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縮小の時代

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電力で化石燃料の代替はできない

再生可能エネルギー発電への期待と現状
地球温暖化が人為的かどうかに関わらず、減少して行く化石燃料資源の代替エネルギー源を如何に確保するかは、どの国も重要課題にしている。原子力は論外とすれば、再生可能エネルギー[*]に期待する人が多い。しかし、水力発電は立地や環境破壊の問題からあまり増やせず、バイオマス利用やゴミ発電は資源が非常に少ない。急速成長植物(藻類など)の研究もあるが、これには高濃度のCO2が必要で、大気CO2の濃縮ではエネルギー収支が悪いだろうし、化石燃料の燃焼排気に頼るのでは意味がない。急速成長させるには、高濃度CO2でなくても、多量のエネルギーを要する何かの人工的な特殊条件が必要だろう。 もし自然条件で急速成長する植物が存在したら、既に地球上に大繁殖しているはずだ。
[*物理学的にはエネルギーは再生不可能である。ここでは、再生可能とは人間の時間的規模から見ての非枯渇性を意味する。]

結局、現在は、太陽光発電、風力発電、地熱発電に注目する人が多い。潮力発電や波力発電に期待する人もいる。しかしいずれもなかなか普及しない。世界には、太陽光発電や風力発電が総発電量の10-20% になった国もあるが、それは市場原理に逆らった政府援助で無理に達成したもので、電力以外も含めた総エネルギー消費に対しては、ほんの数%に過ぎない。

普及の障害は費用が高い(主として設備価格)とされているようだ。太陽光発電や風力発電は普及率が高まれば発電の不安定性が大問題になり、技術的に対策できても結局は費用に跳ね返ってくるはずだが、現在は、不安定問題は軽視され、一定の需要に達すれば費用が大幅に低下して更なる普及に弾みがつくとの単純な想定で、自主的導入の促進や政府による費用援助が主な方策になっている。

しかし、普及が遅いのは、量産規模が小さいための高価格よりも、もっと重要な理由がある筈だ。第一に、需要が増えれば必ず安くなるとは限らない。情報機器の近年の著しい価格低下は、普及による規模の効果ではなく、その逆に、安価に生産する技術革新が生まれたから急速に普及したと考えられる。これに対して、太陽光発電も風力発電もずっと以前から実用化されており、技術的にはほぼ成熟している。その上情報機器と違って一定の大きを必要とし、しかも金属部分が多いから、今後革新的な技術が現れてコストが飛躍的に下がる可能性はほとんどない。自動車は普及によって安くなったが、所得上昇よる相対的な部分が多く、絶対価格は下がっていない。経済成長時代でなくなる今後は、所得上昇はもはや見込めないだろう。

第二に、費用が従来方式より高くなるのは、化石燃料の消費が多くなった可能性が高い。商品は生産されて初めて価格がつくから、価格は含まれている生産行為の量と無関係ではない。生産とはエネルギーを使って物質を加工する(何らかの物理・化学的変化を与える)ことだから、生産行為の量は、生産に使われたエネルギー量に関係する。生産過程には、商品本体の生産の他に、生産手段(原材料、設備、道具建物、運搬手段、労働力その他)の生産、生産手段の生産手段の生産…(この連鎖が限りなく続く)のすべてを含む。人件費も労働力の生産費であり、これには労働者が生活に使うエネルギーや、食糧、家財道具、日用品の生産エネルギーの費用が含まれる。したがって、商品が高価格であることは、生産に多くのエネルギーを使ったことと必ず関係がある。一般に大型・複雑・生産に手間がかかる商品は高価であることが、それを端的に証明している。このことから、太陽光発電の生涯費用が火力発電より高いのは、火力発電より多くの化石燃料を消費している可能性が大きい[*]。化石燃料の消費を減らすエコ技術と信じられている太陽光発電が本当にエコかどうかは非常に疑わしいのである。
[*低価格でも、物価が安い外国からの輸入品は必ずしも生産エネルギーが少ないとは言えない。しかし、価格が高い物は一般的に生産エネルギーが多いと言えるだろう。]

第三に、そもそも電力は化石燃料の代替にはならない。確かに、蒸気機関車が電車になり、炊事も薪炭やガスから電気釜、電子レンジ、電磁コンロへと変って便利になった。工場の動力も蒸気機関や内燃機関から電動モーターに変り、精密制御が可能になると共に生産性が向上した。自動車も今後は電気が主流になると考える人も多い。これを見れば、木質バイオマスも化石燃料もみな電力で代替可能であり、電力化は文明の高度化、化石燃料時代の次は電力時代だと思うのも無理はない。しかし、これだけ電化が進んだ現在の日本でも、最終エネルギー消費に占める電力の割合は23.3%(2013年)に過ぎず、その3倍以上が交通燃料、暖房、炊事、工場の熱源など、熱エネルギーとして使われている。電力もまた一部は電熱のために使われている。電力の半分以上は化石燃料による火力発電であり、国内に供給された化石燃料のエネルギーは、国内で消費された電力エネルギーの5.8倍にもなる(2013年)。

基盤エネルギー
社会の形(社会の制度や人々の生活状況)を決める最大の要素は食糧や財物の生産様式(輸送も含む)である。生産とはエネルギーを使うことだから、使われているエネルギー源の特徴が生産様式、従って社会の形を決める。狩猟採取時代、農耕社会、手工業社会、現在の社会が異なる最も大きな理由は、使われたエネルギー源の相違である。

人間が使うエネルギー源の種類は様々だが、その中には基盤となるエネルギー源がある。ここで、基盤エネルギー源とは社会の形を決めている最も重要なエネルギー源で、歴史的には人畜力→木材(バイオマス)→化石燃料と変化して来た。化石燃料は人畜力や木材と比べてエネルギー密度が極めて高く、しかも豊富に存在して採取も容易だった。この化石燃料の特徴こそが多種多様な金属の大量使用を可能にし、それが技術と経済の飛躍的な拡大をもたらし、それまでの社会とは全く異なる大量消費社会を造りだした。化石燃料がなければ、現在の様な技術製品に溢れた社会は成り立たない。

