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縮小の時代

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選挙制度の民主化への提案

大義名分の無い衆院解散総選挙となった。選挙は民主政治の基本であり、これ以外に民主的な方法は見つからない。しかし、現在の選挙制度にはまだ欠陥が多く、本来の民主性がが十分に発揮されていない。安倍自民党が大勝した前回の総選挙では、一票の格差は違憲問題が生ずる程度の著しい不平等だったという最高裁の判決が出たばかりである。現在の小選挙区制も、民意を正しく反映しない。仮にすべての選挙区が定数1だとすると、ある政党がすべての選挙区で51%の得票率で勝てば、議員の100%がその政党で占められてしまう。以前の中選挙区制から小選挙区制に変ったのは、支配政党がそのような独裁体制を狙ったものである。その狙いにまんまと成功した自民党の安倍内閣は、民意を無視して民主精神にもとる勝手なことをし放題である。

多選議員が多いのも問題だし、政治家としての能力も将来への展望も人格もないのに、二世というだけで、あるいはマスコミで名が知られたというだけで議員になる人も多い。知名度は選挙の有利不利に決定的な影響を持つが、現在のようなマスコミ社会では、知名度は議員としての素質とは無関係である。知名度は高くても、本当に理想に近い政治家として優れているという理由からではなく、ただマスコミによく名前が出て来ると言うだけの有名人でもしばしば当選する。選挙がタレントの人気投票のようになっているのだ。

テレビドラマや小説では、政治家は国民や選挙民のために働くより自分の野心や経済的利益のために政治を利用する者として描かれている場合が多い。中には高潔な政治家もいるだろうが、現在第一線に立っている政治家には、高邁な理想、深い教養と理性、高潔な品格を備えた、人間として尊敬できるような人はほとんどいない。大多数の政治家は、ただ自分のために政治家を志したに過ぎないのだろう。逆に、本当に尊敬に値し、政治を託したいと思うような人は、金と既得権にまみれた現在の選挙には出ることすら難しいし、マスコミ的知名度がない限り当選はおぼつかない。政治家とは人間的にも能力的にも尊敬に値する人物だ、ということが常識になるような世の中になって欲しいものだ。

議員がいる政党が政党助成金などで優遇されているのも、無所属新人の候補者を不利にしている。こんな選挙では、何回繰り返してもよい政治は期待できない。有権者の意識が変ればよいのだが、政治とは、選挙とはこんなものだと思わされている有権者の意識が早々に変りそうな様子もない。

とは言え、少しでも改善の方法があれば改善すべきである。一票の格差については、どの程度が許されるかは大変難しい問題で、完全平等が必ずしも良いとは限らない。もし、完全平等だと、大都市圏の議員数が多くなり、国政はますます大都市中心、大都市有利になる危険がある。それでなくても、都会の住民は何かと優遇されている。例えば、都会には種々な施設や文化的催しが多いし、交通も便利である。職場の種類も多いし就職にも有利である。そういう都会の有利さのために人が都会に集まってますます都会の人口が高まるのだから、議員数まで人口比例では、金持ちにますます金が集まるシステムと同じように、ますます都市に便益が集中し、却って不平等であるし、国としての持続可能性や柔軟性を危うくする。しかも、都市の便利な生活を根底から支えているのは、結局は食糧や原材料を提供する地方なのである。

地域との癒着防止:同じ選挙区からの立候補制限

一票の重さと人口分布との矛盾を軽減するには、選挙区をなるべく大きくすることが一つの方法だが、国会議員が地元への利益誘導者にならない方策を講じることも必要である。現在の選挙では「地盤」が大切で、親の代から引き継いでいる二世、三世の議員もいる。地盤とは、結局は日本全体より地元の利益、その地元の中でも決して全部ではない一部の人達の利益代表になっていることの証に過ぎない。各県から一人ずつくらいは県の利益代表者であってもよいが、大多数の国会議員は、地域よりも日本全体を総合的に考えてもらわなければ困る。固定された地盤など、むしろない方が良い。各県1名ずつの議員以外は選挙区を全国区のみとするのも一法だが、全国区だと、現在のような選挙運動では金のかかる選挙になってしまう恐れがある。国会議員の地元との癒着防止の一方法として、中選挙区の場合(定数の少ない小選挙区は好ましくない)は、ある選挙区で当選した議員は、同じ選挙区では立候補できる回数を制限するのはどうだろうか。例えば、東京1区で当選した衆議院議員、何年か(4~5年)在職したら、同じ選挙区からは立候補できなくする。同じ都道府県では不可とするくらいがいいだろう。あるいは、他の選挙区なら後述の得票割引率が0に戻るようにするのも良い。検察官は地域との癒着防止のため3年毎に転勤させられるそうだから、国会議員でも地域との癒着防止のための何らかの方策はとれない筈がない。

