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縮小の時代

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電力で化石燃料の代替はできない

再生可能エネルギー発電への期待と現状
地球温暖化が人為的かどうかに関わらず、減少して行く化石燃料資源の代替エネルギー源を如何に確保するかは、どの国も重要課題にしている。原子力は論外とすれば、再生可能エネルギー[*]に期待する人が多い。しかし、水力発電は立地や環境破壊の問題からあまり増やせず、バイオマス利用やゴミ発電は資源が非常に少ない。急速成長植物(藻類など)の研究もあるが、これには高濃度のCO2が必要で、大気CO2の濃縮ではエネルギー収支が悪いだろうし、化石燃料の燃焼排気に頼るのでは意味がない。急速成長させるには、高濃度CO2でなくても、多量のエネルギーを要する何かの人工的な特殊条件が必要だろう。 もし自然条件で急速成長する植物が存在したら、既に地球上に大繁殖しているはずだ。
[*物理学的にはエネルギーは再生不可能である。ここでは、再生可能とは人間の時間的規模から見ての非枯渇性を意味する。]

結局、現在は、太陽光発電、風力発電、地熱発電に注目する人が多い。潮力発電や波力発電に期待する人もいる。しかしいずれもなかなか普及しない。世界には、太陽光発電や風力発電が総発電量の10-20% になった国もあるが、それは市場原理に逆らった政府援助で無理に達成したもので、電力以外も含めた総エネルギー消費に対しては、ほんの数%に過ぎない。

普及の障害は費用が高い(主として設備価格)とされているようだ。太陽光発電や風力発電は普及率が高まれば発電の不安定性が大問題になり、技術的に対策できても結局は費用に跳ね返ってくるはずだが、現在は、不安定問題は軽視され、一定の需要に達すれば費用が大幅に低下して更なる普及に弾みがつくとの単純な想定で、自主的導入の促進や政府による費用援助が主な方策になっている。

しかし、普及が遅いのは、量産規模が小さいための高価格よりも、もっと重要な理由がある筈だ。第一に、需要が増えれば必ず安くなるとは限らない。情報機器の近年の著しい価格低下は、普及による規模の効果ではなく、その逆に、安価に生産する技術革新が生まれたから急速に普及したと考えられる。これに対して、太陽光発電も風力発電もずっと以前から実用化されており、技術的にはほぼ成熟している。その上情報機器と違って一定の大きを必要とし、しかも金属部分が多いから、今後革新的な技術が現れてコストが飛躍的に下がる可能性はほとんどない。自動車は普及によって安くなったが、所得上昇よる相対的な部分が多く、絶対価格は下がっていない。経済成長時代でなくなる今後は、所得上昇はもはや見込めないだろう。

第二に、費用が従来方式より高くなるのは、化石燃料の消費が多くなった可能性が高い。商品は生産されて初めて価格がつくから、価格は含まれている生産行為の量と無関係ではない。生産とはエネルギーを使って物質を加工する(何らかの物理・化学的変化を与える)ことだから、生産行為の量は、生産に使われたエネルギー量に関係する。生産過程には、商品本体の生産の他に、生産手段(原材料、設備、道具建物、運搬手段、労働力その他)の生産、生産手段の生産手段の生産…(この連鎖が限りなく続く)のすべてを含む。人件費も労働力の生産費であり、これには労働者が生活に使うエネルギーや、食糧、家財道具、日用品の生産エネルギーの費用が含まれる。したがって、商品が高価格であることは、生産に多くのエネルギーを使ったことと必ず関係がある。一般に大型・複雑・生産に手間がかかる商品は高価であることが、それを端的に証明している。このことから、太陽光発電の生涯費用が火力発電より高いのは、火力発電より多くの化石燃料を消費している可能性が大きい[*]。化石燃料の消費を減らすエコ技術と信じられている太陽光発電が本当にエコかどうかは非常に疑わしいのである。
[*低価格でも、物価が安い外国からの輸入品は必ずしも生産エネルギーが少ないとは言えない。しかし、価格が高い物は一般的に生産エネルギーが多いと言えるだろう。]

