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交通事故死者の命は軽い?

警察庁のまとめによると、2012年1年間の全国の交通事故死者は4411人で、12年連続して減少しているという。17000人近くあった1970年頃と比べると著しい減少である。しかし、それで喜んではいけない。年間4000人以上という死者数は依然として膨大なもので、他の事故の死者に比べたら桁違いに多い。しかも、4411人というのは24時間以内の死者だから、後日に事故が原因で死亡した人の数を加えればもっと多いはずだ。更に負傷者は85万余人もある。死者1人に対して、200人近い負傷者がいるのだ。毎日確実に12人の死者、2300人の負傷者を出していることになる。世界中では、世界保健機構(WHO)によると、交通事故死者は年間130万人に達していると言う。毎日3600人もの命が必ず交通事故で奪われているのである。

飛行機事故が起ると世界中に報道され、航空機製造会社も整備会社も運行会社もは綿密な原因調査と改善を迫られるが、2011年の民間航空会社の定期便の飛行機事故(事件を除く)死者は414人である。エレベーターの事故で1人死ねば、全国で大騒ぎになり、やはりエレベーターの製造会社にも保守会社にも調査が入る。今、原発事故に関連して一人でも死者が出れば、多くの人達が憤慨するだろう。

ところが、毎日これだけ多くの死者を出す自動車事故については、新聞やテレビではほんの一部が小さく取り上げられるだけである。それも、ほとんどは事故当事者(自動車の利用者または被害者)の個人的責任のごとく報道され、自動車会社も道路管理者も事故の責任を追及されることはない。毎日これだけ多くの事故が起こることに対する問題意識はなく、事故の発生はほとんど当り前のことにされている。人命尊重のため脱原発に熱心な人達も、自動車事故には関心を示さない。飛行機やエレベーターや原発の事故で死んだ人の命に比べると、自動車事故で死んだ人の命は取るに足りないほど軽いのだろうか。エレベーターや原発で一人でも人が死ぬのは許せなくても、自動車事故で何千人も死ぬのは許せるのだろうか。

私は、エレベーターや飛行機や原発の事故で死者がでても騒ぐなと言っているのではない。どんな事故でも、原因と責任を追及して事故を皆無にすべく最大の努力をするべきであるし、事故を当然視することは絶対に許してはいけない。私が言いたいのは、逆に、エレベーターや飛行機や原発の事故による人的被害を重大視すると同様に、自動車事故も重大視すべきである、ということだ。

自動車事故の責任は、本当に自動車を使う人間か被害者かのいずれかだけだろうか。決してそうではない。どんな製品でも、使用法が誤って事故になることがある。この場合、使用法を誤りやすい製品の設計になっており、使用法の誤りで重大事故が起こる場合には、製品側の責任は大きい。訴訟の国アメリカではこのような事故で製造会社が賠償を命じられる例が多いと聞く。日本でも、2、3年前に、こんにゃくゼリーがのどに詰まって死んだ子供の親が製造会社の責任として訴えたことがあった。判決は企業の勝ちだったが、企業責任を問う声も新聞にはあった。

製品の性質上、完全な安全対策が難しい場合は、製品その物の所持や使用者を制限することが一般的である。工事用車両や業務用の特殊な機器もそうだし、刃渡りの長いナイフもその例である。

自動車は極めて使用法を誤りやすい製品である。アクセルとブレーキの間違いやハンドル操作の間違いによる事故も頻繁に起きているが、それよりも、全く危険を感じないで簡単に速度を出せることが、安全の見地からは最大の欠陥である。こんなに大きくて重い物が高速で走ること自体、本来は非常に危険なのだ。自動車技術はエンジンの出力増大だけでなく、乗り心地、静かさ、走行安定性などを著しく改善させ、今の自動車は高速運転が非常に簡単かつ快適になった。体感では、ゆっくり走っている時と同じように、全く危険を感じない。ほとんどの人は、これを技術の進歩と考えるだろう。しかし、本当にそうだろうか。高速の危険性を体感できなくし、人を一層危険運転に追いやるこれらの技術が、本当に人間にとって優れた技術と言えるか、大いに疑問である。しかも自動車は、運転者の体調や精神状態や性格を選ばず、だれも簡単に運転できる。

危険な高速運転が非常に簡単で、運転者に危険が気づきにくく、しかも、人間には必ずあるちょっとした誤りや気の緩みで重大事故を起こす。これらこそが自動車の本質的な欠陥である。これによって生じた事故の責任の大半は、そのような自動車を製造したメーカー、およびそのような自動車の使用を許している道路の管理者にあるのではないだろうか。日本の製造物責任法(PL法)は、製品の欠陥によって生じた生命、身体、財産に対する損害に対して製造会社などの賠償責任を定めた法律だが、問題は上のような本質的な欠陥を欠陥として認めていないことにある。人間のための技術製品ではなく、企業のための技術製品という認識なのだ。

エレベーターや飛行機の事故と違って、自動車事故は毎日必ずどこかで起きている。今日も、日本全国で10人は必ず死ぬだろうし、1000人以上の負傷者が出るだろう。世界中では今日一日で3600人もの人が確実に死ぬ。ある自動車企業の日本での占拠率を20%とすれば、その企業の製品が日本で毎日必ず2人以上を殺し、400人ほどを傷つけている。今日もまたそれだけの人を殺す。その企業の世界の占拠率を5%とすれば、世界中ではそのメーカーだけで毎日必ず180人も殺している。そして、今日もそれだけ殺す。自動車企業にたずさわる人、「快適に速く走る」自動車を造ることしか考えない自動車技術者達は、このことに何も感じないのだろうか。これでも自分達の製品に誇りが持てるだろうか。

人間の20倍も重くて固い車が、すぐに停まれない速度で歩行者や自転車と同じ道を走る。しかも、運転者は軽い気持ちで簡単に速度を上げる。これでは事故が起こるのは当たり前で、どんなに技術的対策を講じても、世界中の事故を無くすことは不可能である。危険を察知して自動的にブレーキをかけるとか、情報通信技術で道路交通を制御するとか、複雑の上に複雑を加えた事故防止技術が開発研究されているが、いくらそんな技術を開発したところで、突出した自動車事故死者数を他の事故並みに減らすことはできない。仮に多少の事故減少に効果があっても、世界中にそんな車が普及するまでには、まだ何千万人も犠牲になるだろう。問題は安全技術にあるのではなく、こんな自動車の製造、販売、使用が許されていることである。

自動車事故の頻度を他の事故と同程度にするためには、自動車に対する考え方を根本的に変える必要がある。自動車だけを事故が多くてもやむを得ないと優遇してよい理由は何もない。歩行者や自転車と車線を共用するのなら、歩行者または自転車以上の速度は出せず、歩行者と同じように瞬間に停まれる車以外は禁止すべきである。自動車の思い切った小型低速化、公共交通機関の充実、歩行者と自転車の安全を最優先した道路構造と交通規則こそが、自動車のあらゆる悪をなくす最も確実かつ技術的に容易な方法である。
2013年1月13日


  1. 2013/01/13(日) 12:38:37|
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