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縮小の時代

性善説か性悪説か

縮小社会とは、端的に言えば、人間が自然環境から採取し、かつ自然環境に排出する物質とエネルギーの総量が、環境の持続可能性が保たれる範囲まで縮小された社会を指す。既に自然環境が許す範囲を遥かに超え、なお拡大しつつある大量消費、大量廃棄が今後長く続けられないことは自明だから、近いうちにいやでも社会の縮小は余儀なくされる。人間にできる選択は、成行きに任せて自然が強制的に縮小させるまで待つか、その前に自主的・計画的に縮小するかの二つに一つしかない。前者の場合は戦争、奪い合い、不正など大変な混乱が生ずる可能性が大きく、それを避けるのが後者の自主的・計画的な縮小である。

縮小社会では、利用できる物質やエネルギーの総量が現在より遥かに少ないから、平和と安定を保つためには、現在のように個人の私欲追求と奪い合いを基本原理とした経済でなく、分け合い、言い換えれば平等な分配を重視する必要がある。自然から摂取する物量に制限がなかった今までなら、分配の不平等は総量を増やすこと、すなわち経済成長で緩和することができたが、縮小社会ではそれができないのである。分配が平等なら、少ない物質量でも不満は少ない。

もちろん、分け合いと言っても、個人の才能や努力に関係なく完全に等分することではない。基本的には自由市場の経済であり、多少の個人差があるのは当然である。しかし、それが社会的な不満にならないためには、その個人差は社会構造が生んだものではなく、個人の努力の結果だと誰でも納得できる程度でなければならない。そのためには、放任主義の市場原理ではなく、規範に基づいた市場経済である。いずれにせよ、将来の必然である縮小社会では、いかに公平な分配をするかが、民主社会としての最も重要な課題になることは疑いない。

さて、奪い合いより分け合いというと、必ず出てくるのが「それはロマンチックな性善説に過ぎない。人間の性は本来悪だから、それは不可能だ」という批判である。確かに、人間の本性に利己主義の部分もある。餓死しそうなほど食糧が不足すれば、他人を顧みず自分が先に食べようとするのは自然の行為である。しかし、それでも、中には自分で独占せず、空腹が残るのを我慢して他の人に分け与える人もいる筈だ。相手が子供なら、自分の子供でなくても、自分は食べないで全部子供にやる人もきっといる。自分が餓死するほどの窮地にいるのでなければ、悪の部分が引っ込んで善の部分が表に出ることがもっと多いだろう。それを人間の自然の行為でないとは言えない。仏教ではどんな人の心にも必ず仏性があるといい、朱子は、人の本性は善だが、万物を構成する物質的なものである「気」がそれを曇らせているだけだという。

そもそも、人間の本性は善か悪か、どちらかの一方だという方が間違いなのである。人の本性は全部が悪でも全部が善でもなく、両者が共存しており、それが、時と場合によって、悪の部分が勝ったり、善の部分が勝ったりする。人は、自分の行動が他人のために役に立ち、自分の存在が他人から喜ばれ、自分が他人や共同体から欠かせない仲間として歓迎されていると感じた時に、最も幸福を感じる。したがって、一般に、自分の必要がある程度満たされたと思えば、それ以上あくまでも利己主義や貪欲を貫こうとする人はむしろ少ない。利己が過ぎれば、人に疎まれるだけで却って自分自身の幸福を損ってしまうし、皆が自分勝手に振舞ったら住みにくく嫌な世の中にしかならないことは誰でもわかっているのである。また、情けは人のためならずというように、他人にやさしければ、いつかは自分にも良い事がある。結局、人はそれぞれ自分勝手が過ぎないように自分を抑制し、性善と性悪のバランスを取っている。しかし、そのバランス点は社会の状況に強く影響され、社会の仕組みが利己主義を基準に構成され、人々の間に利己主義的な思想が蔓延していれば自分も性悪に傾き、利己主義にならなくても適度な生活ができるように社会が構成され、皆が他人にやさしければ自分も性善に傾くのである。

しかし、現在の社会は性悪説に基づいている。「人間は本来利己主義である。他人を顧みずあくまでも私欲を追求すれば、それが結果として豊かで平和な社会をもたらす。」という基本原理の上に、現在の経済が造られている。現在の経済にとっては、性善説より性悪説の方が都合が良いのだ。性悪説に基づいた市場原理は、大企業および金や力のある者にとっては大変都合の良い原理で、資源が比較的豊富だった今までは経済成長の最強の原動力にもなった。しかし、性善説をとると、企業や官僚の権力や金力に任せた勝手な行動や富の独占を肯定し難しくなる。そのため、現在の社会を支配している経済優先の人達は「性善説は嘘で性悪説が本当だ」を人々の常識にさせたがっている。したがって、現在は性善説より性悪説を採る人の方が多いとしたら、それは現在の社会の仕組みがそうさせているのである。

「人の性は悪なり」と思っている人は、現在の世の中を見てそう思ったか、或いは、経済成長主義、権力主義、利己主義の世の中を続けたい人達から、そう教え込まれたに過ぎない。しかし、人はどんな場合でも利己を最優先にしか動かないと考えたら、それは決して真理ではなく、事実に反する明確な誤りである。さらに、人はいついかなる時でも必ず利己主義的に行動するという性悪説を信条とする限り、幸福な社会は永久に生まれない。たとえ、奪い合いが制限されて平和が保たれても、その平和は見かけだけで、皆が一挙一動まで監視される息苦しい監視社会だろう。

したがって、人の善の部分が自然に出て来るように造られた社会が望ましい。そういう意味では、性善説に基づいた社会である。その社会は、始めから人の本性は善しかないという前提で造った社会でなくてもよい。また、他人や共同体のために行動することを強制する社会であって欲しくはない。そうではなく、誰もが、それと意識することなく、自然に性悪の部分を忘れ、自然に性善的な行動をする社会である。もちろん、自己保全の意識をすっかり捨てるのでなく、過度にならない限り、自分の利益を追求することもできる。要は、善の性と悪の性のバランス点が自然に善の方に傾いている、そんな人が多い社会であれば良い。縮小社会はそんな社会になるだろう。これは決して不可能ではなく、そうでなければ社会の持続が不可能なのである。
2013年7月3日


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  1. 2013/07/03(水) 20:16:38|
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