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縮小の時代

亀岡の自動車事故:プライバシーは行き過ぎていないか

京都亀岡市で登校中の小学生の列に自動車が突っ込んで2名が死亡、8人が負傷した事故で、警察が加害者の父親に被害者全員の連絡先を伝えたことが大きな問題になっている。警察官の守秘義務を破ったことで、被害者の遺族が激しく反発しているという。だが、加害者側が謝罪のために被害者側の連絡先を知ることがそんなに騒がれるほど悪いことなのか、どうも腑に落ちない。

被害者は18歳の少年だから、父親が強く責任を感じ、被害者の家族に謝罪したいといと思うのは普通の人間として当たり前である。もし私が加害者の親と同じ立場だったら、同じように警察に連絡先を教えて欲しいと言うだろう。だが、連絡先を教えることがどうして被害者の気持ちを逆なですることになるのか、被害者家族が言うように、それがどうして加害者側を保護することになるのか、理解に苦しむ。被害者の家族としても、加害者の少年やその親を憎んで会いたくないと思うのは理解できるが、逆に、もし加害者側からテレビや新聞を通じて以外に面と向かっての謝罪が何もなかったら、それもまた却って被害者側を一層怒らせることになるのではないだろうか。或いは、両者が直接会う機会を警察がわざわざ造るだろうか。もしその機会があっても、やはり警察が機会を造るまで自発的に謝罪に来なかったといって被害者側は怒るかも知れない。

父親とすれば、自分から謝罪に行くのが当然と思い、そのためには警察から被害者側の連絡先を教えてもらう必要があった。その気持ちは何ら避難するに当たらない。警察の守秘義務は一般的には守るべきだが、今回のようなことは、どうしても秘密にしなければならないことなのだろうか。加害者側は、どのみち、いつまでも被害者側の連絡先さえ知らないですますことはあり得ないし、むしろ、そうであったら尋常な社会ではない。

被害者が加害者を憎む気持ちは理解できるが、先日もこのブログで書いたように、自動車事故はただ加害者への個人的な怒りだけで済ましてはならない。現在のように、人間に危害を与えるような自動車のあり方、そんな自動車社会と道路行政そのものにより大きな責任がある。加害者も、特に少年の父親もまた、そのような自動車社会の被害者なのである。交通事故は被害者だけでなく、加害者もまた、やはり一生苦しみ続けることになる。安易に自動車を運転したり、遊びに使ったり、人が歩いている道路を誰でも簡単に高速で走れるような自動車社会でさえなかったら、そんな高速が出る自動車でさえなかったら、加害者にならずに済んだ。したがって、加害者に対する被害者の恨みが一生消えないとしても、両者は協力してその裏にある自動車社会を告発し変えてい行く必要がある。それでなければ、同様な事故は今後も起こり続けるだろう。

今回はプライバシーの問題が絡んでいるが、昨今はプライバシーが行き過ぎている感じがする。学校の同級生の名簿すら、住所や連絡先が書かれなくなくっており、緊急の連絡に困る場合もあると聞く。そこまで秘密にする必要があるのだろうか。名簿に住所を書けば不要な広告や郵便物が増えたり、オレオレ詐欺に使われたり可能性も若干は増えるだろうが、それより弊害の方が大きくはないだろうか。もともと人間は1人で生きられるものではない。顔見知りの人間だけでなく、見知らぬ人も含めて、社会全体として共同体を造り、互いに支え合っているのである。住所や連絡先の公開は、共同体の一員であることの一つの証ではないだろうか。

我々が日常使っているあらゆる道具や食糧の全ては、見知らぬ人の手が入っている。形のある物や食糧だけでなく、習慣、考え方、文化、社会の様々な仕組み、それらすべてが、自分1人で造ったものではなく、見知らぬ人々が共同で作り上げたものである。すべてが他人の世話になっているのに、何処の誰に世話になっているのか全く知らずに過ごす一生が人間として望ましい幸せな生き方だろうか。

原始時代からこの方、人間は集落のなかで、密接な絆を保って暮らしてきた。動物や植物もまたしかりである。すべての個体は決して完全に独立したものではない。互いに支え合わなければ種は絶えてしまうのである。昨年暮れからは「絆」という言葉が流行りだしたが、絆とはこのように、深い意味を持っている。

個人の自由、個人の独立性が強調され、重んじられるようになったのは、決して人権尊重の思想からだけではない。むしろそれ以上に、個人を全体から切り離すという意味がある。その原動力は経済成長主義である。それには自由の拡大という大義名分がかぶせられる。何でも一人一人が所有すれば、企業は儲かり、経済は拡大する。自家用車はその最たるものである。モノだけではない。個人を家族や生まれながらの社会の絆から切り離すことによって、労働が道具のように使い安くなる。個人個人が切り離されていれば、企業に都合の良い消費者にするのも容易である。

しかし、個人の切り離しによって、自分の事しか考えず、共同体の一員としての自覚が薄れて他人への思いやりの気持ちがなくなる。共同より競争が大切と思うようになる。犯罪が増え、ストレスが増え、自殺が増え、幸福を感じる人が減って行く。現在の殺伐たる社会は、個人の切り離しが原因と言える。

人権尊重は必要である。だが、人権尊重は個人個人を切り離すことによってしかできないわけではない。個人が他人や社会全体を考えずに勝手に行動することと人権を尊重することは別物である。野球は9人が完全に別々の役割を担うが、誰が同じチームにいるかを知らなかったら勝てないし、第一野球をする喜びはない。オーケストラや合唱も、一緒に演奏する人と没交渉では美しい音楽にはならないし、楽しくもない。人間の社会もこれと全く同じで、人間の体は数多くの固有の機能を持つ器官から成るが、どれ一つだけでも生きて行けない。あくまでも共同体の中での人権でなければならない。行き過ぎたプライバシーや個人の自由は却って不幸な社会の原因になる。

経済成長主義の時代は終わりを告げた。経済成長主義を続けようとすれば、ますます貧富の差が開き、資源が不足し、希望のない不幸な社会に陥って行くのは目に見えている。経済成長主義から来る行き過ぎた個人主義、プライバシー保護よりも、互いの存在、他人の重要性がわかる方が良い。そうすれば犯罪はむしろ減少するだろう。
2012年4月26日

  1. 2012/04/26(木) 23:35:45|
  2. 政治・社会・経済
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