FC2ブログ

縮小の時代

学問すること

「福島の学校の放射線量は年間1mSvを目標にする」と、文部科学省がついに折れた。具体的には、毎時1μSv以上の学校は土の処理費用はすべて国が負担し、県内の全校に線量計を配布して累積線量を調査するという。なぜ汚染がもっと酷い肝心な時に何もせず今さらという感はあるが、それにしても大きな進歩だ。

これに対して、佐藤雄平福島県知事や長崎大学の山下教授が「前進だ」とか「1mSv以下を目指すのは当然だ」などと言っているのをニュースで聞いて「おや?」と思った。

今まで20mSvは全く問題ないと言い続けて来たのはどこへ行ったのだろうか。20mSvでも健康には全く影響がないと本当に思っているのなら、なぜ「それは無駄なことだ」と、堂々と文科省に抗議しないのだろうか。

首尾一貫しないこと、反省がないこと、責任を持たないことは、福島原発事故に関係した多くの中心的人物に見られる特徴である。

首尾一貫することは学者の最低の条件である。科学とは、「人類」が持っているあらゆる分野のあらゆる知識を一つの矛盾もなく体系づけることだと思う。新しい知識によって今までの理論体系のどこか一つにでも矛盾が生ずれば、理論を修正しなければならない。そのようにして現在の科学体系が造られて来た。

個人の知識量は非常に限られたものでしかないが、上の「人類」を「自分」に置き換えたものが個人としての学問である。だからこそ博士を英語ではphD (Doctor of Philosophy哲学博士)と言う。専門知識だけでは駄目で、専門外も含めた矛盾のない理論体系を持たなければならない。

学者だけではない。どの人間でも、自分は学問と関係ないと思っている人でも、自分の言動に矛盾がないことを志す者は、学問をしている者である。

知識も大切だが、それ以上に言論が矛盾しないことの方が学者としてより重要である。

基本的人権、民主主義、人命の尊重などは、誰でも必ず考えたことがあり、それが人間として最も大切な基本理念であることを否定する人はほとんどないと思う。原子力も、技術も、経済も、どの分野の専門家も、専門分野における自分の理論や主張が人間としての基本理念と矛盾しては、学問でも哲学でもなくなってしまう。

この意味で、原発推進の多くの学者は、学者の資格が欠けているように思う。原発に関係なくても、時流を読んでそれに合わせる、名だけのこざかしい「学者」が如何に多い事か。

そんな中で、京大の小出裕章さんは、本来の学者の姿を見せてくれた。このような学者が存在したことは救いであり、それが模範の姿として多くの人に知られたことはもっとよかった。小出さんの貢献は計り知れない。
2011年5月27日


スポンサーサイト



  1. 2011/05/27(金) 21:57:21|
  2. 科学と技術
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

プロフィール

石田靖彦

Author:石田靖彦

フリーエリア

最新記事

----------

過去の記事一覧

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (15)
環境 (20)
エネルギー (29)
原発 (45)
伝統文化 (0)
科学と技術 (21)
政治 (12)
政治・社会・経済 (48)
文化 (3)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR