的人権の尊重だ、といった思想から、人間は互いに依存しあうものだ、私有より共有、奪い合いより分け合いこそが幸福な社会の基だ、という考えに大きな転換を図ることが、現在では何よりも必要である。モノが希少なのはすべてを私有化させ、少しでも多くカネに変えようとするためで、共有して分け合えば、平和に暮らすには十分あるのだ。他の人と協力し合い、分け合うことは、人間が最高の幸福感を味わう時である。このように意識を変えれば、現代社会の諸問題の根源がはっきりし、若者の将来にも希望が見えて来るだろう。
2013年1月17日


  1. 2013/01/17(木) 20:22:48|
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