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縮小の時代

自動運転車のパラドックス

自動運転車の公道での実証実験が行われている。速度は10〜20kmh以下。センサーで不意の事態に対応して安全を保つためには、とりあえずこれ以上の速度では危険だと思われるからだろう。

しかし、もともと、なぜ自動運転車が期待されるようになったのか。それは、安全性を高めるためだ。発端は、普通の手動運転者でも、何か障害物に衝突しそうになったら自動的にブレーキがかかって停車させることから始まった。その後、自動運転車の開発が盛んになるにつれて、人手不足対応の荷物運びやタクシーへの応用が大きく取り上げられるようになった。しかし、原点はあくまで安全性の向上にある。

手動運転より安全である筈の自動運転車の最高速度が手動運転車の制限速度よりかなり低い20kmh以下ということは、大きなパラドックスである。これは、現在の手動運転車の制限速度が著しく危険なほど高いということを意味しており、自動運転の実験を20kmh以下に設定した開発者も、それを支援している国交相も、潜在的にそういう認識があることを示している。潜在的とは言え、そういう認識があることは、現在の公道での制限速度は非常に危険な高さに設定されていることで、これもまたパラドックスと言える。

自動運転車の最高速度を、今後の技術開発でもっと上げられる、少なくとも現在の車の一般的な巡航速度程度まで上げられると開発者は思っているかも知れない。開発を続けることまでダメだとは言わないが、実用車としての実現はおそらく不可能だろう。センサーは人間の感覚より鋭い点も多いが、人間に及ばない点も多い。人間の感覚は、ある点ではセンサーほど感度が高くなくても、全てを総合して捉える能力がある。センサーではまだ危険と判断しなくても、人間なら危険を予測できる場合もあろう。とっさの事態への対応も、自動運転ではできないが、人間ならできる。自動運転を人間に近づけようと思えば思うほど、システムは複雑になり、故障やエラーも起りやすい。それに、運転手がいない大きな自動車が高速で走ってきたら、人間は恐ろしくて同じ道を歩けなくなる。

現在は、交通事故の責任をメーカーが問われることはない。誰でも犯す簡単なミスや不注意から命にかかわる重大事故を起こすような製品は、自動車以外だったらメーカーが責任を問われる。だが、自動車だけは例外で、交通事故の責任はすべて使用する側とされる。しかし、自動運転車ではそうはゆかない。適正速度を設定するのはメーカーだから、自己の責任もメーカーが取らなければならない。そうすると、メーカーは、できるだけ安全側をとって、自動運転の速度を低く設定するだろう。

自動運転車が実用化されれば、公道は普通の自動車と混在する。遅い自動運転車の後ろについた普通の車の運転手はイライラして追い越したくなるだろう。中には無理に追い越そうとするする者も必ず現れる。自動運転車の数が増えると、そんな場面が至る所に生じ、道路は現在よりはるかに危険になる。これでは、自動運転の意味がない。

自動運転を普及させたい側は、そういった危険を避けるため、従来車の制限速度を自動運転車なみに下げざるを得ない。だが、もしそれが理にかなっているのなら、自動運転車のない現在でも、制限速度を下げることが更に理にかなっている。前述したように、もともと現在の制限速度は高すぎる。歩行者や自転車と共用する道路や生活道路では、自動運転車と同じように「瞬間に止まれる速度」つまり高くても15kmh以下程度まで抑えるべきではないかと思う。「気をつけよ、クルマは急には止まれない」は、人間より自動車優先のもってのほかの標語だ。現在の高い制限速度は、歩行者や自転車の安全・安心より自動車を優先させる、言い換えれば高価な商品である自動車に乗った人間の便利を優先させる方策なのである。

自動車の制限速度をそこまで下げれば、もっと小型化、簡素化した自動車でよく、自動運転車より安全で、省人化目的以外には自動運転車は要らない。資源や環境の負担軽減にも良い。

自動運転車が公道を走り始めると、必ず手動運転車との混在の問題が大きくなるだろう。速度を落として自動車の流れを悪くしたくない立場からは、自動運転車に反対する声も上がるだろう。公道で混乱が生じ、結局は自動運転車の導入を諦めることになるかも知れない。■
2018年1月9日
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  1. 2018/01/09(火) 14:04:59|
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全国学力テストに宇宙エレベーターがでた