選挙運動の平等化
現職の候補者やマスコミ的な知名度のある候補者、金のある政党の候補者などが、それだけの理由で選挙に有利になるのは、政治を堕落させている理由の一つである。マスコミ的な知名度や金がなくても、本当に政治を託すに足る望ましい人が平等な選挙運動をできるようにすることが大切で、それには、選挙管理員会が決めた演説会の他は、政府がテレビの時間を買い切り、すべての候補者に平等な政権放送の時間を与え、それ以外の選挙運動は許さない、という方法もある。地域との癒着防止で同じ選挙区からの多選が禁止された候補者にとっても、他の選挙区からの立候補がしやすくなるだろう。

多選防止の一方法:得票数の割引(減票制度)
多選議員が多いのも問題である。国会議員にも自治体の首長や議員にも、何十年も多選を繰り返している人が多い。国会議員の場合は、多選を大臣の資格にしている政党も多いようだ。しかし、彼らが多選されているのは、本当にそれにふさわしいからだろうか?それよりもただ地盤や、既得権や、名が知られているといった理由だけではないかと思われる。国会議員の場合、もし地元の利益に貢献しているという理由での多選なら、それは国民全体にとっては好ましいことではない。

多選はその職を知り、慣れることでもあり、駆け引きや権謀術数に強くなることでもある。これは政治家として必要なことだと考えている人が多いかもしれない。しかし、慣れや駆け引きに長ずることが良い政治を行うことではない。それより大切なことは、政治家としての良心と志を持つことであって、自分の利益にしがみつくような人では、駆引きや権謀術数に優れていれば、却って選挙民にとっては良くない事の方が多い。

一度当選すると名が知られる。大した業績がなくても、それだけで次の選挙には非常に有利になる。そうして多選を重ねるにつれ、特定の営利集団との癒着が深まり、政治が私物化されて行く。多選は選挙の度に問題にされるが、多選の禁止や、新人候補と多選候補との機会均等(選挙民に政策や人となりを知ってもらう機会の平等)を考慮した制度が、日本ではほとんど見られない。

多選防止の一つの方法として、選挙される職の在職年数、あるいは当選回数に応じて選挙の得票数を割引くのはどうだろうか。衆議院議員なら任期前の解散もあるので、割引は多選の回数よりも在職年数で行った方がいいだろう。例えば、1年在職するごとに、次の選挙の得票数から5%を割引くとする。任期4年の知事では、2度目の選挙では20%の割引だから、1万票の得票なら2000票を減票されて有効得票は8000票となる。3選なら8年在職で割引は40%である。落選などで空白期間がある場合は、その年数だけ割引率を減らすのも良い。例えば、1期4年在職した人が、引き続き次の選挙に立候補する場合は得票割引率20%となるが、それで落選するか、または何かの都合で立候補せず、1期4年間後の次の選挙に再び立候補する場合は空白の4年分の割引率20%が相殺されて、割引率は再び0%から始める。

多選候補者の得票割引制度によって、特に優れた業績や人望がない人の多選は難しくなり、より志の高い人が立候補しやすくなるし、当選しやすくもなる。どれほどの割引率が適当かは、なお検討の余地があろうが、3%~5%あってもいいのではないか。5%でもそれほど大き過ぎる値ではない。アメリカの大統領は3選不可能だし、日本でも多選禁止条例を制定している自治体がいくつかある(多くは3選12年まで)。このような得票割引制度は、単純に多選を禁止するより良い方法になるのではないか。3選以下でも相応の業績や人望がないと難しいし、本当に人望が厚い優れた人なら、4選以上の可能性もある。■
2014年11月30日