第三に、そもそも電力は化石燃料の代替にはならない。確かに、蒸気機関車が電車になり、炊事も薪炭やガスから電気釜、電子レンジ、電磁コンロへと変って便利になった。工場の動力も蒸気機関や内燃機関から電動モーターに変り、精密制御が可能になると共に生産性が向上した。自動車も今後は電気が主流になると考える人も多い。これを見れば、木質バイオマスも化石燃料もみな電力で代替可能であり、電力化は文明の高度化、化石燃料時代の次は電力時代だと思うのも無理はない。しかし、これだけ電化が進んだ現在の日本でも、最終エネルギー消費に占める電力の割合は23.3%(2013年)に過ぎず、その3倍以上が交通燃料、暖房、炊事、工場の熱源など、熱エネルギーとして使われている。電力もまた一部は電熱のために使われている。電力の半分以上は化石燃料による火力発電であり、国内に供給された化石燃料のエネルギーは、国内で消費された電力エネルギーの5.8倍にもなる(2013年)。

基盤エネルギー
社会の形(社会の制度や人々の生活状況)を決める最大の要素は食糧や財物の生産様式(輸送も含む)である。生産とはエネルギーを使うことだから、使われているエネルギー源の特徴が生産様式、従って社会の形を決める。狩猟採取時代、農耕社会、手工業社会、現在の社会が異なる最も大きな理由は、使われたエネルギー源の相違である。

人間が使うエネルギー源の種類は様々だが、その中には基盤となるエネルギー源がある。ここで、基盤エネルギー源とは社会の形を決めている最も重要なエネルギー源で、歴史的には人畜力→木材(バイオマス)→化石燃料と変化して来た。化石燃料は人畜力や木材と比べてエネルギー密度が極めて高く、しかも豊富に存在して採取も容易だった。この化石燃料の特徴こそが多種多様な金属の大量使用を可能にし、それが技術と経済の飛躍的な拡大をもたらし、それまでの社会とは全く異なる大量消費社会を造りだした。化石燃料がなければ、現在の様な技術製品に溢れた社会は成り立たない。

基盤エネルギーは、次の条件を全て備えている:
①社会的に最も多く使われているエネルギー源であること;
②天然に存在する(一次エネルギー源)であること;
③取扱いが容易で簡単に利用できること;
④種々なエネルギーの形態(電力や各種燃料)に転換できること;
⑤自立的(他のエネルギー源なしでそのエネルギー源を獲得できる)であること;
⑥燃やして高温を発する火力エネルギー源であること。

上の条件を満たすエネルギー源は、人畜力を除けばバイオマスと化石燃料だけである。したがって、化石燃料時代の次はバイオマス時代に戻るしかない。ただし、バイオマスの年間生産量は極めて少ない。現在の日本の一次エネルギー国内供給量は、バイオマスは化石燃料の僅か1.9%に過ぎず、これをいくら増やしても、せいぜい数倍どまりだろう。江戸時代は、人口が今の1/4程度しかなかった上に、森林面積は今より多かった筈だが、それでも木材の過剰伐採を防ぐために厳しい管理をしていた。森林はエネルギー源だけでなく、河川と近海の漁場や田畑の栄養を保つためにも必要なのである。現在より桁違いにエネルギー消費の少なかった古代でさえ、燃料木材の過剰伐採で滅びた国があった。バイオマスの時代には、現在の様な大量消費は不可能で、金属を使った技術製品は非常に高価だから、発電装置も電気製品も希少で、電力の需要は小さくなる。

電力は資源でない
いま、原子力、水力、太陽光、風力、地熱など火力以外の再生可能エネルギーから発電した電力を「非火力電力」と呼んでおく。現在のエネルギー統計は、この非火力電力を供給一次エネルギーとして化石燃料と同列に扱っている。一次エネルギーとは天然のエネルギー媒体を言う。しかし、ウラン、水力、太陽輻射、風力、地熱は確かに一次エネルギー源でも、それを電力に変換したら二次エネルギーである。電力は、複雑で高度な工程を経て加工された工業製品であり、資源というより消費財のようなものだから、社会の基盤エネルギーにも化石燃料の代替にもなり得ない。

電力は資源と見なす必要もない。現在のエネルギー統計で供給一次エネルギーとされている電力は、河川の水力や太陽光や風力エネルギー(非火力再生可能エネルギー)の電力転換量である。一方で、農業、帆船、天日乾燥など、産業や家庭で利用した太陽エネルギーや風力エネルギーは統計に入れない。人間にとって、農業で利用する太陽エネルギーは工業で使う化石燃料よりも遥かに重要であるにもかかわらず統計に入れないのは、無料で使えて後に何の負担も残さず、資源と見なす必要がないからである。電力に変えた場合に限って資源と見なすのは、発電が経済行為であるという理由からだろうか。それなら、栽培のために温室を作るという経済行為によってより多く取り入れた太陽エネルギーも供給エネルギーに加えなければつじつまが合わない。結局、エネルギー統計の一次供給エネルギーとは何を意味するのか、物理的意味がどこかへ飛んでしまい、恣意的なものになっている。したがって、電力消費量(または供給量)は、如何に多くても、生活水準や経済の指標としては意味があっても、社会と実体的資源との関係を考える上では意味がないのである。