基盤エネルギーは、次の条件を全て備えている:
①社会的に最も多く使われているエネルギー源であること;
②天然に存在する(一次エネルギー源)であること;
③取扱いが容易で簡単に利用できること;
④種々なエネルギーの形態(電力や各種燃料)に転換できること;
⑤自立的(他のエネルギー源なしでそのエネルギー源を獲得できる)であること;
⑥燃やして高温を発する火力エネルギー源であること。

上の条件を満たすエネルギー源は、人畜力を除けばバイオマスと化石燃料だけである。したがって、化石燃料時代の次はバイオマス時代に戻るしかない。ただし、バイオマスの年間生産量は極めて少ない。現在の日本の一次エネルギー国内供給量は、バイオマスは化石燃料の僅か1.9%に過ぎず、これをいくら増やしても、せいぜい数倍どまりだろう。江戸時代は、人口が今の1/4程度しかなかった上に、森林面積は今より多かった筈だが、それでも木材の過剰伐採を防ぐために厳しい管理をしていた。森林はエネルギー源だけでなく、河川と近海の漁場や田畑の栄養を保つためにも必要なのである。現在より桁違いにエネルギー消費の少なかった古代でさえ、燃料木材の過剰伐採で滅びた国があった。バイオマスの時代には、現在の様な大量消費は不可能で、金属を使った技術製品は非常に高価だから、発電装置も電気製品も希少で、電力の需要は小さくなる。

電力は資源でない
いま、原子力、水力、太陽光、風力、地熱など火力以外の再生可能エネルギーから発電した電力を「非火力電力」と呼んでおく。現在のエネルギー統計は、この非火力電力を供給一次エネルギーとして化石燃料と同列に扱っている。一次エネルギーとは天然のエネルギー媒体を言う。しかし、ウラン、水力、太陽輻射、風力、地熱は確かに一次エネルギー源でも、それを電力に変換したら二次エネルギーである。電力は、複雑で高度な工程を経て加工された工業製品であり、資源というより消費財のようなものだから、社会の基盤エネルギーにも化石燃料の代替にもなり得ない。

電力は資源と見なす必要もない。現在のエネルギー統計で供給一次エネルギーとされている電力は、河川の水力や太陽光や風力エネルギー(非火力再生可能エネルギー)の電力転換量である。一方で、農業、帆船、天日乾燥など、産業や家庭で利用した太陽エネルギーや風力エネルギーは統計に入れない。人間にとって、農業で利用する太陽エネルギーは工業で使う化石燃料よりも遥かに重要であるにもかかわらず統計に入れないのは、無料で使えて後に何の負担も残さず、資源と見なす必要がないからである。電力に変えた場合に限って資源と見なすのは、発電が経済行為であるという理由からだろうか。それなら、栽培のために温室を作るという経済行為によってより多く取り入れた太陽エネルギーも供給エネルギーに加えなければつじつまが合わない。結局、エネルギー統計の一次供給エネルギーとは何を意味するのか、物理的意味がどこかへ飛んでしまい、恣意的なものになっている。したがって、電力消費量(または供給量)は、如何に多くても、生活水準や経済の指標としては意味があっても、社会と実体的資源との関係を考える上では意味がないのである。

非火力一次エネルギー源からの発電では、発電時の入力エネルギー(水力、太陽光、風力など)に対する効率が問題にされるが、それよりは、発電装置の生産に投入されたエネルギーに対する生涯発電量の比(エネルギー収支)の方が重要である。現在は投入エネルギーのほとんどが化石燃料だから、このエネルギー収支は投入化石燃料に対する発電効率ど同じ意味で、火力発電の発電効率と比較できる[*]。エネルギー収支が1以上なら発電効率は100%以上でエネルギーの増幅となり、水力発電はそれに当るが、太陽光発電の場合は100%以下である可能性が高い。
[*火力発電の発電効率には、通常、発電設備の生産エネルギーは考慮されない。正確にはそれも含めるべきだが、実際には発電機の燃料消費に比べて少なく、効率への影響は少ないだろう。]

超電力社会は不可能
電力社会の現在の日本でも、電力消費は化石燃料供給量の17%(5.8分の1)に過ぎないと前に述べた。では今後、社会全体として供給火力エネルギー(化石燃料またはバイオマス)以上の電力が使われる超電力社会になり得るだろうか。超電力社会では、家庭の暖房、炊事、給湯はもとより、工場のボイラーも交通機関も、金属資源の採掘や精錬も、ほとんど電力になる。

化石燃料がまだ比較的豊富な間は、現在と同じように、熱需要に対しては電力より化石燃料を直接燃やした方が効率がよく経費も安い。残存資源の減少またはエネルギー収支の悪化によって化石燃料の価格が上がってゆくと、金属製品が貴重になるから発電設備や電力機器の価格も電気料金も化石燃料以上に上昇し、熱源には化石燃料を使う方が増々有利になる。こうして、基盤エネルギー源である火力エネルギー源の供給が減れば減るほど、それ以上に電力需要は減少し、超電力社会からは却って遠ざかるだろう。化石燃料の供給がバイオマス以下になると、もはや基盤エネルギー供給は非常に僅かであって、電力利用は非常に高価になって、照明などどうしても必要な場合以外は利用が限られてくる。結局、将来基盤エネルギーである火力エネルギー以上に電力が使われる超電力社会になることはないだろう。工業製品である電力が天然資源である化石燃料の全面的な代替になると考えるのは、自然食品がなくなったら缶詰で代替すると考えるようなものだ。

超電力社会は、発電設備の生産にも化石燃料以上の電力が使われることだが、発電量/投入電力のエネルギー収支は1では不足で、その数倍なければ意味がない。これは、電力による電力の拡大再生産である。電力は高密度、高品質という非常にエントロピーの小さい高級な人工エネルギーだから、その拡大再生産は化石燃料の拡大再生産に比べてエネルギー収支が劣り、経済的に不利であるのは当然と言える。

