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縮小の時代

縮小社会は夢がない?

縮小社会と聞くと、即座に夢がない話だと漏らす人が少なくない。「夢」とは本来現実離れしたはかなきことを指すから、夢など持たなくてもよいのだが、(自分にも実現可能な望みという意味なら、夢ではなく大志あるいは理想という言葉が正しい)、それはさておき、彼等にとって夢の持てる社会とはどんな社会だろう。「縮小=夢がない」という彼らの公式からすると、夢のある社会であるためには「豊富な物量」が条件、つまり、努力や才能次第で物はいくらでも欲しいだけ手に入れられる社会でなければならない、ということになる。誰でも、いつでも欲しいだけ手に入るということは、実質的には「無限の物量」を要求していることと同じである。まさに、現実離れした虚構という意味の「夢」である。限られた物量の中で欲しいだけ手に入れようとしたら、激しい奪い合いになるから、誰もが望みを実現できる理想の社会ではないだろう。

 

無限の物量こそが人間の夢だという考えは「アメリカの夢」と同じである。開拓時代のアメリカは広大な大陸、無限に広がる未開の西部があって、個人の力さえあれば何でも手に入った。既に開拓し尽くされて行き詰まった欧州から新天地を求めて渡ってきた開拓民達にとっては、アメリカ大陸はまさにどんな夢も叶いそうな世界だったろう。しかし、そのアメリカも、豊富だった資源のとんでもない浪費に依存する社会を造ってしまったため、既に大陸の隅々まで開拓し尽くされ、初期の移民達が後にした当時の欧州と同じように、現在は椅子取り社会に陥っている。今では必要な資源の多くを外国からの輸入で補っているが、これも長く続かないことは明らかである。椅子取り社会は、誰かが豊かになれば必ず他の誰かが貧しくなる昔の無政府社会と同じで、決して誰にも夢が持てるような社会ではない。今なお「アメリカの夢」に浸っているアメリカの未来が待つのは没落のみである。

 

無限の物量がなければ夢が持てないということは、人間としての最大の価値を「豊富な財物の所有」に置いているということである。「縮小社会は夢がない」という言葉は「俺には縮小社会では叶えられない素晴らしい夢がある」という意味であり、暗にほのめかしているのは「俺はお前らと違って夢のある大きな人間だ」ということだが、結局は、その夢とは、人一倍多くの物を手に入れる、ただそれだけの浅ましい欲望に過ぎない。大きな人間どころか、自分は欲の突っ張った俗物であり、他人を顧みない無情な人間であり、無から有は生じないという自然科学の基本法則すら知らない愚か者であると告白しているようなものだ。

 

これからの社会で「努力次第で実現できそうな大きな理想」あるいは「大きな希望」を持つためには、まず物への執着を捨てることである。貧しさから脱け出したいと思う気持ちが、確かに一定の活力の源であることは否定できない。昔の貧しい人達にとっては特にそうだった。しかし、全体として物量の少なかった昔は、貧困とは生きるための最小限度の衣食住にも事欠く苦しみを意味していた。貧困のため家族の誰かが犠牲になる悲劇もあっただろう。そんな特に貧しい人達にとっては、貧困から脱することが、歯を食いしばって努力する最も大きな動機であったのは当然といえる。しかし、当時でも、まずまず人並みの生活ができれば、それ以上の物欲のために心身を傾けて努力しようとする人が多かったとは思えない。昔は「必要な物needs」と「欲しい物wants」とは今よりはっきりと区別され、アダムスミス、マルクス、ケインズといった一流の経済学者も、人は必要が満たされればそれ以上はあまり望まないだろうと考えていたようである。

 

「粋」を重んずる江戸っ子も、必要以上の物にはほとんど目もくれなかっただろう。日銭を残さずその日のうちに使ってしまうのも、物量に執着しないという彼らの美学であった。物量に執着しないことは、より広い世界に入ることである。物量には限度があっても、精神の世界には限度がなく、いくらでも広く、深くすることができる。はかない夢でなく、実現可能な大きな理想や志を持つ余地がいくらでもある。

 

美術、文学、工芸、音楽、芸能、哲学、学問、人との交流、共同体の慣習などといった「文化」の中で、豊富な物量や高度な現代技術がなければ得られないものがどれだけあるだろうか。ほとんどないと言えないだろうか。これらの文化は物量に関係なく、いくらでも豊富にすることが可能ではないだろうか。むしろ、無限の物量を追わなかったからこそ築き上げることができたのではないだろうか。現在は逆に、無限の物量を追うことが目的のすべてになったため、後世に残す価値のある文化が生まれなくなったような気がする。