宇宙エレベータ1

4月19日に全国一斉に実施された学力テストの中学国語Bの問題に、「科学と未来」という雑誌(平成28年5月号)の記事が使われた。記事は「もう夢ではない! エレベーターで宇宙へ」という表題で、宇宙エレベーターについて中学生でもわかるようにやさしく説明している。国語のテストだから、問題は「文章は何について書いているか」といった類のもので、物理的な内容ではないが、この記事が題材に選ばれたのは、内容に間違いはないと信じたからだろう。しかし、宇宙エレベーターなど、ちょっと力学的に考えれば荒唐無稽である。

宇宙エレベーターの原理について、社団法人宇宙エレベーター協会のホームページに説明がある。要約すると、次のようになる。《 》内は、ホームページで使われている言葉である。
:http://www.jsea.jp/about-se/How-to-know-SE.html
**(宇宙エレベーター協会の説明より)***********
・静止衛星から地上に向けて《ケーブルを垂らす》。
・静止衛星がケーブルの重力で落ちてしまわないように、バランスを取るために上側にも《ケーブルを伸ばす》
・下向きのケーブルを更に伸ばす。バランスを取るため上側にも伸ばす。これを繰り返すとケーブルは地上に到達し、地上と宇宙を結ぶ一本の長大な紐になる。
・このケーブルに昇降機を取り付けて人や物資を運べるようにしたのが宇宙エレベーターである。昇降機もバランスをとるために上行きと下行きを取り付ける。
・以上は図を参照。
*****************************

この原理には次のような問題があり、実現は不可能だろう:

1. 静止衛星からケーブルを垂らすとあるが、重力では垂れない(衛星の軌道上では遠心力と重力が釣り合っている)。したがって、ロケットか何かで下向きにケーブルを発射してやらなければならない。同様に、上側にもケーブルを発射しなければならない。長いケーブルをどうやって発射するのか? 捕鯨船のモリは紐状のものを発射するが、とてつもない長いケーブルである。

2. 高度一定の衛星は、接線方向(地表と平行)の速度を持っている。この速度は地球中心からの距離に比例する(v = rω ここに、vは速度、rは地球中心からの距離、ωは公転角速度)。したがって、ケーブルの高度が異なる各点の速度を高度に比例して調整してやらなければならない。それが出来ないと、ケーブルは垂直にならず、大きくなびいてしまう。衛星から下側のケーブルは地球の自転方向に大きくふれ、衛星から上側のケーブルはその反対がに大きくふれる。この速度調整をどうやって行うのか?

3. 仮に長大なケーブルが垂直になり、それに昇降機をつけたとする。図では、バランスのために衛星の上側と下側に昇降機がついている。しかし、この昇降機の上げ下げはどうやって行うのか。 衛星の位置では重力と遠心力が同じだから昇降機を下げるにも上げるにもロケットのようなもので発射しなければならない。地上にある普通のエレベーターのように、ケーブルを巻き上げるというわけには行かない。

4.仮に昇降機を上下に動かすことができても、高度に応じて接線方向の速度を調節しなければならない。衛星の上側も下側も同様である。これを行わないと、昇降機は垂直から大きく外れてしまい、目標地点には届かない。これをどうするのか。

5.昇降機は衛星の地点では遠心力と重力が等しい。地球中心からの距離がrの地点では
遠心力 Fc = mrω2
重力 Fg = GMm/r2
となる。ただし、Gは万有引力定数、Mは地球の質量、mは昇降機の質量、ωは角速度(地球自転の角速度で24時間で360度)である。したがって、遠心力は高度に比例して下がり、重力は高度の二乗に反比例して上昇する。衛星から半分まで下がったところでは、遠心力は半分に、重力は4倍になるから、重力が遠心力より8倍も大きい。昇降機がずるずると落ちて行かずに一定の速度で下りるためには非常に複雑な力と速度の制御が必要だが、これをどうするのか。衛星より上側に行く昇降機についても同様である。

何万kmものケーブルをどうやって打ち上げるのかという問題は別にしても、宇宙エレベーターは、地上のエレベーターとは全く違う。地上ではケーブルに取り付けた昇降機は垂直線に沿って上下する。地球の半径に比べてケーブルの長さは無視できるほど短いから、同じ垂直線上にある接線方向(地表に平行)の速度成分の変化も無視できるのである。しかし、宇宙エレベーターではこれが大きな問題になる。仮に月が常に同じ天の位置にあるとしよう。静止衛星からケーブルを垂らすという着想は、月に置いたケーブルが、発射装置を使わなくても自然に地球に向かって一直線に伸びてくると考えているのと同じである。ケーブルが垂直にならないのは、ロケットの発射を考えてみてもすぐわかる筈だ。地球から天空に静止していると仮定した月にロケットを発射しても、ロケットは地球から月まで一直線で進むことはできない。これを一直線にしようと思ったら、道々、非常に複雑なロケットの制御が必要になる。