まとめ
・エネルギー資源の問題は社会の基盤となるエネルギーの問題である。基盤エネルギーは化石燃料かバイオマスしかない。
・電力はエネルギー資源でなく、基盤エネルギーでもないから、発電量の増加がエネルギー資源問題の緩和にはならない。
・再生可能エネルギーからの発電が化石燃料の代替になるという考えは非現実的で、なかなか普及しないのは当然である。
・太陽光発電や風力発電の推進のための政府援助は市場原理を歪め、現実を隠す愚行である。
・何でも電力という超電力社会は、金属を多用する技術製品に溢れた社会である。これは大量消費社会でなければ実現しない。大量消費社会は化石燃料の特徴が初めて可能にした社会で、化石燃料の供給が減れば技術社会からも大量消費社会からも、電力社会からも遠ざかる。
・化石燃料の代替エネルギーを模索してもエネルギー資源問題の緩和にならず、却って悪化させる。エネルギー資源問題の緩和には、エネルギー消費、特に化石燃料消費を持続可能な範囲まで削減するしかない。■

2015年8月11日
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  1. 2015/08/10(月) 22:25:54|
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LEDは環境負荷を増加させる

青色LEDの開発に貢献した日本人3人が今年(2014年)のノーベル物理学賞を受賞したことで、マスコミは受賞者とLEDへの礼賛一色であり、街でもLEDが盛んに使われるようになった。LEDの特徴は電力消費が少ない、すなわち環境負荷が小さいことである。例えば、白熱灯60W相当の明るさが、ボール型蛍光灯では13Wに対し、LEDは7.2W程度である。寿命もメーカーの広告によると白熱灯が2000時間、蛍光灯が6000時間に対し、LEDは40000時間だから、LEDは環境負荷が少ない。

確かに、この数値を見ると、LEDは環境に良いように見える。だが本当だろうか? 数値に嘘はないとしても、効率向上が総消費量の削減どころか、むしろ総消費量を増加させる最も大きな理由になっているのは、歴史が証明しているところである。自動車のエンジンも、テレビ・冷蔵庫その他の家電製品も、一昔前と比べると、どれも非常に効率が上昇している。しかし、自動車が消費する石油の量も、家庭の電力消費量も、減少どころか、却って増加し続けている。これは、これを最初に言い出したイギリスの経済学者ジェボンス(1835-1882)の名をとってジェボンス効果とも、ブーメラン効果とも、またはリバウンド効果とも呼ばれている。効率向上が総消費量を増加させる理由は:
①時間当り(又は距離当り)のエネルギー費が安くなり、長時間・長距離の使用をする;
②製品が安価になり、普及率が高まる;
③製品が大型化、高性能化、高機能化する;
などである。企業は、利益を減少させるようなことを絶対にしない。技術開発に力を入れるのは、それによって自己の製品を高級化して付加価値を高め、増々大量に売り、大量に使わせるためであって、それらはみなエネルギーや資源の総消費量を増加させる。

効率向上のリバウンド効果は、その製品だけでなく、社会全体に波及する。例えば、自動車エンジンの効率向上は自動車を大型化させただけでなく、自動車の普及と運転距離を増加させ、社会全体を自動車依存体制にした。それが自動車関連の様々な消費を促した。日常の買い物も自動車で遠いスーパーまで行き、一度に大量の食糧品を買うようになり、大きな冷蔵庫が必要となる。こうしてガソリンだけでなく電力消費も増やしているのである。

冷蔵庫もテレビも効率向上以上の大型化によって、電力消費は却って増えている。家庭で生鮮食料の貯えが増えると、生産や流通の過程でも冷凍・冷蔵が必要になり、電力需要を増やす。テレビの大型化はますます人々をテレビに引き付け、テレビ広告を通じて人々の消費意欲を掻き立てている。照明も同じである。電灯の効率が良くなると、より明るくするだけでなく、照明する場所も夜間の営業時間も増える。最近はLEDのお蔭で大きな建造物や並木や庭園や公園まで、夜間の電飾がやたらに増えた。多くの人が、それを見てきれいだと喜んでいる(ようにマスコミは伝えている)。LEDの豆球一つ一つの消費電力は僅かでも、何千何万もの豆球を使って新たに照明を始めれば、膨大な電力消費の追加になる。LEDで明るい場所が増え、電飾が美しいからいって夜間の外出が増えれば、ガソリンの消費も増え、店が賑わって電力消費も増える。エネルギー消費の促進効果は計り知れない。

効率向上がエネルギー消費を削減すると思うのは、技術を一つ一つ単独でしか考えないからである。どの技術も単独で存在しているのではない。社会の技術全体が経済の全体、したがって環境負担の全体に関わり合っているのである。ある一つの製品の効率向上が、社会全体の技術を変化させ、社会全体の技術水準が一つ一つの製品の効率を向上させる。それはまた生産性の向上にもなり、より多くの製品がより易く手に入り、社会全体の経済規模を大きくして、資源とエネルギーの消費を増加させる。科学や技術に携わる人間は、常にこのような視点でものを考える習慣をつけなければならない。

夜間照明をきれいだと喜ぶのは人間の身勝手で、生物にとっては決して良い事ではない。植物も鳥も地面の小さな生物たちも、夜は暗くなくては困るのである。生物はもともと昼は明るく、夜は暗いという環境に合わせて進化し、生きている。夜の照明は、植物や地中の生物や昆虫などは決して喜ばず、生態系に必ず悪い影響を与えている筈だ。夜が暗いのは大切なことであって、最小限の必要以上の照明は人間にとっても良い事ではない。あちこちで盛んになった電飾は、結局は金を集めるための商業主義が現れたものに過ぎない。電飾はやはりエネルギーの無駄遣いである。このように考えると、本来の自然に反するLEDの人工的な照明は、美しいどころか、却って醜くさえ感ずる。LEDの開発者も人類への貢献ではなく、社会の滅亡を促進しただけかも知れない。

LEDのリバウンド効果だけでなく、LEDの製品自身がどれだけ省電力になるかも疑ってかかる必要がある。一般に経費(初期費用+維持・使用の費用)とエネルギー消費に相関があるように、照明の経費も総エネルギー消費と無関係ではない。東芝製、白熱灯60W相当の電球の実勢価格の一例は、
・白熱灯:長寿命型LW100V54WLL-CV、54W、寿命2000時間、価格200円
・蛍光灯:電球型 ネオボールEFA13EL-E-U、13W、寿命6000時間、価格470円
・LED:一般電球型LDA7N、7.2W、寿命40000時間、2000円
である。電気料金を1kWh当り24円、1日6時間で10年間(21900時間)使うとすると、合計費用は
・白熱灯:電球10個分2000円+電気料28380円=30380円
・蛍光灯:電球3個分1410円+電気料6830=8240円
・LED:電球1個分2000円+電気料3780円=5780円
となり、確かにLEDが一番安い。

