縮小の時代

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オリンピックとスポーツ こんなものは要らない

ロンドンオリンピックが始まって、いや、始まるずっと前から、新聞もテレビもその盛り立てに紙面や放送時間の大きな部分を割いている。NHK総合テレビなどは、放送時間の大半をオリンピックの放送で埋めている。オリンピックに限らない。スポーツ新聞でなくても、新聞は普段からスポーツ欄にかなりの紙面を割いているし、高校野球の季節になると地方大会の結果までくまなく報道している。高校野球とオリンピックが重なると、ひどいことになる。

本来、スポーツの意義は自ら適度に行うことにあり、試合や競争は目的ではない。まして、プロにせよ、アマチュアにせよ、他人の競技の結果などは、普通の人にとってはスポーツでも何でもないし、生活にも何の関係もない。それにもかかわらず、これでもかこれでもかとスポーツ記事で埋めるのは、情報の押し付けであり、新聞の定期購読者や、強制的に視聴料を取られるNHKの視聴者からすれば、不要な記事の押し売りである。そんな報道の取材に多額の経費を払って欲しくはない。

報道されるスポーツはすべて戦いや競争の結果である。これは人々の関心を引き付けるには格好の材料となる。人々の関心をスポーツに向けさせることによって、生活と大きな関係のある社会問題から目をそらさせることができる。時の権力者や支配層にとっては、このような「見るスポーツ」の振興は願ってもないことなのである。暴君として名高い古代ローマ皇帝のネロがスポーツを振興させたのも、まさにそのためだろう。

各種の報道の姿勢によると、オリンピックの最大の関心事はメダルを何個取るかにあるようだ。「国家」を背負った競技は、偏った愛国心を掻き立て、国内問題を忘れさせるには特に有効である。独裁政権国家は国民の不満をそらすためにこれを最大限に活用し、莫大な税金を投じている。メダルの数などどうでもよいことだ。カネのある大人口国が、選手の養成に莫大なカネを使い、大量の選手を送って沢山のメダルを取ることに何の意義があるのだろうか。そんなものは国家の誇りでも民族の誇りでもなく、むしろ民族の品格を汚すものだ。それはスポーツ精神とは正反対であり、スポーツの堕落そのものである。

現在は日本も世界も、大企業による経済成長優先を基本とする社会の歪みが拡大しつつあり、多くの人々が生活を脅かされている。どの国でも、従来の延長上にしかない現政権では、どんな政策を取ろうとしても問題は拡大するばかりで解決はおぼつかない。日本の野田政権も、原発再稼働、税制や歳出の根本的見直しをしない単純な消費税増加、オスプレイの導入など、やることなす事、すべて「庶民を守る」ことよりも、庶民の反対を押し切って「大企業を守る」ことだけに最後のあがきをしているようにしか見えない。そんな政府や支配層にとっても、オリンピックや高校野球に庶民の関心が向くことは願ってもないことである。

スポーツは純粋で神聖なものとされているが、現在のスポーツはスポーツの本来の姿からは程遠い。庶民の関心を集め、報道されるスポーツはプロがほとんどで、目的は金儲けである。アマチュアスポーツもほとんどはプロの予備軍か、さもなければ就職に有利なためだろう。
見せること、人々の人気を集めることが主要な目的になった現在のスポーツは、まさに経済のためのスポーツにほかならない。現在のスポーツに対する人々の関心も、結局はそのように吹き込まれたものであり、造られたものである。オリンピックはその頂点にある。したがって、スポーツ報道はプロ選手の企業活動、すなわち、スポーツは神聖であるという「神話」を利用した企業活動の報道に過ぎない。これは一般の会社の企業活動の報道と何の違いもなく、スポーツ欄は経済欄と同じようなものである。

スポーツの訓練に精を出す多くの若者は、輝かしいスポーツ選手を手本にしているに違いない。将来、花形選手になって豊かな収入を得ることが最大の動機だろう。花形選手が母校やアマチュアのスポーツチームを訪れて、夢を持って頑張れば必ず夢がかなう、などと激励する報道をしばしば見聞きする。だが、花形選手になれるのはほんの一握りに過ぎない。ほんの一握りだからこそ花形選手なのであって、全員が「夢」を適えられるとしたら、それは夢でも何もない。いや、「夢」とは本来「非現実ではかない物」をいうのであるから、まさに言葉通りの夢でしかない、と言った方がよいか。こうして、花形選手は若者を騙し、テレビはそれは優れた指導の如く報道する。

私がしばしば散歩する近所の公園には広い草原や運動場があり、そこでは子供がスポーツの練習をしている。野球やサッカーが多い。まだ小さな子供なのにみな揃いのユニホームを着、立派な道具を持ち、大人の指導者がいる。草原で、まだ小学校にも上がらない幼い子供達が揃いのユニホームを着て大人からサッカーの指導を受けているのを見た時には、驚いた。若いお母さんたちが近くに座り込んで頼もしげにそれを眺めている。中には将来有名なサッカー選手になることを夢見ている親子も多いのではないだろうか。

だが、こうして育てられた子供たちは将来どうなるだろうか。このようなスポーツは遊びではなく、訓練である。このスポーツ訓練は、大人が決めた方法によるもので、大人が決めたスポーツの規則にうまく適応する人間に育てることである。子供の自主性や創造性はどこにもない。こうした訓練は、大企業を中心とした経済主義に適合する企業戦士を育てることに符合する。

遊びは訓練と違う。遊びはそれ自身が目的であり、ただただ遊ぶことに専念する。そこに遊びの意義がある。同じ野球でも、昔の子供の野球は遊びだった。満足な道具もなく、ユニホームもない。ボールは軟式テニスの柔らかいもので、棒切れがバット代わりだった。もちろん、大人の指導者などおらず、自分達で適当にルールを作った。本当に楽しい遊びで、そういう遊びの中から自主性、協調性、創造性などが生まれてくるのである。今の子供からは遊びが消えた。訓練のスポーツでなければ室内でゲームだろう。ゲームもまた、大人が造った枠のなかで子供が躍るだけで、創造性も自主性もない。

最近、外で遊んでいる男の子の姿をほとんど見かけない。遊んでいるのはたいてい女の子である。男の子は訓練スポーツか室内で電子ゲームでもやっているのだろうか。子供の本当の遊びの重要性を思うと、将来の社会の中心を担うのは女性だろうと思われる。男は女性の下に立って、「言われるままに努力する」だけの人間にしかならないかも知れない。
2012年7月28日


  1. 2012/07/28(土) 12:48:01|
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