長さ何万kmものたわみやすい紐を、あたかも剛体のように一直線を保って宇宙空間に保持する。しかも、その直線の方向は地表に対して垂直、公転方向には直角の方向であり、地表に達している部分は、地表の定点から動いてはならない。こんなことはとても不可能である。
宇宙エレベーターは高校生の物理も理解できていない人間の荒唐無稽な考えに過ぎない。こんな馬鹿げた構想を全国テストの国語の題材に取り上げる方もどうかしている。理科のテストの題材にして、問題点や感想を書かせるなら別だが。■
2016年4月21日
  1. 2016/04/21(木) 16:41:01|
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ノーベル賞に思う

ノーベル賞関係のニュースが連日新聞やテレビを賑わせている。だが、それはただ、日本人がノーベル賞を受賞した、近年日本人受賞者が多い、という程度のことで、ラグビーの世界戦で日本チームが強豪外国に勝ったとか、オリンピックで日本がいくつ金メダルを取った、と同じように、幼稚な愛国心をくすぐったり、授賞式に出た受賞者の行動を追うなどのタレント的興味を満足させるだけの記事に過ぎない。

スーパーカミオンデや欧州のCERNのように、莫大な税金を使った巨大な施設で行われた研究がノーベル賞に値するとは思えない。巨大施設を使えば、ずば抜けた創造力や着想がなくても、いずれは新しいことが見つかるだろう。私は、高価な設備にも大組織にも頼らず、誰でも可能な外的条件の中で、個人の独創的な着想によって得られた大発見や大発明だけがノーベル賞に値すると思う。

ノーベルの遺志は、人類平和への貢献に対する授賞である。しかし、報道機関にも、最近のノーベル賞受賞者達にも、そんな崇高な理念や品格が全く感じられない。受賞者たちが考える社会貢献は、せいぜい、技術製品となって実用化され、経済成長に寄与することで、その技術が人類の平和やよりよい社会のためにどのように貢献するか、などは関心がないように見える。

先日、日本のノーベル賞受賞者5人(野依良治、利根川進、田中耕一、赤崎勇、天野浩の各氏)が安倍首相に、国際競争に有利にするために科学技術予算を増やす必要があるという提言書を渡したそうである(日経新聞12月9日)。ノーベル賞に値する真の科学者なら、そんなことより、科学が人類の平和と進歩にどのように関わっているかを考え直し、現在の科学技術が戦争や金儲けの手段になり下がっていること、技術が環境破壊を促進していること、技術開発競争は結局は経済競争であり、限られた地球資源の奪い合いから戦争に至る可能性が非常に大きい事、何もかも技術で解決しようとすることがより大きな問題であること、などに国民や政府の注意を促すことの方が余程重要である。

また、科学技術という自分の専門分野に捉われず、日本は格差の拡大、貧困世帯の増大、労働条件の悪化、教育予算の削減など、科学技術より優先すべき大きな問題が山積みしていることに思いを馳せ、その解消のための提言をするべきである。

ノーベル賞受賞者と言えば非常に知名度が高く、多くの人々が一目置き、発言を尊重する。その知名度を、ただの商業のための科学技術研究ではなく、人類の平和と平等を訴えるために利用する、これこそノーベル賞受賞者に負わされた役目ではないだろうか。昔は湯川さん、朝永さんをはじめ、そういう人達が多かった。最近のノーベル賞受賞者の中で、このような社会的発言をした人が幾人いただろうか。

現在は、科学も技術も人間から独立したもので、専門家が研究すべきものだ、という考えが支配し、ノーベル賞受賞者ですらそう思っているようだ。それがそもそもの間違いである。科学も技術も、それが人間や社会の質とどう関わるかを抜きにして語る事はできない。人間から切り離された科学も技術も、結局は人間に被害を与えずにおかないことを科学者、技術者は自覚しなければいけない。技術兵器による効率的殺戮も、環境破壊も、技術製品の普及による人間疎外や事故も、すべて技術が一人歩きしたために生じたことである。自分の専門分野だけに捉われ、自分の専門分野が発達すれはそれでよい、というのでは、尊敬に値する真の科学者でも真の技術者でもない。

