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縮小の時代

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縮小社会の技術

本ブログ4月27日の記事「意識を変える」で、現代人の心の奥底に刷り込まれている意識の一つに、技術信仰があると書いた。つまり、国内外を問わず、ほとんどの人は

・技術は人間の優秀性を示す証。
・技術の進歩は人類の進歩で、技術の利用が多いほど進歩した社会。
・新技術はすべて高級で優れている。
・新技術はすべて価値があり、直ちに利用すべき。
・技術が資源問題、環境問題を始めあらゆる問題を解決し、更なる経済成長を可能にする。
・将来の社会を支え、今後の進歩の原動力なるのは一段と高度な技術。

などを当然と考え、まったく疑問を持たない。何か新しい技術が開発されると、テレビも新聞も、いかにも喜ばしい事のように報道する。技術に疑問を唱える者は、狂信的な宗教信者か、社会の主流から外れた偏屈者か、何か恨みでもあって社会に反抗する者か、または、ロマンチックな自然生活の愛好者のいずれかであって、まともな人間でないと思われそうである。あるいは、技術の否定は人間の可能性や進歩の否定、すなわち人間そのものの否定だと受け取られそうだ。このため、技術に異を唱えることには勇気を要し、多くの人は技術の批判には非常に消極的である。特に、指導的な立場にある人ほど技術を礼賛し、将来の技術進歩に対する大きな期待を表明する傾向にある。その方が多くの人々に歓迎され、自分に対する印象を良くするだけでなく、自分もまた技術を夢見て安心したいという気持ちがあるからだろう。

確かに、技術の力には驚嘆せざるを得ない。技術は、産業革命以前の人間はもちろんのこと、ほんの50年前の人間ですら思いもよらなかった数々の夢を実現し、現代の我々は、一昔前の王侯貴族も及ばない便利で快適な日常生活を送っている。これらの技術をものにした人間の能力の素晴らしさに圧倒され、自分もそうした人間であることに誇りを感じない人はいないだろう。だが、そこに技術の持つ危険性があり、誰でも容易に嵌ってしまう落し穴がある。近代技術こそ、地球環境をこれほどまで破壊した元凶に他ならない。現在ほど大規模な環境破壊も人口爆発も工業文明以前にはなかったし、もし近代技術がなかったら、決して起こらなかっただろう。

技術は自然法則に則ったものだから人間の主観から離れた客観的なものだという人もいるが、それは正しくない。技術は特定の人間(またはその集団)の価値観の表現である。数ある自然法則の中から、その人達にとって都合が良いと思われる法則だけが強調して利用され、同時に生ずる都合の悪い現象(副作用)は極力無視された製品になる。また、個人的にできる技術(例えば自分で道具を造ったり家を建てたりする等)ならまだしも、現在の技術の多くは大規模かつ様々な専門技術の集積になっているので、個人的に造ることはほとんど不可能で、企業や大組織の意図が反映した技術を心ならずも使わされているに過ぎない。

近代技術を駆使することによって、人間が高級になったと思う人が多いだろう。未開人とか低開発国などという言葉に、技術が未発達の民族や国を見下す気持ちがうかがえる。しかし、技術が進めば進むほど高級な文明だというのも、ただそう思わされているだけに過ぎない。現在の技術製品には人間の肉体的、精神的作業を省くという便利さを求めたものが非常に多い。また、テレビ、ゲーム、ドライブなど、余暇の過ごし方もすっかり技術製品に支配されている。これらの技術が提供する便利さや楽しみに日常生活のほとんどすべてを依存させることによって、自ら身体を動かし、考え、創造する能力や、感受性までも失われてしまう。我々の身の回りにある技術製品のうちで、失うものより得るものの方が大きいと断言できるものがどれだけあるだろうか。考え方次第だが、必要ない、或いは、ない方がよい製品の方が多いかも知れない。実際、本当に必要な物さえ充足されれば、それ以上の物の豊富さと幸福感とはほとんど相関がない、という調査結果があることは広く知られている。日本にも、喧騒な都会を離れて、自然豊かなところで手造りの生活を楽しんでいる人が少なくない。