20131015

 

 

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  1. 2013/10/15(火) 13:12:44|
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東京新電波塔が象徴するもの

新聞やテレビを賑わせている東京の新電波塔(スカイツリー)に関する話題のほとんどは、世界一という高さに関する事、日本の建築技術に関する事、人が集まり商店街が賑わうなど、どれもこれもこの建築物に好意的なものばかり、言って見れば相変わらず「重厚長大」「経済拡大」志向である。

電波塔としての必要性については、高層ビルが増えて地上デジタル放送が映りにくい場所が増えたから、より高いアンテナが必要だとういう説明があるらしいが、どうもはっきりしない。こんなに高いアンテナを建てなければテレビが映らないのだったら、全国の至る所に同様な高いアンテナ塔を建てなければならないことになるが、そんな話は全く聞かない。新聞やテレビの報道も、アンテナ塔自体としての効果は全くと言っていいほど触れていないようだ。とすると、電波を届けるために必要だという説明も信ずるに当らない。電波塔の稼働によってテレビの映りがよくなったという人がどれだけいるだろうか。

結局は単なる人集めのための商業施設に過ぎない。東京の下町、本来なら日本的情緒豊かな庶民の町に、町の伝統には全くそぐわない奇怪な形の高塔を建てることも愚行に思えるが、それについてはパリのエッフェル塔が建設当初には大反対があったのに、現在ではパリの顔の一つにもなっているという例もあるから、絶対にダメだとは言えない。ただし、エッフェル塔の例が常に通用すると思ったら間違いで、京都タワーなどは、1960年代の建設時にも大反対があったが、現在も未だに古都京都の顔としてなじんでおらず、相変らず醜さを感じさせるだけである。現在はエッフェル塔の時代と違って高い塔など建てようと思ったらどこでも建てられるし、今後はむしろ自然回帰の時代だから、東京電波塔の価値も大して高くはないだろう。

仮にテレビの電波がよく届くようになったとしても、肝心のテレビ番組の内容が現在のように下らないものばかりだったら、何の意味もない。無料放送は主要局も地方局も、いつ見ても大した芸もない同じタレントがひな壇に並んでつまらぬバカ口をたたいている。彼らの話題も芸能人の事が多く、まるで芸能人のためにテレビがある如くである。旅や食べ物の番組もやたらに多く、必ずといっていいほど芸能人が付いて回る。買い物放送も多過ぎる。公共の所有物である電波帯を勝手に私企業の金儲けのために使うことを誰が許しているのだろうか。もちろん、中には見て良かったと思う優れた番組もあるが、非常に少ない。大部分は見る必要がない番組、却って見ない方がいい番組、文化を深め豊かにすることより、却ってその逆の番組である。

電波塔自身が大量の電力を消費するだけでなく、その経済効果も所詮は資源をますます浪費させることに過ぎない。これからは資源の節約、電力節約の時代で、その必要性が日増しに高まることは確実だが、東京電波塔の騒ぎを見ていると、重厚長大、資源浪費、内面より外面だけの文化から全く脱け出しておらず、新しい時代の象徴とは逆に、むしろ時代遅れの感覚を代表しているように思われる。
2012年5月25日


  1. 2012/05/25(金) 13:45:47|
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「スカイツリー」このイヤな名称

東京の新電波塔が開業して、新聞もテレビもその話題で持ちきりである。この電波塔の存在意義はさておいて、私はこの名称にはどうしてもなじめないし、口にするのも嫌な感じがする。公募によって賛成票が最も多かったそうだが、もっと日本語らしい名前にすればよかったのにと、非常に残念に思う。

現代の日本人は、どうして何でも外国語の名前をつけたがるのだろうか。私は現在でも英語を読むことが多いし、独、仏、中、韓国語も学んだことはあるが、それでも日本では何やらわけのわからないカタカナ語をいたるところで見聞きする。駅ビルの商店の名称は外国語名ばかりが並んでいる。雑誌の名前もまたしかり。私物だけではない。東京ベイブリッジ、ゲートブリッジ、アクアライン、横浜ランドマークタワー、六本木ヒルズ、古くは東京タワーや京都タワーなど、町の名所にもなる、公共性の高い建築物までが、ほとんど外国語名を付けられる。マンションなど集合住宅の名称も日本語の名前を捜すのが困難なくらいである。日本の誇りにしたい新名所や公共施設にまで日本語を避けて英語もどきの名称を付けることに、何の恥かしさもためらいも感じないのだろうか。