最近のノーベル賞受賞者の中では、2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんは尊敬に値する。京都新聞が12月8、9日の二日にわたって書いているが、益川さんは、科学者は社会活動して一人前と言っている。原発や原子力潜水艦の日本入港、特定秘密法案や戦争法案にも積極的に反対を表明している。商業主義に流される研究は軍事研究に利用されやすいと、最近の科学や技術のあり方を危惧している。■
2015年12月11日
  1. 2015/12/11(金) 14:29:19|
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STAP細胞問題の論点は何か

小保方さんだけに不正があったという先週の理研の調査報告に対し、昨日、小保方さんが記者会見し、論文にミスがあったのは認めるが、STAP細胞が得られたのは事実だから不正はないと主張した。その主な理由は:
・自分は200回もその実験に成功した。
・自分はSTAP細胞の写真は何百枚も持っている。
・第三者にも実験に成功した人がいる。
・理研には自分が造りだしたSTAP細胞が保存されている。

しかし、奇妙なことに、実験に成功したという第三者の名前は明かさず、写真の公開もせず、理研に保存してあるというSTAP細胞を調査のために提出する、とも言わなかった。これでは小保方さんの正しさを証明したことにならず、ますます疑いを深めるだけで、何のための記者会見なのか、全く意味がない。

STAPとは Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency cell (組織細胞に刺激を与えることによって造られた多能性細胞)の意味である。多能性細胞自身は自然にいくらでもあり、IPS細胞も組織細胞から人工的に造られた幹細胞である。したがって、今回の問題の核心は、「小保方チームの方法(酸性溶液で刺激を与える)でSTA細胞が作れるか」である。今までいかなる方法でもSTAP細胞を作製できなかったから、小保方法で作れることを証明すれば、それがSTAP細胞の存在を証明することになるが、今回の問題はあくまでも小保方法が焦点だから、別の方法でSTAP細胞の存在を実証することを議論しても、全く意味がない。

したがって、小保方さんの主張すべきは、STAP細胞の存在それ自体ではなく、「小保方法の再現性」である。再現性を実証することによって初めて新たな科学知識になるのであって、ただ存在を信じたり主張したりするだけでは科学ではない。小保方法の正しさを証明するためには、
・自分が成功した実験の写真を、確かに小保方法で得られたものという証拠と共に示す;
・実験方法を第三者が再現できるように詳しく開示する;
・自分自身が第三者の眼前で再現実験をして見せる。
必要がある。

実験にはコツがあると小保方さんは述べていた。自分しかできないコツでも、自分自身で何回も再現実験して見せれば、STAP細胞の存在の証明になる。魔法でない限り、他の人もいずれはそのコツを身に着けて再現できるからである。もし、小保方さん以外の人にはいくら努力しても習得できないコツならば、どこかに必ずトリックがあり、その方法は科学的方法と認めることができず、従ってSTAP細胞の存在の証明にはならない。

科学とは知識を共有するだということが、小保方さんにはわかっていないように思える。

最後に、週刊誌的な憶測を一つ。
その道では世界的に名を知られているらしい共著者には不正はなく、不正は小保方さん一人である、という理研の結論だが、ほんとうにそうだろうか。この論文がもし正しければ、ノーベル賞級と騒がれている。そんなにすごい論文なら、研究者として格上の共著者達はもっと真剣になっていた筈である。特に、共著者の一人は山中教授と争い、追い越されてしまったそうだ。そんな熟練した研究者達なら、駆け出し研究者の小保方さんだけに任せず、もっと自ら研究の中心部に関与し、論文も自分が主著者になろうとし、さもなければ論文を隅から隅まで入念にチェックしたのではないかと思う。そうでなければ、ノーベル賞は小保方さん一人に持っていかれ、自分は共同受賞者に選ばれないかもしれない。ただ共著者として名を連ねるだけでずさんな論文をろくにチェックもしなかったのは、小保方さんの研究にもともとそれほど信頼性をおいておらず、ノーベル賞にはとても値しないと考え、あるいは不正や改竄に手を貸したか、あるいは不正や改竄を知りつつも見逃していたのではないだろうか。
2014年4月10日

  1. 2014/04/10(木) 13:14:38|
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STAP細胞問題の共著者と理研の責任について

昨日、この問題を調査した理研が記者会見を行い、研究リーダーであり論文の主著者である小保方氏には捏造、改竄の不正があり、二名の共著者(笹山氏、若山氏)には不正はなかったが重大な責任があると発表した。この報告に対しては、小保方氏の反論もあるようだし、理研という大組織が不正の罪を若い小保方氏一人に被せようとしているのではないかという見方もあり、今後も議論が続きそうだが、いずれにしろ、理研や共著者の責任が大きいという点では、マスコミも世論も理研も一致しているようだ。若い主著者と違って経験も知名度もある共著者、および国の予算を使う大組織である理研を批判したくなるのは人情だが、私は、共著者や理研の責任を強く追及することには危険を感じる。