しかし、卓上灯も天井灯もLEDの照明器具は電球の取換えができず、照明器具とも交換が必要である。また、電球の寿命は40000時間となっているが、実際にそれだけもつかどうかは不明である。10年程度で交換した方がよいと説明しているものもある。私が寝台での読書用に購入した有名会社のLED卓上灯は、豆球72個を並べたものだったが、2年も経たないうちに半分がつかなくなってしまい、廃棄する羽目になった。合計時間は500時間にも満たない位である。それ以前に使っていた蛍光灯は10年以上も無交換でよかった。

このように、LEDは消費電力が少ないというだけでは、総エネルギー消費を減らすどころか、却って増やすことになりかねないし、その方がむしろ確実性が高い。その上、本来は暗くてしかるべき夜の不必要な照明を増やし、生物にも悪影響を与える。効率向上がエネルギー消費を削減させるという安易な考えは捨て去るべきである。むしろ、効率向上はエネルギー消費を増加させるのが事実である。したがって、エネルギー消費の削減は、効率向上では逆効果で、エネルギー価格を意図的に高めるか、あるいはエネルギー消費の総量規制を行うなどして、強制的に行うしかない。

効率向上は、厳しく上限が限られたエネルギー事情の中で初めてその社会的意味が生じるのだが、それでも、人間にとっての利便性が自然環境の持続可能性にとって悪影響を及ぼさないかどうかには、常に注意する必要がある。人間の利便のためなら技術はなるべく活用すべきだ、というのは、技術に囚われた一つの価値観に過ぎず、それが本当に人間にとって良い事かどうかとは別である。それよりも、これからは、便利の追求はほどほどにして、なるべく技術を使わない、という考え方の方が重要になるだろうと思う。

生物には夜が必要であり、夜は暗いからこそ夜なのだ。夜間の照明は安全のために余程必要でない限り、やめるべきである。今年は12月に入って各地で大雪が降っている。人間に最も必要なエネルギーは炊事と暖房である。現在の無駄なエネルギー消費は、将来の人々が炊事や暖房のエネルギーにも事欠く事態を招くことになる。■
2014年12月23日

  1. 2014/12/23(火) 13:10:16|
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代替エネルギーは問題を解決しない

電力会社が太陽光発電の電力買取を制限すると発表したことに批判が多い。批判者は、太陽光発電などを「真の再生可能エネルギー」と見なしてその拡大を無条件に願っており、電力会社がその買い取りを制限するのは、環境保護より経済利益、再生可能エネルギーより原発を望んでいるからだと考えているようだ。しかし、太陽光発電も風力発電も、これが本当に環境負荷の低減になっているか、化石燃料消費の削減になっているのかを証明した人が誰もいないのに対して、それらが実際にはほとんど環境負荷の低減にならないどころか、却って環境負荷を増大させる可能性があること疑わせる点は多々ある。

太陽光発電や風力発電のように発電量が勝手気ままに大きく変動するものが配電網に大量に流れ込めば、周波数や電圧の安定した高品質の電力を保つことが困難になるのは当然で、初めから分かっていた。電力会社が買い取りを制限するのも、単に商売や原発推進という腹黒い動機以外にも、そうしたくてもできないという、技術的に難しい問題が現実にある筈だ。

推進派には、太陽光発電や風力発電が全国に拡がれば不安定さも解消できるという人もいるが、テレビの天気予報を見てもわかるように、広い範囲にわたって雨雲に覆われて一斉に発電力が落ちることがあり、それが何日も続くことがある。不安定の解消にはダムや蓄電池などに蓄えればよいという考えも、揚水発電にはどれだけの貯水池が必要か、その土地や水はどうするか、蓄電池の生産やリサイクルにはどれだけ新たなエネルギーと資源を要するか、などは何も考えない、現実を無視した極めて安直な考えである。

原発問題にせよ、化石燃料の問題にせよ、世間の関心は代替エネルギーにある。経済第一の人達も、環境保護に熱心な人達も、バイオだ地熱だ太陽だ風力だと、次々と再生可能エネルギー源を持ち出してその利用を推進することが重要だと言っている。それらの主張も、結局は、それらを使えるエネルギーに変換する技術への依存に帰着する。だが、エネルギーは絶対必要だ、電力は絶対必要だという前提でエネルギー問題を供給の問題と考えている限り、持続可能という目標は決して達成することができない。現代のエネルギー問題、エネルギー危機とは、エネルギーの不足の問題ではない。それとは全く逆に、「エネルギーの使い過ぎ」こそがあらゆる問題の根源である。

第一に、仮に太陽光発電や風力発電によって、あるいはシェールガスやオイルサンドの利用技術の進歩によって、今までと同じようなエネルギー量が確保できたとしよう。人々は、決してそれだけで満足しない。ますます多くの製品を開発し、使用し、エネルギー需要は増々増える。欲望は留まるところを知らず、結局は再びエネルギー不足に陥ることになる。エネルギー漬けの生活に慣れるほど、エネルギー不足に対面した時の混乱は大きくなるだろう。

第二に、そもそもエネルギーを使う目的は、天然資源や自然の土地に、人間の都合のため、物質的欲望のために手を加えることである。したがって、エネルギーを大量に使うということは、金属資源を大量に消費することであり、大量の廃棄物を出すことであり、生物資源を必要以上に収奪して絶滅に追いやることであり、山や森や湖や海岸を勝手に変えて自然の景観を壊すことであり、結局は人間も生物も住めない地球にしてしまうことである。今のエネルギー消費量が続いただけでもそうなるのは確実で、それもそれほど遠い将来ではない。

