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縮小の時代

「スカイツリー」このイヤな名称

東京の新電波塔が開業して、新聞もテレビもその話題で持ちきりである。この電波塔の存在意義はさておいて、私はこの名称にはどうしてもなじめないし、口にするのも嫌な感じがする。公募によって賛成票が最も多かったそうだが、もっと日本語らしい名前にすればよかったのにと、非常に残念に思う。

現代の日本人は、どうして何でも外国語の名前をつけたがるのだろうか。私は現在でも英語を読むことが多いし、独、仏、中、韓国語も学んだことはあるが、それでも日本では何やらわけのわからないカタカナ語をいたるところで見聞きする。駅ビルの商店の名称は外国語名ばかりが並んでいる。雑誌の名前もまたしかり。私物だけではない。東京ベイブリッジ、ゲートブリッジ、アクアライン、横浜ランドマークタワー、六本木ヒルズ、古くは東京タワーや京都タワーなど、町の名所にもなる、公共性の高い建築物までが、ほとんど外国語名を付けられる。マンションなど集合住宅の名称も日本語の名前を捜すのが困難なくらいである。日本の誇りにしたい新名所や公共施設にまで日本語を避けて英語もどきの名称を付けることに、何の恥かしさもためらいも感じないのだろうか。

外国語名といっても、大部分は欧米語、特に英語が圧倒的に多い。西洋語風の名前をつけたがる最大の理由は西洋崇拝だろう。「外国人にわかりやすい」を意図してのことなら、それはむしろ間違いである。「富士山」も「金閣寺」も日本語の名称だからこそ外国人にも日本と密接に結びついて理解される。日本の新名所の名称が外国語風であることを喜ぶ外国人はいないだろう。もしどこかの外国に日本語の名称が溢れていたらどうだろうか。数少ない、何か特別の由来がある場合なら喜ぶこともあろうが、どこもかしこも日本語の名称がつけられていたら、それを見た日本人はその国の文化程度を却って軽蔑したくなるに違いない。軽蔑はしなくても、尊敬はしないだろう。

公共施設や住所の名称が外国語風のカタカナ名だと、却って奇妙なことや不便が起こる。カタカナ語は日本語でも外国語でもない。それをローマ字でどう表記したらいいだろうか。外国語の綴りで書くわけにはいかないし、さりとて日本式発音でローマ字表記にするともっとおかしい。例えば次のバス停が「スカイツリー前」だったら、車内の表示板では「Skytree Mae」とするのか、「Sukaitsuriimae」とするのか。私の住んでいる地元では (スカイツリーではないが) 後者と同様な例があった。とても奇妙に感じたが、さりとて、前者式の表記でも日本人の普通の発音ではなくなってしまうから、正しくはない。バス会社の人の悩みが感じられた。

自宅の住所に外国語もどきのカタカナ名称がついていると、国際郵便を出す時に戸惑う。英語もどきのカタカナ名を英語の綴りで書くと、日本は欧米列強の植民地かと馬鹿にされそうな気がする。

欧米風の名称の方が格好がいい、おしゃれ、近代的、と思う人が多いのではないだろうか。最近の「おしゃれ」の意味はほぼ「欧米風」と同義である。しかし、日本のカタカナ語氾濫は、明治維新以来の欧米崇拝がいまだに続いていることを表している。要するに植民地根性、劣等国根性である。

カタカナ語氾濫は、日本語の軽視である。言語には長い歴史が籠っており、固有の文化の中で最も中心的な地位を占めている。言語は環境と同じく、共通の貴重な財産として、子孫代々に正しく伝える義務がある。固有名詞だけでなく、日本語で十分表現できることをわざわざ外国語のカタカナ語に置き換えることが何と多いだろうか。

祖先が造り上げた大切な日本語を、現代人は意味もなく壊している。カタカナ語氾濫を一層推進しているのが商業主義である。商業主義が子孫に残すべき自然の資源を次々とカネに変えて荒廃させているように、伝統の文化までも荒廃させている。

日本語を捨てることは、日本文化の否定である。日本の技術、日本の文化の象徴として誇りにしたい施設に、なぜ日本語を否定して外国語の名前を付けるのだろうか。日本人が自らを「文化の遅れた国民」と思わないのなら、むしろ日本的な名前の方がいいのではないだろうか。漢字は形も美的だし、含蓄も深い。今や、日本語名称の方が却って近代的、新鮮、高級な感じを与えるような気がする。高級化粧品の一部に日本語の名称がついているのはその例である。

カタカナ語は日本語の表現力を豊富にするという人がいるかも知れないが、それには賛成しがたい。もともと日本語で表現できたことをカタカナ語に置き換えたからといって、表現が豊かになるわけではない。却って含蓄が薄れる場合も多い。それまで使われていた日本語がさびれ、日本語だけの表現力や造語力も低下してしまう。明治維新の頃は、哲学、科学など、現在も良く使われている非常に多くの日本語が創造されたが、現在は安易にカタカナ語を使うことによって、新しい日本語を造り出すことがなくなってしまった。

文部科学省は漢字制限をしている。新聞や出版物に使う漢字にも大きな制限がある、これが長年かかって積み上げられた古人の知恵(これは貴重な文化遺産である)から遠ざける一因にもなっている。ところが、カタカナ語の氾濫に対しては何の制限もなく、使い放題である。漢字なら初めて見ても意味はわかるが、意味の分からないカタカナ語がやたらに出て来る。漢字を制限してカタカナ語を制限しないのは、言語政策としても大きな誤りである。公共性の高い文書では、漢字制限よりカタカナ語の制限の方がよほど大切ではないだろうか。
2012年5月23日

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