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  1. 2014/11/29(土) 14:26:19|
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集団的自衛権の閣議決定:歴史に残る悪政

集団的自衛権がとうとう閣議決定された。完全な憲法違反である。自衛隊という武力を持つこと自体、第九条に反することは明確だが、今までは「武力を行使するのが目的ではなく、武力攻撃の抑止力として、つまり日本に対する他国の武力行使そのものを回避することが目的」という屁理屈によって、かろうじて憲法違反ではないというごまかしを通して来た。しかし、他国に武力を派遣することは、武力を行使することだから、もはや完全に憲法違反であることはごまかしようがない。

********憲法第九条********
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持し ない。国の交戦権は、これを認めない。
***************************

仮に今までの屁理屈を延長して集団的自衛権が第九条に反しないというごまかしてを押し通しても、憲法の前文に反しないとごまかすことはできない。前文には次のような一文がある:

********日本国憲法 前文より********
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
**********************************

同盟国といえども、他国にまで出かけて武力を行使することは、誰が見ても「崇高な理想」のための行為ではなく、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する」という誓いを完全に踏みじみる。
武力の行使は、諸国民の公正と信義を信頼することではない。
同盟国という理由である一国に武力を派遣することが、世界中の国々から「国際社会において名誉ある」行為と見なされることは絶対にない。
いかなる理由でも、武力行使は自国のことのみに専念して他国を無視することであり、普遍的な政治道徳に反する。

今までの安倍内閣の一連の政策はすべて、
憲法の理想と誓いを完全に捨て、
武力とそれを使う機会の拡大にいそしみ、
自然環境をますます害し、
庶民の負担をますます増やし、
恵まれた人、金持ち、大企業の利益に奉仕するだけのために権力を行使する、
ものである。

安部内閣は良く言って利益集団、悪く言えばやくざ集団である。「人民のための政治」「人類の目指す理想に少しでも近づく政治」という、本来の政治家が持つべき理念の一かけらも見られない。ここしばらく続いた無能な内閣の方がまだ良かった。良い事はできなくても特別悪いことも大してできなかったからである。安倍内閣になって、何もかも力づくで押し通すようになった。それも悪政ばかりである。権力を持った利益集団ほど庶民にとって怖いものはない。安倍を上質な為政者と見なす外国人は一人もいないだろう。戦後の歴史上でも最悪の政府に部類に属する。

世論調査では、集団的自衛権や原発再稼働に反対する人が過半数を占めている。それにもかかわらず、こんな安倍内閣と自民党がなぜ選挙で勝つのだろうか。安倍自民党に投票した人は、平和も正義も自分には関係のない、どうでもよいことだと思っているのだろうか、それとも、平和や平等よりも経済成長の方が遥かに緊急な課題だと思っているからだろうか。アベノミクスによって経済成長が回復できると本当に思っているのだろうか。これが無知や堕落でなくて何だろうか。

人々をここまでダメにしたのは、現在の社会の基礎になっている「各人が自己の利益のみを考えて行動すれば良い」という功利主義である。これが個人的利益のための競争を激化させ、人々を利己主義に走らせ、人々から余裕を奪い、少数の勝者と大多数の敗者を生み出し、大多数の敗者から将来への希望や望みを奪っている。

個人は個人で、激しい競争にさらされ、過酷な労働に疲れ切り、自分のことで精いっぱいになり、他人のことなど構っておられず、明日への希望も持てず、正義とか平和など考えるのは面倒臭いと思い、それよりサッカー、野球、オリンピック、AKB、グルメなど、その場限りの気晴らしにしか興味を持たないようになった。人々の意識から「理性」というものが消えた。マスコミもインターネットも専らその堕落に加担する情報に偏っている。その方が金儲けになるからである。

日本人の大部分が現在の日本に満足しているとは到底思えない。大多数は、様々な不条理を感じ、もっと良い社会であって欲しいと願っているのではないだろうか。社会を少しでも良い方に変えたいと思うなら、その第一歩は、社会を悪くしている原因を考えることである。そうすれば、それを取り除くにはどうしたら良いか、少なくとも一つの方法は必ず容易に見つかる筈である。それは、その悪い原因を推進する立候補者に投票しないことである。ところが、それさえできないほど、今の日本人はダメになっている。安部自民党にとっては、そんなダメ日本人が一番好ましいのである。