第三に、代替エネルギーの大部分、例えば最も期待度の高い太陽光発電も風力発電も、真の再生可能エネルギーではないし、自然エネルギーでない。これらの発電装置を大量に造って多量の電力を使うには、電気器具の生産も含めて、非再生可能資源である化石燃料や金属資源を大量に使う。特に最近では、貴金属や希土類元素など希少な資源が大量に使われ、その精製やリサイクルによる環境汚染が著しい。蓄電池の生産には更に大量の資源とエネルギーを必要とする。電力は自然に存在しない非常に高品質のエネルギーで、人間による複雑な加工の産物だから、自然エネルギーどころか、最も人工的なエネルギーである。このような高級複雑な電力を大量に使う社会は、物質を大量に使用する社会である。

電力社会、特に各家庭や個人が種々な電気製品を所有し使用する社会は、大量の金属とエネルギーを使った高度で複雑な社会である。例えば、スマートフォンは小さいからエネルギー消費も環境負担も小さいように思えるが、けっしてそうではない。スマートフォンの普及を支えているのは、エネルギーと材料資源をふんだんに使った工業社会全体である。便利な家電製品や自家用車が大量に普及し、飛行機が飛び交い、きめ細かで大量の物流がある、そういう社会であって初めてスマートフォンの普及が可能になっているのである。スマートフォンに限らず、他の複雑な家電製品でも、住宅用の太陽光発電装置でも、同じことが言える。エネルギー変換技術のように、技術の問題を技術的手段の問題としか考えていないと、そういう、もっと大きな技術の問題に気が付かない。そのため、仮に何か解決できたと思っても、必ずそれが次の新たな問題、大抵の場合は以前より更に大きな問題を生み出すのである。太陽光発電や風力発電も例外ではない。不安定な発電で安定した配電をする制御技術があっても、それには多くの設備や機械が必要だろうし、あまりに複雑微妙な品質管理は結局は非常に不安定になるだろう。バイオマスも使い過ぎれば食糧不足になり、全国禿山になって生物は生きられなくなる。

エネルギー問題を造っているのは、人間のエネルギー大量消費に他ならない。環境に良いエネルギーの使い方とは、代替エネルギーを使うことではなく、エネルギーをなるべく使わないことでしかない。エネルギーは必要だと言う人は多い。しかし、その必要は生物学的な必要ではなく、欲望と言う意味の必要だから、最小限もないし、際限もない。必要だと言って代替エネルギーばかり探しているうちは、エネルギーの社会問題は決して解決しない。なるべくエネルギーを使わないようにすることが、唯一のエネルギー問題緩和の方法である。エネルギー消費をどこまで減らしたらよいか?その答えは簡単、「問題が問題でなくなるまで」である。

無駄な物を使わなければ太陽光発電も風力発電も要らない。希少金属の利用も減るし、汚染物の排出も減る。現在の家庭は、あまりにも電力に頼り過ぎている。なくても困らない電気製品が多過ぎる。冷蔵庫、テレビ、洗濯機、炊飯器など比較的必要度の高い道具も、昔と比べてエネルギー効率はずいぶん良くなっているが、その分大型化したり、余分な機能が付け加わって、電力消費は減っていない。もっと小型簡単に出来るはずだ。エアコンも各部屋につけたり四六時中使う必要はない。家庭の電力消費を現在の半分にしても、生活に困ることはほとんどないだろう。建築物も冷暖房、給水、エレベーターなど、ますます電力依存になっている。安くて大量に使える電気を前提に作られたから、そうなってしまった。技術的・経済的に可能だからそうする、という考えだけで、大量の技術製品を使う現在の社会が造られた。したがって、いくらごまかしても、いずれはエネルギーも電力も高騰し、大部分の技術製品は使えなくなるのである。

代替エネルギーを探すことに気を取られているうちは、縮小社会に結びつかない。縮小しないことに社会の未来はない。真の環境保護者であり、真に子供や孫の将来を心配するのなら、代替エネルギーの推進ではなく、電力消費の削減を叫び、自ら出来るだけの実践し、電力の要らない町づくりを進めるべきである。■
2014年11月16日


  1. 2014/11/16(日) 12:24:37|
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燃料電池車への補助は誰のためか

トヨタが2015年に日本、アメリカ、ヨーロッパで燃料電池自動車(FCV)の販売を始めると発表した。ホンダを初め世界の他社も負けずと燃料電池車の開発を急いでいる。マスコミは次世代の究極のエコカーと呼び、日本の技術がまた世界の先端に立っていると持ち上げている。トヨタの販売価格は700万円と非常に高価だが、日本の政府は普及を図るために燃料電池車の購入者に通常車との価格差の1/2に当る1台200万円以上の補助を出すそうだ。更にトヨタの地元愛知県では、通常車両との価格差の1/4を補助し、国の補助との併用もできるというから、愛知県では最低でも300万円、販売価格の43%もの補助が出ることになる。車など買いたくても買えない人達が苦労して納めた税金からである。

日本では被雇用者の37%が非正規(総務省2013年)で、平均年収は正規467万円に対し非正規は168万円しかない(国税庁2012年)。日本の子供の16%は年収122万円以下の貧困家庭という。一方では、そんな貧しい大衆から吸い取る消費税を上げておきながら、一方では400万円、500万円もする乗用車を買える富裕層を助けるために税金が使われる。その金の行き先は勿論、世界有数の自動車生産企業である。しかも、後述するように、燃料自動車の普及はあり得ないのである。これだけでも不公平極まりないが、そればかりではなく、燃料電池自動車が環境負担の小さな究極のエコカーなどという事もまた、科学的な裏付けが全くない誇張広告である。

燃料電池自動車を究極のエコカーと呼ぶ主な理由を見ると:
①燃料が水素だから排気は水だけで環境を汚さない;
②燃料電池は非常に効率が高い;
③水素は種々な一次エネルギー源から造れる;
④水素は宇宙で最も豊富に存在する元素である。;
となっている。これら皆間違いではないが、これだけでは自動車の生産も走行もできない。こんな理由で燃料電池自動車を究極のエコカーと宣伝するのは誇大広告と同じで、それを簡単に信じて疑わないマスコミや一般の人々も幼稚過ぎる。ちょっと考えて見ればわかるように、実際には問題点だらけで、燃料電池自動車はエコカーどころか、却って環境負担を増す可能性の方が高い。開発担当者ならそれを知らない筈はなく、本当に知らないとしたら科学技術者としてはお粗末に過ぎる。だが、燃料電池車や水素社会を推進する人達は、それらの疑念はすべて無視し、環境を大切にしたいと言う人々を騙し続けているのである。以下、主な問題点を簡単に挙げて見よう:

水以外に大量の汚染物を排出する
自動車が出す排気は水だけだが、水素を造る過程で多量の温室効果ガスや汚染物を排出する。水素を造る当面の原料は天然ガス(メタン)の水蒸気改質だから、当然CO2も出す。水蒸気改質は高温反応だから、メタンの一部は加熱のために使われる。Zubrinによると、加熱の効率を72%(甘い見積り)とすると、20モルの水素を造るために7モルのメタンを使い、7モルのCO2を出す[1]。つまり、1モルのメタンを使って2.86モルの水素が造られ、1モルのCO2が出るのである。一方、1モルのメタンの低位発熱量は811kJだが、2.86モルの水素は698kJしかない。つまり、水素にすると、メタンをそのまま燃やすより発熱量が86%に下がってしまうので、同じ発熱量を得るとCO2の排出量は17%増えてしまうのである。
[1] ZUBRIN, Robert " The Hydrogen Hoax " THE NEW ATLANTES, A Journal of Technology & Society, Winter 2007- 11 http://www.thenewatlantis.com/publications/the-hydrogen-hoax

また、燃料電池はは貴金属や希土類元素を大量に使うので、その採掘精製、使用後の回収やリサイクルにはかなりの化石燃料が使われ、種々な汚染物を出す。これらが主として環境基準の甘い途上国で行われれば、環境負担は計り知れない。携帯電話機のような小さな商品でも、廃品を集めてリサイクルをしている中国では環境汚染が深刻である。

効率は高くない
燃料電池は非常に効率が高いと信じられているが、実際はそれほどでもない。自動車に使われる固体高分子型燃料電池の発電効率は30-40%と言われるが、天然ガスの火力発電所では40%以上であり、ガソリンエンジンでも30%、ディーゼルエンジンなら40%以上は可能である。内燃機関は低負荷での効率が非常に悪いから、エンジンと車両の組合せ(性能に余裕のあるエンジンほど効率が悪くなる)や走り方(加減速が激しいと効率が悪い)によっては燃料電池の方が効率には有利かも知れないが、燃料電池もまた30-40%という効率は電池単体での値で、負荷変動、始動性、応答性、耐久性などを考慮した実用車になると、それよりかなり下がるのは確実である。

水素は製造の際にも損失が大きい。メタンの水蒸気改質では、上に述べたように効率は良くても86%程度である。水の電気分解の場合は、商業的な利用ではエネルギー効率は70%ほど[2]だが、その前に火力発電の効率が40%程度だから、合計の効率は28%しかない。
[2] ROMM, Joseph J. "The Hype About Hydrogen" Island Press, 2005. p73

水素は運搬と貯蔵の際にも大きな損失がある。圧縮水素の場合、5000psi(約340気圧)に圧縮するのに、水素のエネルギーの20%を使う[2]というから、トヨタFCVの70MP(約691気圧)ではこれ以上である。このエネルギーは圧縮水素に蓄えられるので、車載の高圧タンクから水素を取り出す際に、その圧力を何かの仕事に利用すれば取戻せるが、実際にはタンクから出る水素は少しずつだから、圧力エネルギーはそのまま捨てられて損失になるだろう。液化水素の場合は-253℃以下に冷却しなければならないから、更にエネルギーを使い、水素エネルギーの40%にもなる[2]。車載タンクが70MPだと、スタンドではそれ以上の圧力でなければならないので、更に損失が増える。
[2]ROMM、前掲

水素はエネルギー密度が低いうえ、高圧タンクは頑丈でなければならないから、運搬の損失も大きい。アメリカの安全基準からすると、5000psiの鋼鉄製水素タンクの重さは中の水素の65倍にもなり、200kgの水素(ガソリン760L 相当)の運搬には13tトラックが必要という[1]。圧力がこの倍以上になり、技術の改善があったとしても、かなりの運搬エネルギーを要することには変りない。水素は非常に漏れやすいので、漏れ損失も馬鹿にならない。長期間駐車しておくと燃料がなくなってしまい、囲まれた車庫や地下駐車場などでは漏れた水素が充満して非常に危険である。
[1]ZUBRIN、前掲

以上のすべてを考慮すると、天然ガスが水素の原料だと、エネルギー効率もCO2排出量も、燃料電池車はガソリン車より却って悪く可能性がある。原料の天然ガスから自動車の車輪を動かすまでの実際の効率がどの位かを見積もる手がかりになるデータはどのメーカーも公表していないので、わからない。トヨタのHP[3]のどこを見ても効率が良いとは書いてない。そこにはすぐわかる嘘はつけないという、多少は正直な気持ちが現れている。
[3] http://www.toyota.co.jp/jpn/tech/environment/fcv/

水素は一次エネルギーではない
水素の製法には天然ガスなど化石燃料の熱分解の他に、原子力による熱分解、水の電気分解など様々あることは事実である。水の電気分解なら水力、風力、太陽光その他どんな一次エネルギーからでも、発電さえできれば水素が造れる。しかし、水素は他の一次エネルギー源から人工的に造る二次エネルギーだから、水素を使うことはエネルギー資源問題の緩和には何も寄与しない。むしろ、一次エネルギー源からのエネルギー転換の回数が多く、多くの複雑な機器を必要とすることから、却って一次エネルギーの消費を増加させるだろう。

化石燃料が使えなくなれば水力、太陽光、風力、潮力、地熱などの再生可能エネルギーから発電した電力が水素製造のエネルギー源になると想定されているようだが、いずれも、発電可能量が限られ、現在の一般家庭の電力需要さえ十分に満たせないだろうから、その上膨大な量の自動車を動かすだけのエネルギーはとても得られない。化石燃料が使えなくなるということは、燃料電池や自動車の生産も十分にできない(原材料の採掘から最終製品の完成までには大量の化石燃料を必要とする)ことだから、自動車そのものが一般の人には手が届かないものになる。