研究も研究発表も、チームで行うこともあるが、普通は個人で行うことが原則である。研究で最も重要なことは研究者の自由である。研究者の自由がなければ独創も新発見も生まれない。学問の自由は大学が命を懸けてまで守るべきことである。もちろん、事故を防ぎ、倫理を守るための規則や管理は必要だし、税金を使う研究所では、研究課題や予算について研究所としての承認も必要だが、一般的には、研究課題の選択にも、研究方法にも、研究成果の論文発表にも、研究者の自由が最大限に尊重されなければならない。研究者もそれを望み、そのような自由があるところが本当によい大学や研究所と言えるだろう。このことは逆に、すべての責任は研究者自身にあるということであり、研究者もまたそれを自覚しなければならないことは言うまでもない。

したがって、今回の騒動で理研の管理責任を強く追及することは、理研が各研究者の研究内部や発表論文の書き方まで立ち入るべきだというのと同じで、最も重要な研究者の自由を軽視することになる。大学教授の研究に大学当局が細かく立ち入ってあれこれ管理監督すべきないのと同じことだ。私は、今回の記者会見において、ノーベル賞受賞者である理研の理事長には、堂々と「理研は各研究者の良心を信じ、各研究者の自由を尊重し、各研究者の自由を守る立場にあるから、もし発表論文に問題が生じた場合も、責任は理研ではなく研究者にあるのが原則である」と述べて欲しかった。今回の騒動を通じて、世論が研究者の所属組織の責任を追及すれば、今後、他の研究所も大学も研究者への干渉を強めることになるのではないかと懸念する。その方が損失は大きい。

共著者にも、研究課題の選択および研究方法の決定、研究の実施まで共同で行った正真正銘の共同研究者から、研究の内容にはほとんど関与しなかったが上司というだけで名を連ねた人まで、様々ある。しかし、正真正銘の共同研究者と雖も、研究のすべてに責任があるとは言えない。共同と言っても実際には分担であり、分担とは、それぞれが自分の分担を自分の責任で自由に行い、他人の分担にはそれぞれの担当者の良心と能力を信じて、なるべく干渉しないのが原則だからである。したがって、責任を持つのはあくまでも自分の分担部分であって、他人の分担に責任を持つことはできない。

論文も、実際に文章を書くのは一人である。章に分けて分担執筆しても、分担部分は一人で書く。どのように論文を作り、どのように文章を書くかが分担者の自由に任されるのなら、論文の体裁上の責任はすべて分担した執筆者にある。もし、共著者が論文のすべてに共同責任があるのなら、すべての共著者が論文を丁寧に読み、検討し、気に入らない箇所は執筆者に修正させなければならない。しかし、そんなことは事実上不可能だし、必要でもない。他人の分担は他人の自由にし、自分はなるべく干渉しない方がうまく行くだろう。もちろん、研究の実施においても、論文の執筆においても、他の分担者が幼稚な誤りや不正を犯せば共同執筆者としては汚点になり、発表前に良くチェックしなかったことを悔やむことになるだろう。しかし、それでも、共同研究者、共著者として分担分に不正も過誤もなければ、責任を追及すべきではない。共同研究も共同執筆も、互いの良心と能力を信じて行うという習慣が大切であって、それを崩したら、良い研究など生まれなくなるだろう。

したがって、小保方論文に不正があったとすれば、共著者や理研については、不正に加担したかどうかが最も重要な点で、主著者の不正を見抜けなかった責任を追及することではない。理研の記者発表では、不正は小保方さん一人であると結論しているが、今後マスコミが追求すべきことは、本当に不正に全く関与していなかったのか、不正を全く知らなかったのかということである。ただし、先回の記事「3月17日 小保方さん問題は競争社会の問題」に書いたように、それ以上に追求すべきは、科学者、特に若い科学者をしてこのような不正やずさんな論文提出に至らしめた学問の世界の競争主義、成果主義である。そして、そのような競争主義、成果主義が理研でどのように行われているか、若い任期制の研究者に成果主義を押し付けている一方で、常勤の職員が楽をしているようなことはないか、更には、特定国立研究開発法人の指定を巡って、金に群がる構造がないかどうかを追求して欲しいものだ。
2014年4月2日


  1. 2014/04/02(水) 12:29:11|
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