いったん憲法違反が許される内閣になったら、後は泥沼である。政府はいくらでも好き勝手ができる。こうして日本はますます落ちて行く。再び落ちるところまで落ちないと目覚めないのだろうか。
2014年7月2日

  1. 2014/07/02(水) 13:20:22|
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都知事選、四つの憤り

都知事選は政治の流れを変える大きな契機になる筈だったが、自民党舛添氏(無所属だが実質的には自民党と変らない)の圧勝に終ってしまった。投票率が46.16%、うち舛添氏の得票率は43.4%だから、有権者数に対する舛添氏の支持率は僅か20.0%、5人に1人に過ぎないが、これでも「大多数の都民の支持」と同じことにされ、舛添氏や自民党は好き放題が出来る。選挙中には都政と国政とは関係が無いという議論も出たが、東京で反自民の都知事が生まれれば、知事が国政に口を出すことではなく、国民が反自民を支持していることで、国政にも非常に大きな影響を及ぼすことができる。しかし、舛添氏が勝ったことで、安倍政権はますます逆方向に加速してゆくだろう。今回の選挙は、四つの点で非常に憤りを感ずる。

第一の憤り 舛添や田母神に投票した選挙民の愚かさ
先回の総選挙での国民も同じだったが、今回も舛添氏や田母神氏に投票した都民の愚かさである。人類の歴史の大きな流れに無関心で、経済成長の時代は既に行き過ぎており、今後は経済の縮小しかあり得ないにも関わらず、経済成長とは何かを考えることもせず、目先の事しか見ないで破綻が必然の空虚なアベノミクスにしがみつこうとする。先がない経済成長や大量消費の継続を夢見て、長年にわたってすべての子孫や生物の生存権に大打撃を与える原子力発電所の再稼働が倫理に反することを考えようともしない。いや、目先を見ても、アベノミクスがもはや通用しないことはすぐわかる筈である。経済成長政策を取れは取るほど資源は困窮し、借金は増え、格差は広がり、苦しむ人が増えて行くことが明らかなのに、どうして自民党や経済界の甘ごとに簡単に誤魔化されるのだろうか。自分で自分の首を絞めていることに気が付かないのだろうか。

それだけではない。軍国主義者の田母神なる男もかなりの票を獲得している。東京新聞によると、出口調査では、20代の若者の支持率は、一位舛添氏の34.7%に次いで田母神氏は二位の20%となり、宇都宮氏の16.5%、細川氏の9.9%を超えていたと言う。世の中に行きづまりの感が生じると、軍国主義は勇ましく、かつ格好よく見えるかも知れないが、これは軽薄な漫画やマスコミ文化に踊らされているだけで、軍国主義や戦争がどんなものかに関する思考力や想像力の欠如に他ならない。安倍首相も軍拡や戦争の準備には熱心である。彼らは中国や韓国朝鮮を挑発するようなことを好んで行い、先方がそれに乗って反日感や軍備増強を強めると、待ってましたとばかり自国の軍備拡大にいそしむ。そんな策略にも、善良な国民は簡単に乗せられてしまうのである。いざ戦争になれば、命を捨てなければならないのは軍国主義者自らではなく、一般国民であり、若者である。軍拡に熱心な人達は、戦争になったら真っ先に自分の子供、孫を前線に送り出すことができるのだろうか。彼等のすることはずるく、安全な場所で国民を煽ることでしかない。国民よ、若者よ、目を開け。そんなことに騙されてはいけない。

安倍政権は民主主義、平和、平等といった方向とは逆向きの政策を続々と出してきている。こんな安倍自民党にいくら怒りをぶつけても仕方がない。彼らはもともとそういう人物だから、いくら怒ったところで変る筈がない。憤りの先は、こんな人物を選挙で選ぶ国民の愚かさ加減である。