外国語名といっても、大部分は欧米語、特に英語が圧倒的に多い。西洋語風の名前をつけたがる最大の理由は西洋崇拝だろう。「外国人にわかりやすい」を意図してのことなら、それはむしろ間違いである。「富士山」も「金閣寺」も日本語の名称だからこそ外国人にも日本と密接に結びついて理解される。日本の新名所の名称が外国語風であることを喜ぶ外国人はいないだろう。もしどこかの外国に日本語の名称が溢れていたらどうだろうか。数少ない、何か特別の由来がある場合なら喜ぶこともあろうが、どこもかしこも日本語の名称がつけられていたら、それを見た日本人はその国の文化程度を却って軽蔑したくなるに違いない。軽蔑はしなくても、尊敬はしないだろう。

公共施設や住所の名称が外国語風のカタカナ名だと、却って奇妙なことや不便が起こる。カタカナ語は日本語でも外国語でもない。それをローマ字でどう表記したらいいだろうか。外国語の綴りで書くわけにはいかないし、さりとて日本式発音でローマ字表記にするともっとおかしい。例えば次のバス停が「スカイツリー前」だったら、車内の表示板では「Skytree Mae」とするのか、「Sukaitsuriimae」とするのか。私の住んでいる地元では (スカイツリーではないが) 後者と同様な例があった。とても奇妙に感じたが、さりとて、前者式の表記でも日本人の普通の発音ではなくなってしまうから、正しくはない。バス会社の人の悩みが感じられた。

自宅の住所に外国語もどきのカタカナ名称がついていると、国際郵便を出す時に戸惑う。英語もどきのカタカナ名を英語の綴りで書くと、日本は欧米列強の植民地かと馬鹿にされそうな気がする。

欧米風の名称の方が格好がいい、おしゃれ、近代的、と思う人が多いのではないだろうか。最近の「おしゃれ」の意味はほぼ「欧米風」と同義である。しかし、日本のカタカナ語氾濫は、明治維新以来の欧米崇拝がいまだに続いていることを表している。要するに植民地根性、劣等国根性である。

カタカナ語氾濫は、日本語の軽視である。言語には長い歴史が籠っており、固有の文化の中で最も中心的な地位を占めている。言語は環境と同じく、共通の貴重な財産として、子孫代々に正しく伝える義務がある。固有名詞だけでなく、日本語で十分表現できることをわざわざ外国語のカタカナ語に置き換えることが何と多いだろうか。

祖先が造り上げた大切な日本語を、現代人は意味もなく壊している。カタカナ語氾濫を一層推進しているのが商業主義である。商業主義が子孫に残すべき自然の資源を次々とカネに変えて荒廃させているように、伝統の文化までも荒廃させている。

日本語を捨てることは、日本文化の否定である。日本の技術、日本の文化の象徴として誇りにしたい施設に、なぜ日本語を否定して外国語の名前を付けるのだろうか。日本人が自らを「文化の遅れた国民」と思わないのなら、むしろ日本的な名前の方がいいのではないだろうか。漢字は形も美的だし、含蓄も深い。今や、日本語名称の方が却って近代的、新鮮、高級な感じを与えるような気がする。高級化粧品の一部に日本語の名称がついているのはその例である。

カタカナ語は日本語の表現力を豊富にするという人がいるかも知れないが、それには賛成しがたい。もともと日本語で表現できたことをカタカナ語に置き換えたからといって、表現が豊かになるわけではない。却って含蓄が薄れる場合も多い。それまで使われていた日本語がさびれ、日本語だけの表現力や造語力も低下してしまう。明治維新の頃は、哲学、科学など、現在も良く使われている非常に多くの日本語が創造されたが、現在は安易にカタカナ語を使うことによって、新しい日本語を造り出すことがなくなってしまった。

文部科学省は漢字制限をしている。新聞や出版物に使う漢字にも大きな制限がある、これが長年かかって積み上げられた古人の知恵(これは貴重な文化遺産である)から遠ざける一因にもなっている。ところが、カタカナ語の氾濫に対しては何の制限もなく、使い放題である。漢字なら初めて見ても意味はわかるが、意味の分からないカタカナ語がやたらに出て来る。漢字を制限してカタカナ語を制限しないのは、言語政策としても大きな誤りである。公共性の高い文書では、漢字制限よりカタカナ語の制限の方がよほど大切ではないだろうか。
2012年5月23日

  1. 2012/05/23(水) 12:32:35|
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