縮小の時代

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これでいいのか領有権争い

世界中に領土問題が絶えない。それぞれの国にはそれぞれの言い分があって、いずれも固有の領土だと主張している。だが、「固有の」とはどういうことをいうのだろうか。主権がどちらに属するかの客観的判断基準も、あってないようなものだろう。例えば、領有権を主張する国が根拠の一つとするように、ある無人島がある国の住民に古くから知られていた、或いは歴史書に古くから記載があったとしても、それを以てその島はその国の固有の領土とは言えない。それまでどの国の領土でもなく、どの国も注目していなかった島が、最初に領土権を主張した国の領土になるというものおかしい。もし、これらのことで固有の領土になるのだとしたら、南極大陸はチリかどこかの国が固有の領土だと主張するだろうし、ガリレオが世界で初めて発見した木星の4惑星はイタリアが固有の領土と主張するだろう。

原住民がいた土地を武力で侵略した場合でも、時が経てば侵略国の固有の領土として世界に認められるようになってしまう。そこに侵略国から移住した人間の数が増えればなおさらである。これが現在までの歴史である。南北アメリカを始め、このような国や土地は今でも世界に数多くある。最初に占領してからどれだけ年月が経てば固有の領土になるか決まっているわけではないから、占領直後から固有の領土だと主張することさえ理屈の上では可能になる。大航海時代以後の各国の固有の領土には、このように矛盾に満ちたものが多い。もともと日本人が住んでいた北方領土を武力で奪略占領したロシアが領土権を主張する根拠もここにあると言えるだろう。

したがって、現在のような領有権の考え方、つまり一つの土地を巡ってそれぞれの国が領有権を主張する根拠の底に流れている考え方を根本的に変えない限り、領有権の問題は永久になくならず、常に国際紛争や戦争の種になり得る。紛争が表面が現れなくても、武力や経済力の小さな方が大きな方に屈服しているだけで、真の平和共存は永久に訪れない。

そもそも、すべての土地は地球上のすべての生物および人間の共通の自然環境であって、誰の所有でもなく、誰にも好き勝手に使ってよい権利はない。個人や集団が土地を私有し、好き勝手に資源を収奪する自由を基本としている現在の土地制度に、そもそもの大きな欠陥がある。これは人間が自然を支配できるという思い上がりに他ならない。この思い上がりが国際紛争や戦争を起こし、環境破壊をもたらした。

現在の領土権に何らかの正当性があるとすれば、それは、ある集団に一定の専用権が認められているという意味だろう。その専用権が認められるのは、古くからその土地で、土地の環境と共生して、資源の収奪をせず、持続可能な生活をして来た集団だけである。人間も他の生物も、本来、住んでいる土地の生産力に生活の大部分を依存し、その土地の自然環境の一部となって(すなわち環境と共生して)生きるものである。現在A国人が住んでいるA国に属する土地とは、そのような意味でA国人に専用権が認められている土地であり、それが固有の領土の意味だと考えられる。このような専用権も、絶対的な私有権ではなく、将来の世代まで含めたすべての人類や生物の共通の財産を優先的に利用させてもらっている、という気持ちが必要である。

A国の土地でも、他国の人間の利用権が全く認められないわけではないが、もとより資源の非持続可能的な収奪や環境破壊は許されない。また、A国民が住み、或いは生活圏として利用して来た専用地に他国の人間が侵入して専用権を奪い取ることは侵略である。過去の侵略でできた国が現在も多数存在しているとはいえ、新たな侵略が許されないことは国際的常識となっている(もともと日本人が住んでいた北方領土のロシアによる占領は新たな侵略と言えるだろう)。

土地の利用者には、その土地の持続可能性を保護する義務がある。これは土地の利用や領有における最も基本的な原則と言える。たとえその土地が自分の国の専用地であっても、その土地の資源を略奪し、環境を汚染し、土地の持続可能性を損なって、人や生物が住めなくなるような土地の使い方をする場合は、その土地の利用者たる資格はないし、したがって、専用権を主張する資格もない。つまり、どの国も、たとえ自国の土地といえども、著しく汚染したり、資源を過剰に収奪したり、核実験で廃墟にしたり、事故を起こせば土地を永遠にダメにしてしまう原子力発電所を建設したりする権利は本来ないのである。

ある土地がどの国の主権に属すかを決める資格があるのは、その土地の住民だけである。例えばだが、沖縄の住民が総意を以て沖縄は独立したい、或いは中国に属したいと考えれば、他の日本人にはそれを強制的に止める権限はないし、台湾、アメリカのカリフォルニア州、カナダのケベック州などが独立したい、別の国に属したいと言い出した場合、本来はそれぞれの住民の選択に任せるのが筋である(もっとも、受け入れを望まれた国には受け入れを拒絶する権利はあるだろう。また、近年になって戦争などの政治的理由で住民が移動している場合はそんな簡単には片付かない)。一地域の住民が総意で独立を望んでも、中央政府が武力まで行使してそれを認めないことが多いのは、もとをただせば、住民から資源あるいは富を奪う機構を温存するために過ぎない。