第二の憤り 投票率の低さ
投票率がもっと高かったら、結果はかなり違っていた可能性がある。マスコミが早くから舛添氏の絶対的優勢を報道していたから、投票に行っても効果ないと諦めた人が多かったに違いない。都知事選に限らず、最近の選挙はどれも著しく投票率が低い。自分一人が頑張っても政治は変えられないと思い込んでいるからである。日本人には特にその傾向が強い。かなり前の事になるが、環境問題に関する世界各国の人々のアンケート調査で、外国では自分一人でも行動するという人が多数を占め、日本では自分一人ではどうにもならないから何もしない、と答えた人が非常に多かった、という報告を見たことがある。同様なアンケート結果はいくつもあった。選挙の一票は小さいが、自分の一票だけでなく全て人の一票が皆同じように小さい。しかし、その小さな一票の積み重ねが選挙の結果になって政治を動かすのである。最初から自分の影響が小さいなどと言っていたら、選挙など無意味だし、民主主義にならない。

投票率の低さは国民のしらけや諦めによると言われるが、これは国民をしらけさせたり諦めさせたりした外部要因に責任を押し付けているに過ぎない。そんなしらけや諦めのもとを作りだしたものは選挙を棄権した人達なのである。先がない経済成長や大量消費の継続を夢見て、長年にわたってすべての子孫や生物の生存権に大打撃を与える原子力発電所の再稼働が倫理に反することを考えようともしない。もし毎回の投票率が高く、その結果あまり良くない政権が出来たとすれば、国民はしらけたり諦めたりする前に次の投票で別の人間に投票するだろう。政治への無関心は子供や孫への無責任でもある。

国民は投票が義務である。義務違反は罰金を取るか(高齢者や病人は罰金を免除する)、さもなければ投票率が一定以下、例えば80%以下だったら選挙は無効でやり直しという法律を作ったらどうだろうか。最初のうちは面倒で金もかかるが、投票に行くまで選挙は終らないということが常識になれば、大部分の人は次からは一回目の投票に行き、やりなおし投票が必要なことはほとんどなくなると思う。

第三の憤り 社共による足の引っ張り
今回は反原発の有力候補者が二つに分かれて足を引っ張り合った。宇都宮氏は、もし当選すれば都政を良い方向に大きく変えるかも知れないが、残念ながら最初から当選の見通しはほとんどなかった。それなら、今回は立候補をやめて細川氏と反原発で協力すべきだった。せっかく政治を脱原発に踏み切らせる大きな機会だったにかかわらず、結局は自らその機会をつぶしてしまったのが宇都宮氏と共産・社民である。それでも彼らは98万票(得票率20.2%)も獲得した、次回の選挙に繋がったと思っているのだろうか。もしそうだとしたら、それは自己満足以外の何ものでもない。今回の選挙で最も大切なことが脱原発の方向に政治を変えることだったとしたら、彼らは大切な機会をただの自己満足のために利用したに過ぎない。

宇都宮氏が細川氏と協力しなかったのは、脱原発以外での政策や理念が大きく異なっていたからだろう。しかし、もし宇都宮氏が降りて細川氏に協力し、細川氏が当選すれば、宇都宮氏の都政への発言力も強くなる。別々に立候補して落選するより、はるかに都政を動かす力になったに違いない。二人が共闘すれば舛添氏とかなり接戦になり、投票率も上がり、細川氏当選の可能性もかなりあった筈である。脱原発の方向に都政が動き出せば、宇都宮氏のさまざまな政治理念も生かし易くなっただろう。それなのに、結局は我を張って何もかもダメにした。

戦後の長い自民天下を支えてきたのは、まさに社共だった。社共はほとんど共闘せず、常に独自の候補者を立て、自民党への批判票を分断し、その結果自民党の独占を許して来た。結局は国民のことはそっちのけで、自分の党のことしか考えないのである。今だにそれと同じことを繰り返している。せっかくの機会をダメにした宇都宮氏、社民、共産には、従来以上に強い憤りを感ずる。本当に国民のための政治を考えるのなら、まず、自分が当選することより、最も政治を変える確率が高い方法を選ぶのが本当の政治家ではないだろうか。

