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原発再稼働に関する大阪の条件、京都滋賀の提言の矛盾

野田政府による大飯原発の再稼働推進に対して大阪市府、京都府、滋賀県は慎重な態度をとっている。大阪府と市は再稼働に関する8条件を検討しており、京都府と滋賀県は共同で原発政策に7項目を提言している。

京都滋賀の提言 
http://www.pref.shiga.jp/bousai/gensiryoku/120417teigen.pdf
1.安全や電力需給に関する、中立的な機関による専門的な判断に基づくこと
2.情報公開の透明性
3.恒久的な安全性の説明
4.緊急性の証明
5.脱原発依存の実現の工程表の提示
6.事故の対応の確立
7.福島事故の被害救済と福井県に対する配慮

大阪市府の8条件案 
http://www.pref.osaka.jp/attach/15927/00095432/5_tuika-3.pdf
1.国民が信頼できる規制庁の設立
2.新体制によって安全基準を根本から作り直す
3.新安全基準による完全なストレステスト
4.事故発生を前提とした防災計画、危機管理体制
5.原発から100キロ程度の住民の同意と自治体との安全協定
6.実現が見通せる使用済み核燃料の最終処理体制の確立
7.電力需給の徹底的検証
8.原発事故で生ずる倒産リスクの最小化

新聞社の世論調査では、例えば朝日新聞によると、大飯原発の再稼働に賛成は25%なのに対して、反対の方が55%と多数派になっているので、大阪、京都、滋賀の提言(条件)は、国民の多数の心情を代表しているとも言える。

だが、これらにはなお大きな危険に結びつく見過ごせない矛盾がある。それは、いずれも明確な脱原発ではなく、「慎重」に留まっているからである。「慎重」は必ずしも原発の完全廃止を意味せず、場合によっては原発もやむを得ないという立場を保持している。もっとも、京都滋賀の言う「恒久的な安全性の確保」も、大阪の言う「使用済み核燃料の最終処理体制」や「安全基準」も、厳しく対すれば事実上不可能だから、原発の全面的廃止にならざるを得ないので、その意味まで含んでの提言なら良いのだが、そこまでは期待できそうにない。

滋賀県の嘉田知事はもともと経済より環境保護を重視している、数ある政治家の中でも信頼性では上位に位置する首長だから脱原発派だとは思うが、提言の第5項は「脱原発依存」であって、「脱原発」より緩く、依存するほどの量でなければ、少しぐらいは原発があっても構わない、とも取れる。これは、現在の日本の世論が、原発に対して慎重に傾いてはいるが、なお電力需給や経済とのバランスを重視していることを慮ってのことだろう。しかし、「脱原発依存」ができるくらいなら、電力の僅かな一部を敢えて原子力で供給する必要もないから、明確に「脱原発」と言うべきなのに、世論に対する及び腰が見えるのはちょっと残念に思う。

政治家の大きな役割は世論を導くことにある。現在の世論は、人命より経済(それも少数の一部の人の利益)を優先する財界、政府、学会およびマスコミによって作られていおり、必ずしも世論が正しいとは言えない。社会の有るべき姿に対する理念を持ち、その理念を人々に訴え、共感を得て政策に結びつけようと努力する事が政治家の本来の姿である。自分の理念がなく、ただ人々の世論に合わせるのは大衆迎合であり、「政治屋」のすることであっても「政治家」の仕事ではない。そんな政治屋は不要なのだが、現在は国政から地方に至るまで、本来の政治家はほとんど見られないし、選挙民もつまらぬ政治屋ばかりに投票している。

水汚染、大気汚染、砂漠化、森林破壊、温暖化、各種の資源枯渇など、数ある地球環境破壊の中でも、原発ほど環境破壊が甚だしいものはない。放射性物質が蓄積し、将来何千年、何万年にもわたって生物の生命に重大な危険を与え続けるのである。原発は、単に、運転中に事故がなければよいというものではない。現在と将来の、すべての人間を大切にするという最も基本的で重要な理念を持っている政治家なら、分かりやすく、はっきりと脱原発を打出して欲しいものだ。

脱原発を明確にすれば、中立的な専門機関による電力需給の検証も安全性の検証も不要である。提言(条件)の大部分の項目も不要であろう。原発をやめて電力供給能力が落ちたら、大切なのそれに合わせて需要を減らすことである。現在は、生活水準も経済水準も必要最小限を遥かに超えている。需要を減らすのは容易であり、この上「必要」を先に出して供給をそれに合わせようとするのは、留まるところを知らない欲望を満足させるためであって、そういう考え自体を続けることが不可能であるばかりか、結局はますます環境を破壊し、競争に駆り立て、貧富の差を拡大し、悪い社会にするだけである。

専門家による安全の判断も、一見正当な考えのようだが、実はそうではない。安全判断には何かの基準がいる。その基準は専門家が造る物ではなく、利用する人、利用による影響を被る人が造るべきものである。例えば1000分の1の事故確率を安全と見るかどうかは、道徳、倫理、感性に依るもので、そこには「中立」も「科学的」もない。専門家による中立的、科学的な安全判断などと言っても、結局は専門家の主観的な、偏った判断に過ぎない。百年後、千年後の人々の意見を専門家が代弁できるだろうか。したがって、必要になるのは、やはり、社会に対する高い理念に基づいた政治的な判断である。

また、専門家がいくら安全だと主張しても、使いたくない物や使ってはならないものは使わない、それが正しい判断である。中立的、科学的という名のもとに行われるのは、結局は原発の容認であり、人命や地球の将来より現在の経済重視の結論になる可能性が高い。
2012年5月2日


  1. 2012/05/02(水) 13:15:15|
  2. 原発
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