無人島でも、近隣の住民の生活圏に属し、持続可能な方法で利用し続けて来たのなら、その住民、或いはその住民が所属する国の専用権が認められてよい。しかし、そうでない無人島はどうだろうか。尖閣諸島も、竹島も、南沙諸島も、その類に属する。このような無人島は、本来、どの国にも領有権はない筈である。すべての土地が必ず誰かまたはどの国かの所有に属さなければならいと考える必要はない。ある国の歴史書に早くから記載があったとしても、ある国の人達がその島の存在を早くから知っていたとしても、あるいは他のどの国より早く遠洋航海の折に立ち寄った実績があったとしても、それは生活圏の一部として利用して来たのではないから、領有権を主張する根拠にはならない。

もともと無人島である尖閣諸島や竹島の領土権を争うのは、結局は資源の奪い合いである。本来は誰の所有物でもない筈の地球の資源を、国と国とが専用権を巡って争っており、その専用権を手に入れることが国益だと互いに錯覚しているのである。その源は、人間には自然を勝手に支配する権利があるという驕りであり、それを私物化してカネに変えようとする強欲である。かつては軍事的な意味も強かったが、現在は経済的理由が主であり、軍事的な理由も、結局は経済的な主権や強欲が基になっている。

だが、そのような資源の奪い合いは、勝っても負けても先がない。近代の人間は地球上のあらゆる土地や資源を私有化し、持続不可能な方法で資源を収奪して環境を破壊してきた。石油がなくなれば天然ガス、天然ガスがなくなればシェールガス、あそこの油田が枯渇すればここの油田、という風に、次から次へと新たな資源を捜しては食いつぶし、資源を破壊し続けているのである。しまいには、将来の人間に残せるのは荒廃した土地だけになってしまうだろう。

無人島の領有権を確立して多少資源が増えたとしても、資源が使えるのはほんの一時的で、結局はまた今まで以上の資源不足に陥るだけである。そもそも、勝手に使える資源が増えたからといって、それでその国は幸せになるだろうか。資源の私有化、使い過ぎこそが現在の各種の社会経済問題を惹き起こし、のっぴきならない程度まで進み、世界の秩序は崩壊する寸前まできているのである。

土地も資源も自然環境も、個人や集団や国が勝手に占有し、勝手に収奪することを是としてきた時代はもはや終りを告げつつある。自然を私物化し、カネに換えることだけが豊かになることであり、幸福な社会への道だと考えてきたのは、幻想に過ぎなかった。カネに換えられる資源が時と共に減少しているにもかかわらず、常に今まで以上のカネを生み出すことが強いられている経済成長主義は、ますます資源の乱獲を要求する。強欲が強欲を呼び、資源の奪い合いを激化する。もはや、破滅への道に他ならないことが明確である。

誰の生活圏にも属していなかった無人島を自分のものだと主張するのは浅ましく、自分さえよければ他人はどうでもよいという先のない強欲に過ぎず、真の国益にはならない。自分勝手な国益より、互益こそが真の国益である。仮に自分の領土としても、資源の収奪は許されるべきではないから、領有権の主張より、資源の持続可能性を損なわないように共同管理することを提案した方がよい。日本がそのように高らかに言えば、世界中の尊敬と信頼を集めるだろう。この方が無人島周辺の資源より遥かに貴重な資源となり、日本の安定に貢献するだろう。

東日本大震災で何もかも失って学校の体育館での避難生活を強いられていた人達が、「物は多くても奪い合えは足りないが、少なくても分け合えば足りる」と述べていた。現在の世界にとって、これからの人間にとって、この言葉ほど重要な言葉はない。まさに、発想の大転換が必要であることを世界中の人々に訴えている言葉である。しかも、実際に我が身の経験からにじみ出た言葉である。これからは、この言葉を大切にして、世界中の人々が、少ない地球資源を、自国の取り分を少しでも多くするのではなく、持続可能な方法で、公平に分け合うことが大切である。それ以外に世界の人々が幸福になり、平和に共存する道はない。

現在の世界を私有化、奪い合い、金権主義に邁進させた西洋的近代主義はほころびが目立ち始めた。「大学」に言う、「国は利を以て利となさず、義を以て利となす。」国にとっては財物を得る利益は本当の利益でなく、道義を守ることこそが本当の利益だと。儒学発祥の中国も、長く儒学を精神の拠り所として来た日本も、儒学の優等生といわれる韓国も、忘れかけたこの普遍的な真理を再び思い起こす必要がある。
2012年8月17日


  1. 2012/08/17(金) 17:34:25|
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