第四の憤り 公平を欠いたマスコミ
今回のマスコミの報道姿勢はひどいものだった。十数人の立候補者がいたにも関わらず、舛添氏、細川氏、宇都宮氏、田母神氏の4人のことしか報道していない。これはマスコミの義務にも倫理に反することである。たとえ有力候補者とそうでない人とがあったにせよ、立候補した以上は、すべての候補者を平等に扱うのがマスコミの義務である。決して特定の候補者に偏ってはならない。テレビに登場させる時間も、発言の機会も、候補者の紹介も、すべて完全に平等にするべきである。

候補者を差別することは、民主主義を否定することである。現在の選挙は候補者の政治理念や政策よりも、単なる知名度や人気だけで決まってしまうことが多い。多額の費用もかかる。これでは、本当に当選して欲しい人が立候補も当選もできないのは当たり前である。今回の候補者の中にも、政見放送を聞くと、マスコミが無視していた候補者の中にも非常に良い事をはっきり言っている人がいた。マスコミの本来の役割は、知名度や人気でなく、それぞれの候補者の思いをできるだけ平等に伝えることである。特に、知名度も金もないが本当に良い政治を志して立候補した候補者にとっては、マスコミが平等に扱ってくれることが最も大きな頼りである。しかしその役割をマスコミは完全に放棄している。これでは、本当の民主主義的な選挙はいつまでも行われず、したがって日本はいつまでも本当の民主主義にはなれない。
2014年2月11日


  1. 2014/02/11(火) 11:59:50|
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政府に秘密は要らない

特定秘密保護法案が参議院の委員会で強行可決された。自民党が強硬に審議を打ち切ったという。まだ本会議での最終可決には至っていないものの、法案の趣旨にせよ、審議のやり方にせよ、民主主義から遠ざかるばかりで、いよいよ日本も末期的な症状を見せて来た。政府の暴走とそれによる社会の破綻、そして全国民が蒙る辛苦という未来が増々はっきりとしてきた。

秘密とは、個人または仲間の内部情報を外部の者に隠しておくことである。したがって、仲間同士で隠すべきではない。仲間内の情報を隠された者はもはや仲間ではない。逆に言えば、仲間とは情報を共有する者同士ということである。

国家は国民全部が仲間であるから、国家としての情報はすべて仲間である国民の共有でなければならない。国家としての情報に接することを禁じられた者は仲間すなわち国民とは見なされないことになる。国民の代表機関として国民に養われている政府が情報を国民に隠すということは国民に対する裏切りであり、ましてや、情報が国民に知られたからといって、知った国民を罰するなどは、とんでもないことである。

国民に対して秘密にするのは、国民と言う仲間が多過ぎるために仲間だけの秘密を保つことが不可能で、必ず外部(外国)に知られてしまうから、および、同じ仲間によるテロ行為を防ぐためという理由からだろう。今回の秘密保護法案に反対する人達の中にも、国防、外交、テロ防止に関する秘密は「国益」のために必要と考えている人が多いのではないだろうか。しかし、いずれの場合も、秘密にすることが本当に国益になっているのかは大いに疑わしい。むしろ、国益は、政府が仲間である国民から情報を隠すための口実に過ぎないのではないだろうか。

まず、外交の秘密とは、国同士が交渉内容を共有しなければ交渉は成り立たないから、いずれの国も交渉相手国に対する秘密ではなく、明らかに自国民に対する秘密である。駆け引きから最大の国益を引き出すために交渉の経過を秘密にする、というのが彼らの言い分であり、一般常識であろう。しかし、国と国との交渉に駆け引きは本当に必要だろうか。駆け引きによって本当に国益が得られるのだろうか。駆け引きとは言いくるめること、相手の油断に乗ずること、騙すことである。そんな交渉で得た国益は、他方の国には国益にならない。これでは両国民が真なる信頼と友好の関係を保つことはできない。外交が本当に双方の国民にとっての益を目指すものなら、公開で行うのが当然である。