非火力一次エネルギー源からの発電では、発電時の入力エネルギー(水力、太陽光、風力など)に対する効率が問題にされるが、それよりは、発電装置の生産に投入されたエネルギーに対する生涯発電量の比(エネルギー収支)の方が重要である。現在は投入エネルギーのほとんどが化石燃料だから、このエネルギー収支は投入化石燃料に対する発電効率ど同じ意味で、火力発電の発電効率と比較できる[*]。エネルギー収支が1以上なら発電効率は100%以上でエネルギーの増幅となり、水力発電はそれに当るが、太陽光発電の場合は100%以下である可能性が高い。
[*火力発電の発電効率には、通常、発電設備の生産エネルギーは考慮されない。正確にはそれも含めるべきだが、実際には発電機の燃料消費に比べて少なく、効率への影響は少ないだろう。]

超電力社会は不可能
電力社会の現在の日本でも、電力消費は化石燃料供給量の17%(5.8分の1)に過ぎないと前に述べた。では今後、社会全体として供給火力エネルギー(化石燃料またはバイオマス)以上の電力が使われる超電力社会になり得るだろうか。超電力社会では、家庭の暖房、炊事、給湯はもとより、工場のボイラーも交通機関も、金属資源の採掘や精錬も、ほとんど電力になる。

化石燃料がまだ比較的豊富な間は、現在と同じように、熱需要に対しては電力より化石燃料を直接燃やした方が効率がよく経費も安い。残存資源の減少またはエネルギー収支の悪化によって化石燃料の価格が上がってゆくと、金属製品が貴重になるから発電設備や電力機器の価格も電気料金も化石燃料以上に上昇し、熱源には化石燃料を使う方が増々有利になる。こうして、基盤エネルギー源である火力エネルギー源の供給が減れば減るほど、それ以上に電力需要は減少し、超電力社会からは却って遠ざかるだろう。化石燃料の供給がバイオマス以下になると、もはや基盤エネルギー供給は非常に僅かであって、電力利用は非常に高価になって、照明などどうしても必要な場合以外は利用が限られてくる。結局、将来基盤エネルギーである火力エネルギー以上に電力が使われる超電力社会になることはないだろう。工業製品である電力が天然資源である化石燃料の全面的な代替になると考えるのは、自然食品がなくなったら缶詰で代替すると考えるようなものだ。

超電力社会は、発電設備の生産にも化石燃料以上の電力が使われることだが、発電量/投入電力のエネルギー収支は1では不足で、その数倍なければ意味がない。これは、電力による電力の拡大再生産である。電力は高密度、高品質という非常にエントロピーの小さい高級な人工エネルギーだから、その拡大再生産は化石燃料の拡大再生産に比べてエネルギー収支が劣り、経済的に不利であるのは当然と言える。

まとめ
・エネルギー資源の問題は社会の基盤となるエネルギーの問題である。基盤エネルギーは化石燃料かバイオマスしかない。
・電力はエネルギー資源でなく、基盤エネルギーでもないから、発電量の増加がエネルギー資源問題の緩和にはならない。
・再生可能エネルギーからの発電が化石燃料の代替になるという考えは非現実的で、なかなか普及しないのは当然である。
・太陽光発電や風力発電の推進のための政府援助は市場原理を歪め、現実を隠す愚行である。
・何でも電力という超電力社会は、金属を多用する技術製品に溢れた社会である。これは大量消費社会でなければ実現しない。大量消費社会は化石燃料の特徴が初めて可能にした社会で、化石燃料の供給が減れば技術社会からも大量消費社会からも、電力社会からも遠ざかる。
・化石燃料の代替エネルギーを模索してもエネルギー資源問題の緩和にならず、却って悪化させる。エネルギー資源問題の緩和には、エネルギー消費、特に化石燃料消費を持続可能な範囲まで削減するしかない。■

2015年8月11日
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