水素分子は天然にはほとんど存在しない
水素が宇宙で最も多い元素であるのは確かなようだが、地球に存在する水素は水、炭化水素などの化合物であって、燃料に使う水素分子(H2)はほとんど存在しない。水素(H2)は非常に軽い気体だから、仮に地球史の中で生成された事があったとしても、地球の重力圏に留めておくことができないのである。「宇宙で最も多い元素」など、水素がいかにも豊富にある資源だと思わせるような言い方はごまかし以外の何ものでもない。

水素社会は原発の推進に繋がる
水素の需要が高くなり、天然ガス資源が乏しくなれば、電気分解法で水素を製造するための電力が必要になる。将来は太陽光、風力、地熱、水力など再生可能エネルギー源からの発電を考えている人が多いようだが、それらの全てを合わせても、発電可能量は極めて少なく、現在の家庭用電力需要さえ満足に満たせないほどだから、自動車燃料に回すほどの余裕はない。まして、化石燃料が乏しい時代に大量の燃料電池や自動車を生産することさえできない。太陽光発電などの地域分散型発電では、地域ごとに電気分解装置や圧縮貯蔵装置が必要になり、効率が悪すぎて問題外だろう。

そうすると原発という話が必ず出て来る。したがって、燃料電池車の普及は原発推進派にとっては願ってもない話なのである。発電でなく原子炉の高温熱分解による水素製造法も開発されているようだが、原子力の危険性は発電と変らない。経産省が大金を補助して燃料電池自動車を普及させようとす魂胆も原子力の推進にあるのではないだろうか。これは電気自動車でも同じである。日本が燃料電池車や電気自動車の世界的普及に貢献することは、世界中に原子力発電を推し進めることでもあるのだ。

燃料電池車の普及はあり得ない
政府が補助金をつける名目は、普及を促進するためだが、現在の自動車に取って代わるほどの普及どころか、十分に価格が下がるほどの普及はあり得ない。まず、鶏が先か卵が先かの問題がある。水素燃料の補給所が少ないと燃料電池車を買う人は増えず、逆に、燃料電池車の数が増えないと燃料補給所は増えない。高圧縮貯蔵にせよ、液化貯蔵にせよ、水素のタンクおよび燃料出し入れの設備は非常に高価になり、運転経費もかかる。水素補給所に莫大な投資をしても利益を回収できる見込みはなく、進んで水素補給所を営もうという人はほとんどいないだろう。

水素の運搬損失を避けるために、運搬は天然ガスで行い、スタンドで水素を造るという方法もあるが、これは更に設備が高価になる。スタンドで電気分解する場合でも膨大な費用がかかることは同じである。Zubrinは次のような計算をしている:
―――――――――――――
1kgの水素のエネルギーは、ほぼ1ガロン(約3.8L)のガソリンに相当するから、スタンド経営者がガソリン販売と同等な利益(ガロン当り0.20ドルで1日200ドル)を得るためには1日1000kgの水素を販売する。水の電気分解に要するエネルギーは約16.3万kJ/kg(効率85%と仮定)だから、1日1000kgの水素を造るには1日1.63億kJ=45278kWhの電力を使う。現在の電気料金$0.06/kWh(約6円。日本の家庭用電力は約25円)では、1日2717ドル。これだけの電気分解に24時間かけるとすると、電力は1900kWとなり、通常の家庭の1000倍。電気分解は低圧大電流で、この場合は数10万アンペアになる。1900kWの電解装置も高価。現在だと1000万ドル以上かかる。30年だと月当り10万ドル。この他に高価なタンクや圧縮機や液化装置が要るから、それだけの投資で1日200ドルの利益では誰も手を出さないだろう[Zbrin、前掲]。
―――――――――――――
燃料電池車がガソリン車に取って代わるためには長い年月がかかり、その間は両方の補給所が併設されなければならない。社会全体として見たら膨大な無駄である。政府は、将来は燃料電池車時代だと扇動し、補給所の営業者を増やすために補助金を出すかもしれない。しかしそれに乗って投資した人が大損をするのは目に見えている。補給所だけではない。自動車用水素の製造から運搬まで、現在のガソリンと同様な社会的インフラが必要だが、これもガソリンとの併用だから、二重のインフラになる。

日本自動車工業会によると、2013年の日本の保有台数は乗用車が6004万台である。国庫から燃料電池車1台当り200万円を補助すると、合計2兆円出しても100万台で、乗用車保有台数のたったの1.6%にしかならず、普及に弾みがつくまでにはとても行かない。結局、燃料電池車購入の政府補助は、普及にも環境にも資源の節約にも何もならず、大企業にくれてやるようなものである。その大企業もまた、燃料電池車開発への多大な投資は、大きな損失になるに違いない。

計画経済が嫌いな政府の計画経済
レーガン、サッチャー時代から現在に引き継がれている新自由主義は、市場原理を重視して、企業行動に対する政府の制限や干渉を最小限にするものである。その考えに基づいて、数々の規制緩和が行われたが、弱い立場の労働者や中小企業は苦しめられ、格差が広がっている。その自由経済主義者が最も嫌うのは市場への政府の介入や計画経済である。計画経済はうまく行かない、社会主義国を見よ、資源の配分を自由経済以上に合理的に計画することは人間には不可能というのがその理由だろう。にもかかわらず、エコカーとかエコ製品とか称して、政府は特定の商品に多大な政府の予算を投じている。原発技術や次世代技術開発への予算支出も同じである。これらは皆、計画経済そのもの、しかも、資源や環境を考慮した、将来社会のための計画ではなく、ただ大企業や野心家に金を恵んでやるためだけの計画的配分でなくて何だろうか。
2014年8月24日


  1. 2014/08/24(日) 12:51:37|
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自然エネルギーも虚偽表示だ


食材の偽装表示が全国の高級ホテルや高級レストランに及んでいる。産地を偽ったり、実際にはブラックタイガーやバナメイエビなのに、聞えの良い車エビ、大正エビ、芝エビなどと表示したり、加工肉なのにステーキと表示したり、などである。法律的には不当競争防止法違反と判断することが難しい場合があり、簡単には摘発できないようだ(msn産経ニュース11月6日)が、養殖輸入のバナメイエビを日本近海産のエビのように表示するのは明らかに誤魔化しで、高い料金を取る高級店のすべきことではない。言うまでもなく、どの新聞もテレビも、店側を追求する怒りの姿勢で報道しているのは当然であるし、もっと厳しく追及して欲しいものだ。

