縮小の時代

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社会縮小は悲観論?

社会の縮小が不可欠な大きな理由は、現在のような大人口で環境を守りつつ経済成長と大量消費社会の継続を可能にさせる資源も技術も存在しないし、近い将来に現れる見込みもないからだが、このような見方に対して悲観的だという人が少なくない。人間の創造力は計り知れず、将来必ず画期的な技術が出現するだろうから、決して悲観すべきではない、というのが、縮小化を望まない人達の考えである。

一般に、悲観的であるより楽観的である方が好ましく感じられる。楽観論者は物事に積極的で活力があり、性格も明るく、悲観論者はその逆に消極的で活力がなく、暗い性格という印象を与える。人は、悲観論者と言われたくないので、環境に関する種々な書物も、最後には将来の技術革新に期待するという楽観論で結んであることが多い。

では、社会の縮小を望む人は皆悲観論者だろうか? むしろその逆だと思う。社会の縮小を望むのは、それが現実的に可能であり、それによって現在より安定した、楽しい、明るい社会が出現すると確信するからである。これは、将来を悲観的に見るのではなく、将来に希望を持つ楽観的な考えで、反対に、縮小社会をつまらない社会だと決めてしまう方が悲観的である。

楽観か悲観かは客観的な事柄に対する主観の置き方であって、客観的な事実そのものに対しては楽観も悲観もない。例えば、人は誰でもいつか死ぬという客観的な事実を口に出すことを悲観的と言う人はいない。したがって、ある事実が仮に好ましくなくても、それを事実と認めることは悲観でも楽観でもない。

楽観的と思われる事の中には、往々にして、客観的な事柄に対する主観ではなく、客観的事実に対する無視あるいは無知によることがある。経済成長と大量消費社会が継続できるという楽観にも、それが不可能であることを説明する一切の事実や論説に対する無視または無知がある。ただ知らなかっただけなら、知りさえすれば考えが変わる。私も初めは何も知らなかったが、知ることが増えるにしたがって、社会縮小が必要という思いを強くしている。単に思うだけでなく、そのように考える方が、種々な個別問題を通じても矛盾しないからである。

しかし、無視から来る楽観は自分が好まない事実を遠ざけて知ろうとしないことだから、なかなか治らない。原子力村の住民および原発推進論者による事実無視は、あれだけの事故があった現在でさえ依然として続いている。彼らは、複雑大規模な技術には完全な無事故はあり得ないという事実、高々数十年の寿命しかない人間が何千年、何万年にもわたって放射性廃棄物を完全に管理するという保証が不可能という事実、日本の地質が長期安定的でないという事実、廃棄物や廃炉の処理まで含めればとてつもない費用がかかるという事実など、一切の当然の事実を事実として見ようともせず、原発が経済を助け、エネルギーを助け、温暖化を救うなどと楽観している。

原発反対を始め、地産地消、里山保護その他環境を守るための種々な活動をしている人達は非常に多い。彼らの多くは現在の大量消費社会の継続は不可能であり好ましくもないと思っているに違いない。そういう人達はみな悲観論者だろうか? そんなことはないだろう。逆に、モノが少なくても楽しく暮らせるはずだという楽観論者が多いのだと思う。
2012年11月11日

  1. 2012/11/11(日) 14:12:07|
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