企業の最大の関心事は企業利益の最大化である。したがって、現代の技術開発のほとんどすべては企業の利益拡大、ただそれだけのために行われる。交通、通信など多くの公共技術も、企業利益や経済成長には貢献しても、人々の暮しがそれによって本当に充実するかどうかは疑わしい。経済利益のための技術は、高付加価値、大量販売が目的だから、必然的に複雑巧妙、過剰な機能や性能に傾き、資源・エネルギーの大量消費、環境負担の増大を伴う。同時に製造原価の最小化のために、環境影響や安全への考慮は、販売の障害にならない限り最小限に留めようとする。こうして複雑巧妙化された現在の技術製品は、どれもみな、その生産には社会の広い分野が関わり、単一の技術ではなくなっている。例えば、自動車は言うまでもなく、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、パソコンと言った我々の生活に深く入り込んでいる製品にはみな材料技術、電子技術、加工技術、計測技術、モーターやネジ類など個々の要素部品技術、更には各部門間を繋ぐ交通輸送技術および情報通信技術など関わっており、どの一部が欠けても最終製品は生産できない。どんな製品も、一つの企業や産業分野だけではなく社会全体で生産されているのである。言い換えれば、現在の工業文明社会は、生産も使用もそれぞれ独立した個々の技術(または技術製品)の単なる集合体として成り立っているのではなく、分野も目的も様々なそれぞれの技術が有機的につながった総合体なのである。これはちょうど、人体が物質元素の単なる寄せ集めではなく、種々な元素が有機的に繋がって各器官を構成し、各器官が更に有機的に繋がって人体を形成しているのと似ている。

このような近代技術と工業文明を可能にし、それを支えているのが自然資源、特に化石燃料であることは論を待たない。化石燃料は太古の時代に太陽エネルギーが何千万年もかかって非常に高いエネルギー密度まで凝縮されたもので、人間はこれを簡単に掘り出し、太古に生成した速度の何万倍もの速度で使うことができた。まさに棚からボタ餅だが、新しいボタ餅が再び目の前に現れる可能性はない。中でも石油は、工業文明社会の血流にも相当する輸送交通のほとんどを賄っており、石油がなくなることは、血流が不足するのと同じように、肥大化した現在の工業文明の崩壊を意味する。この石油を、世界は100年そこそこの間に、既に地球全埋蔵量(約2兆バレル)の半分を使った。需要はなお増え続けている一方、後に残った埋蔵分ほど質が悪く、採掘や精製にエネルギーが要るので、正味の埋蔵エネルギーは既に採掘した量よりはるかに少ない。新油田の発見量は1963年以来年々下がりっぱなしである上に、現在の年間石油消費量は、新発見される油田の埋蔵量をはるかに超えている。世界の石油生産はほぼ歴史上の頂点を過ぎたと見られ、今後は、多少の上下はあっても、減少の一途を辿ることになる。シェールガスもメタンハイドレートも種々な再生可能エネルギーも、液体でない、エネルギー収支が悪い、量的に不十分、環境破壊など、どれかの理由で、今日の石油の役目は代替できない。今までのように石油を安く大量に使うことができなくなるから、現代の工業文明はどうしても形を変えてゆかざるを得ないのである。

したがって、現在の技術の問題、特に資源の減少や環境汚染に関する問題は、個々の技術の問題として見ても有効な手立ては得られない。例えば、エネルギー問題を効率向上や他のエネルギー源の開発で解決しようとしても不可能で、工業文明社会全体の問題として対処しなければならない。にもかかわらず、太陽光発電、風力発電、蓄電池、電気自動車等々、どうしても個々の技術の中に解を見出すことしか考えないところに、現代人の技術信仰が現れている。それらの「いわゆる環境技術」を大量に使用して現在のような便利な工業文明を続けることなど、どうして可能になるのだろうか。石油の乏しい時代に、現在のような技術製品をどうやって大量に生産し、大量に輸送するのだろうか。現在の家庭にある便利な耐久消費財のほとんどが高価格な贅沢品になる時代に、それらを買うだけの所得を、一般庶民はどうやって得るのだろうか。より革新的な技術が現在の諸問題を解決し、将来の文明を支えるなどという考えが幻想に過ぎないことはこれでよくわかるだろう。(参考:本ブログ13年2月6日「再生可能エネルギー100%の社会」