外交交渉の経過をそれぞれの国民に公開することで都合が悪いのは、いずれの国民でもなく、双方の政府であって、それぞれ国民に対する特権が失われるからではないだろうか。重要な外交であればあるほど、双方の国民生活に直結する。平和もTPPも環境保護もみな然りである。特権意識の強い政府が恐れるのは、交渉内容を知った双方の良識ある国民が連携して政府の独断専制に抗議することではないだろうか。戦後行われてきた一連の日米外交のほとんどは秘密にされたままだが、その秘密は広範な日本国民にとっては益よりも害になっている方が大きいのではないか。

テロ防止は、何でも秘密にしたい政府にとっては、非常に都合の良い口実である。テロと通常の事件との区別は曖昧で、政府は何でもテロに結び付けたがるが、本当のテロが起るのは、理不尽が多く言論が通じない場合である。 政府の政策が真に民主的な手続きを踏み、広範囲な国民のためになるものなら、テロなどそれほど心配する必要はない。仮にテロらしい行為があったとしても、大規模な行動にはなり得ず、通常の刑事事件の範囲で対処できるだろう。

テロ防止のための情報秘匿は、却ってテロを誘発する。政府はちょっとした事件をテロに結び付け、強権をふるい、秘密を強化したがる。それがますます民主主義から遠ざかり、国民に絶望感を植え付け、テロを誘発するのである。テロ防止は秘密主義よりも民主、情報公開の方がはるかに効果的であり根本的ではないだろうか。

防衛に関しても、秘密の必要性は疑わしい。政府や防衛関係者の本音は、外国に対する秘密より、国民に対して秘密にすることで、それによって防衛予算を勝手に増やし、意のままに使うことができるからではないだろうか。外国から武器を買ったり、外国と共同演習することが、軍事に関する外国への秘密がそれほど重要でないことを表している。

軍事力の詳細を秘密にすることが、外国からの武力行使の抑止力になっているだろうか。ある国の軍事力を詳細に知ることが、その国への武力行使を促すことになるだろうか。いずれも否である。軍事力の詳細を知られることが国の平和存立に大きく関わるのなら、地球上は弱肉強食だけの世界で、100数十か国もの小国家が存在しているはずはない。軍事力と言えるほどの軍備を持たない国も多い。小さな国には小さな軍事力という現実は、軍事力は外国への備えではなく、政府が国民を制圧するための備えであることを示している。

以上のように、国家の秘密保護とは、ほとんどは国益を口実とした政府の特権保護に過ぎず、国民にとっては益より害の方が大きい。いかなる情報であれ、国の情報を国民に秘密にすることが、国民にとって本当にどれだけ良いのか、もっともっと詳細に検討すべきであり、このような議論が広がってしかるべきである。
2013年12月6日


  1. 2013/12/06(金) 10:56:39|
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秘密保護法より秘密禁止法が必要

来週火曜日から開かれる秋の臨時国会で「特定秘密保護法案」が審議されることになっている。多くの国民を苦しめている身近で重要な問題が山積みしているこの時期に、安倍政権はなぜ急いで秘密保護法なのか理解に苦しむ。要するに、政府の意識は国民に代ることより国民を統治することにあり、国民のことなど何も考えていないということである。

総務省の電子政府窓口で公開している法案の概要を読んでみると、即座に次のような疑問を感ずる:

(1)我が国の安全保障に著しく支障を与えるおそれがあるとして特定秘密に指定する権限を持つのは行政機関の長だが、どんなことを特定秘密にするか、どんなことは特定秘密にしてはいけないか、ということが極めてあいまいである。つまり、行政機関の長が勝手に特定秘密の範囲を広げて、なんでも秘密にしてしまうことができる。

(2)指定された特定秘密に接する者は、秘密を扱うにふさわしいかどうかの適正評価を事前に受けなければならないが、その適性検査には、以下のような個人情報が多く含まれる。したがって、特定秘密を扱わせるという名目をつければ、行政機関、都道府県警察、契約業者の職員など、誰の個人情報でも調査することができる。思想調査も可能である。公務員は国民のためではなく、ますます政府のため、行政組織のために働くことを強制され、少しでも国民の方向を向こうとする職員は怪しい者として調査され、徹底的に排除されることになりかねない。    