工業製品を自然物だと言い張っても、納得する人は誰もいないだろう。海で採れた魚もそのまま食べれば自然食品だが、加工して元の形がすっかり変ったものを自然食品と表示すれば、虚偽表示と叩かれるだろう。ところが、食品の偽表示にこれほど怒っている報道関係者や国民が、太陽光発電や風力発電を自然エネルギーと呼ぶ偽表示には全く甘いどころか、何の躊躇もなくその言葉を使っているのはまことに不思議である。おそらく、技術信仰のため、技術用語には容易に騙されやすいことの現れではないだろうか。

太陽光や風そのものは自然エネルギー源であることに間違いはない。人間の手が一切加えられていない、生のままのエネルギー源だからである。しかし、その生のエネルギー源を加工して造られた太陽光発電や風力発電の電力は、もはや自然エネルギーではない。太陽光や風力が自然に電力に変化したのではなく、人間が数々の複雑巧妙な人工的機械装置を使って、元のエネルギーを加工し、初めて電力に変えているのである。したがって、電力はあらゆるエネルギーの中でも最も自然から遠い、人工的なエネルギーである。

太陽光発電や風力発電を「自然エネルギー」と呼ぶのは、その原料である太陽光や風力が自然の産物だったからだろう。だが、それなら、ありとあらゆる工業製品もみな「自然物」と言って良い事になる。自動車も、テレビ受像機も、飛行機も、どんな複雑な工業製品も、その原材料はみな自然物だったからである。あらゆる物質はすべて自然から採取したもので、人間は無から物を造り出すことはできず、人間はそれを加工できるに過ぎない。したがって、自然物か人工物かは、原材料のことではなく、人間の加工が入っているか否かを示す言葉なのである。どんな物質でも、人間が使うまでには何らかの加工(運搬も含めて)がほどこされているのが普通だから、自然物か人工物かにはっきり別けるのは難しい場合もあり、どの位の加工が入っているかの程度(自然度)問題である。

太陽光発電を自然エネルギーと呼ぶのは、暗に、石炭や石油は、天然のままの状態にあってさえ、自然エネルギーではないと区別している。しかし、物質と同じく、あらゆるエネルギー源はすべて自然の産物であり、石炭も石油も人間が造ったものは一つもない。したがって、石炭も石油も、加工したものでなければまさしく自然エネルギーそのものである。もし太陽光発電の電力が自然エネルギーならば、石炭や石油から加工したコークス、練炭、ガソリン、灯油、すべて自然エネルギーと呼ばなければならない。原子力で起こした電気も元は自然資源のウランだから、これも自然エネルギーである。つまり、すべてのエネルギーは自然エネルギーであって、わざわざ「自然」という冠をつけて呼ぶ意味は全くなくなってしまう。太陽光発電した電力を自然エネルギーとよび、石炭石油を自然エネルギーに非ずというのは、論理のでたらめもいいところだ。英語にもnatural energyという言葉はあるが、真面目な記事や論文ではほとんど見かけることがない。もっとも、太陽光発電や風力発電をもrenewable energyと呼んでいるのは、やはり正しくないが。

自然エネルギーという言葉の不自然さを感じてか、自然エネルギーとは再生可能エネルギーのことだ、などと言い訳しながらそのまま使っている人も少なくない。しかし、再生可能は再生可能と呼べばよいのに、それをわざわざ自然と言う言葉に置き換えて呼ぶのは、二重の意味で虚偽表示である。第一に、「自然か否か」と「再生可能か否か」とは全く異なる話で、何の共通点もない両者を同じ言葉で呼んでしまったら言葉の役目がなくなる。第二に、太陽光発電も風力発電も、決して再生可能ではない。電力にするためには多種多様な金属と大量のエネルギーを使い、複雑な工業生産過程を経た発電装置が必要である。金属はリサイクルできても必ず消耗部分がでるから、非再生可能である。生産過程で使われるエネルギーのほとんどは化石燃料であり、これを全部再生可能なバイオマスに置き換えることも、太陽光発電や風力発電の電力を使って自己再生するのも不可能である(工業エネルギーは火力も多い)。

以上のようにでたらめな論理や虚偽表示は、太陽光発電や風力発電の宣伝に使えば、食材の虚偽表示と同様に、不当競争防止法違反に相当する。エネルギーは物理的なものであり、精神的なものではない。物理的なものは科学的に誤りや矛盾のない正しい表現が必要である。太陽光発電や風力発電に対して自然エネルギーという言葉を使うのは、商売ではなく論文、評論、解説その他の一般的文章や話の中で使っても、事実認識の誤りの証拠であり、それでは真実の説明もまともな論理の展開もできるわけがない。このようないい加減な言葉を使った文章はすべて科学性に欠け、信頼するに及ばずと考えた方が良い。

さらに、これらの虚偽表示が食材の虚偽表示より悪いのは、食材ならその場の嘘だけで終るが、自然エネルギーという虚偽表示は、人々のエネルギーや工業文明に対する考え方そのものにも大きく影響し、社会のとるべき方向を誤らせてしまうことである。自然エネルギーという言葉に騙され、それが本当に環境負担を軽減するかどうかを全く疑わず、未来の社会を支えるエコエネルギーだと信じている人がどれだけいるだろうか。エネルギーの専門家や技術者でさえ、自然という言葉に騙されて、その環境負担やエネルギー収支の追求の手を緩めているのではないだろうか。

環境負担にはエネルギー消費の大幅削減以外の方法はない。エネルギー消費の大幅削減なしに化石燃料を太陽光発電や風力発電に置き換えようとしても、却って環境負担を増す可能性の方が大きい。各家庭に設置する発電装置や蓄電装置のために、今までより物量が大幅に増え、希少な希土類元素を始め金属資源の使用量が増し、それらの生産のために必要なエネルギー消費が増える。太陽光発電や風力発電の間歇性を補うために、従来の火力発電も廃止できない。そんな発電装置が世界的に普及すれば、環境負担が増すのは当たり前である。
2013年11月18日

  1. 2013/11/18(月) 12:17:59|
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