結局、現在の豊かな工業文明を造ったのは技術だが、それを壊すのもまた技術である。成長の原因は、適当なところで成長をやめない限り、必ず崩壊の原因にもなるのは、自然の法則といえる。したがって、環境や資源の問題は、見かけ上関係している技術だけが生み出したものではなく、工業文明社会全体として生み出したものだという認識が大切なのである。個々の技術の改善や新しい技術に頼ろうとすればするほど、文明の崩壊は早く訪れることになるだろう。

勿論、すべての技術が悪いわけではない。縮小社会には技術が不要というのではなく、衣食住、生活用品、治水工事などの伝統技術も技術だから、文明を造るのがやはり技術であることに変わりはない。しかし、縮小社会では、現在とは技術に対する考え方、したがって技術製品の姿や使い方が異なり、冒頭に挙げた技術観のほとんどは捨てられる。技術が自然法則の利用であることは同じだが、現在は、自然には起らない現象を人工的に起させる技術が多いので、環境に大きな負担をかけ、原理も構造も専門家にしかわからないような複雑な装置を必要とする。縮小社会の技術は、そのような「ハイテク」志向ではなく、なるべく自然に起る現象をそのまま利用することを良しとするから、装置も比較的簡単で、誰でも一目で理解できる。近代工業文明の以前からある伝統的な技術はこのような技術で、化石燃料や高密度の大量エネルギーに依存しないから、弊害が少なく、持続可能な優れた技術といえる。この意味で、自動車より自転車の方が技術として優れている。ハイテクも全く不要とは言わないが、日常生活や生産がハイテクに依存することを避け、その使用は、本当に必要な場合に限定する方がよい。また、伝統技術といえども、必要以上に使えば自然を壊すことになりかねない。

ジョン・ミカエル・グレアは、“The Long Descent” (長い下り坂)という著書の中で、脱工業時代の技術には次の四つの要素が必要だと書いている[1]:

・durability (耐久性):長持ちし、使い捨てでないこと。
・independence (独立性):他の技術に依存しない。
・replicability (復元性):生産に他の高度な技術を必要とせず、簡単に同じものが造れる。
・transparency (透明性):その製品自体に原理や使い方が現れている。

著者は、そのような技術の典型的な例として計算尺を挙げている。私の机の引き出しにも、昔愛用したヘンミの計算尺がある。計算尺は加減乗除の他に三角関数、対数からベキ乗まで計算可能で、飛行機さえこれで設計できる優れた道具である。竹製の計算尺は長持ちし、他の特別な技術がなくても、手作りで同じものが容易に生産できる(独立性、復元性)。仮に、計算尺などすっかり忘れ去られた何千年か後の人間が、遺跡から計算尺を発見したとしても、それをつらつら眺めて考えれば、その原理から使用方法までわかり、同じものを造ることができる(透明性)。電卓だったら、中身はブラックボックスだから、原理はおろか、何に使う道具かさえもわからないだろう。透明性は、いつの時代でも技術が継承できるための条件である。

農業にせよ、物造りにせよ、伝統技術は上の四つの要素を持っていた。医療もまた、原理こそ理解できなかったが、民間に代々伝えられて来た。伝統技術が持続可能な技術だったのは、大量生産・大量使用ができなかったからで、それは高密度で安くて豊富な化石燃料の利用を知らなかったからである。現代人は、化石燃料に浸り、生産性や便利さや金になることを追うあまり、これらの多くの優れた技術も、その知識も捨ててしまった。石油が乏しくなり、工業製品が使えなくなって来れば、生きることさえ困難になる。我々は、石油浸りの技術信仰から早く目をさまし、技術に対する考え方を改め、ハイテクばかりを追うのではなく、伝統技術をできるだけ復活させることが必要である。

[1] John Michael Greer“The Long Descent”New Society Publishers,2008,p170
ここでは「長い下り坂」と訳しておいたが、「下り」は否定的な意味ではない。この本では、Descentとは、石油生産が今後長い期間にわたって年々減少することを指す。それに伴って社会が大きく変って行き、その行き着く先が脱工業社会である。
き2013年5月29日


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