(3) 秘密を漏洩した者は故意でも過失でも最大10年の懲役刑に処される。処罰されるのは、 ・特定秘密に関連する業務上で秘密を得た者;報道記者は国民に影響する秘密の内容をできるだけ詳しく聞き出そうと努力するのは極めて当前で、それなくして民主主義は成り立たないが、この法律によると、記者が真実を知ろうとあれこれ努力すれば、情報を得て記事にした場合は無論のこと、それが不成功の場合でも不法知得の未遂などで罰せられる可能性がある。国民の知る権利など全くどこかに吹き飛んでしまい、極めて恐ろしいことになる。

(4)国会まで非公開で、情報を漏らした議員が処罰されるとなると、議員が党に持ち帰って議員でない党員と一緒に検討することも不可能になる。

このように、安倍政権の標語である「日本を取り戻す」とは、戦後70年近く経った日本を再び戦前の暗黒政治に戻そうとすることである。

そもそも、政府や公務員が国民に秘密で何かを行う必要が本当にあるのだろうか。国家の秘密とは、外国に対する秘密である以前に、国民に対する秘密である。一般に、軍事や外交に関する情報は特に機密性が高いとされているようだが、改めて考えて見れば、軍事や外交のことでも、秘密にすることが本当に国益つまり国民の利益になるのか、はなはだ疑問である。例えば、外交交渉の中身が国民に知れたら何が困るのだろうか。実際はあまり困ることはないのではないだろうか。今まで、国民に秘密裡で外交をしたために本当に国益になった事どれだけあっただろうか。むしろ、秘密外交の中身はいつまでも国民に秘密のままにされ、結局は国民にとって悪い事にしかならなかったのではないだろうか。国民を無視し、結局はアメリカに従属するだけの現在の日本がそれを示している。外交を秘密にしないことは、相手国の国民にとってもその方が良いのではないだろうか。

軍事でも同じである。武力的による侵略を受けている最中ならいざ知らず、平和な時代にあって、軍事のすべてを公開しても、それによってどこかの国からの侵略が誘発されるとは思えない。むしろ、軍事力を秘密にするからこそ、他の国はそれ以上の武力増強に励むのである。結局、軍事の秘密化は平和を守るためでなく、相手を攻撃するためか、そうでなければ、軍需産業のために無駄な税金を使うことでしかない。これは憲法の理念にも反することになる。軍事力が政府の言うように平和のための備えなら(これは嘘で、本当に平和を願うのなら、武力はない方がよい)、軍事機密などない方がよいのではないか。

政府が国民に対して秘密を持つことは、結局は国民を裏切ることにしかならない。政府が物事を秘密にしたがるのは、決して国民のためではなく、国民の意図に反したことを行うためである。国政を国民に対して秘密にすることは、政府による犯罪行為ですらある。特定秘密保護法は、国民を処罰するための法律だが、むしろ逆に、こんなことは行政や軍事の秘密にしてはいけないという行政秘密禁止法を設け、秘密にすべきでないことを勝手に秘密にした行政の責任者を処罰する方が国民のためになる。

[注] 【特定秘密の提供】として誰がどのように秘密を取り扱うか書いてあるが、「ア」「イ」「ウ」に続く「エ」は理解困難な文章である:

「アからウまでによる場合のほか、行政機関の長は、特定秘密の提供を受ける者が当該特定秘密を各議院若しくは各議院の委員会若しくは参議院の調査会が行う審査若しくは調査で公開されないもの、刑事事件の捜査(刑事訴訟法第316条の27第1項の規定により提示する場合のほか、捜査機関以外の者に当該特定秘密を提供することがないと認められるものに限る。)その他公益上特に必要があると認められる業務若しくは手続において使用する場合であって、当該特定秘密を使用し、若しくは知る者の範囲を制限すること、当該業務若しくは手続以外に当該特定秘密が使用されないようにすることその他当該特定秘密を使用し、若しくは知る者がこれを保護するために必要なものとして政令で定める措置を講じ、かつ、我が国の安全保障に著しい支障を及ぼすおそれがないと認めたとき又は民事訴訟法第223条第6項若しくは情報公開・個人情報保護審査会設置法第9条第1項の規定により提示する場合に限り、特定秘密を提供することができるものとする。」

2013年10月12日


  1. 2013/10/11(金) 12:03:34|
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