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縮小の時代

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COP21パリ合意書は期待できるか

パリで行われたCOP21(気候温暖化防止条約第21回締約国会議)への期待は、
・京都議定書で不十分だった温室効果ガス排出削減を実効あるものにすること;
・排出削減の目標を高くすること;
・途上国も含めて排出の削減を義務化すること。
であった。

しかし、12月12日に採択された合意書は、それとは大きく離れている。合意内容の主な内容は、今後の運営方法を除けば:
・2020年までに、気温上昇を工業文明開始以前より2℃以下に抑える。目標は1.5℃以下。
・締約国は国ごとに自主的な方策を提出。その方策は5年毎に点検、見直し。
・先進国は途上国に支援する。現行水準(年1000億ドル)を2025年まで目指す。
という程度で、極めて簡単である。

途上国も先進国もこれを歓迎している。その最大の理由は、温室効果ガスの排出削減を義務でなく自主的としたことだろう。つまり、義務化では合意できなかったからで、裏を返せば、先進国も途上国も、自分の出来る範囲以上はしたくないことを示している。自分でできる範囲とは、結局は経済優先で、経済成長の障害にならない程度しかしないということである。

京都議定書では先進国の排出削減が義務づけられ、米国は脱退してしまったが、どの先進国もほぼ目標は達成したことになっている。日本は1990年基準で6%削減に対し、実績は+1.4%になってしまったが、京都メカニズム(途上国支援などの恩典)を加えると、8.4%減と、目標を達成したことになっている。しかし、本当に目標達成したかどうかは大変疑わしい。第一に、その削減量はどのように算出したか、その算出方法が本当に信頼がおけるものかわからない。

第二に、現在は、製造業の多くが先進国から途上国に移転しており、先進国は途上国で生産された物を数多く輸入しているので、先進国は途上国に排出を転嫁していることになる。本来なら、自国で使う製品の生産や輸送の際に排出された分は、当然、自国の排出分に数えるべきである。

中国やインドなど途上国も含めた世界の総排出量を見ると、基準年の1990年に比べて2008年には39%増、2011年には50%増と、大きく増加している。この増加分のうち、どれだけが先進国への輸出品の生産で出た量かはわからないが、少ないとは言えないだろう。途上国も含めて排出量削減が義務化されると、輸出品生産の排出量の帰属が問題になり、こうしたごまかしがきかなくなる。ここにも義務化に反対する理由がありそうだ。

COP21で如何に高い目標を掲げても、経済の考え方を変えない限り達成不可能である。しかし現在は、どの国の政府にもその気持ちは全くなく、相変わらず経済成長本位である。これでは、実効ある排出削減は何時まで経ってもできないだろう。経済成長とCO2排出量の削減とは両立しない。現在の経済は化石燃料消費と不可分に結びついている。安くて豊富な化石燃料あってこその経済成長であり、技術の向上である。技術の改善によって経済成長率に比べて排出量の増加率が小さくなることはあるが、クズネッツ説が言うように、経済成長によって却って排出量が減少することはないだろう。

技術の普及は経済成長になり、技術による効率向上は必ずリバウンド効果を伴う。いずれもCO2の総排出量は増加する。技術は大量消費、大量生産によって普及するものであることを考えても、技術によるCO2削減が不可能なことがわかる。

先進国による途上国援助については、その具体的内容がパリ合意書に書かれているわけではないが、実際は効率向上、CO2除去、森林保護、温暖化への対応に関する技術や資金の援助になる。森林保護を除けば、みな途上国が先進国型の大量消費工業文明を見習うことを意味する。先進国の大企業にとっても、これは当分の間、金儲けの機会になる。

途上国支援では能力向上(Capacity Building)という言葉も良く使われる。これは、先進国には環境保全の能力が十分あり、その能力を途上国に伝えるという意味である。なんと尊大だろうか。環境を最も破壊しているのは先進国の浪費と経済成長主義であり、現在の先進国には環境保護の能力などまるでないのである。移転するのは相も変わらず経済成長のための技術であって、地球環境をますます悪くするだけだ。高価な技術で環境が良くなるということは、環境がカネで買えるということだが、実際は、カネは環境負担への請求書に過ぎない。どんな用途であれ、カネを使うことは、それだけ環境を悪くする。

温暖化防止も環境保護も、経済成長主義の観念と、経済成長がないと混乱するような現在の経済構造を変えて、成長しなくてもよい経済への大転換を図るしかない。■
2015年12月18日
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  1. 2015/12/18(金) 21:52:15|
  2. 環境
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「歩くまち」から「歩きたいまち」へ

京都市は「歩くまち・京都」という標語で町づくりを目指している。そのこと自体は素晴らしい。四条通りの河原町-烏丸間の車道を削って歩道を拡げたのは英断である。渋滞が激しくなったとか不便になったとかいう批判もかなりあるようだが、時が経てば、きっとこれで良かったと思う人が多くなるだろう。歩くということには、ただ目的地へ行くための移動だけでなく、身体を動かして歩くこと、ブラブラすること自体の楽しさもあり、健康にもよい。歩道拡張によってそういう楽しさが増え、街は賑わう。

京都は観光で生きる町である。観光客の楽しみは、いわゆる観光拠点に行くことだけでなく、街をぶらつき、住民や街の雰囲気に触れて、自分の故郷と違うものを感ずるところにある。住民にとっても、歩く楽しみの多いまちに住むことが、何にも増して最高である。ただの「歩くまち」でなく、「歩きたいまち」にしてもらいたいものだ。

今までの道路行政は、車の流れを良くすることだけに重点を置いていたが、そうすればするほど車が増え、渋滞がひどくなったのは歴史の教訓である。そればかりではない。歩行者や自転車は追いやられ、街の景観は損なわれ、商店街はさびれ、空気は汚れ、生活空間が失われ、結局は益より害の方が多い。こうして、どこもみな「歩きたくない道」、「歩きたくないまち」になって車を使うようになり、車が必需品になり、車優先の道路行政を促し、住みにくいまちになるという悪循環に陥っている。

車をなるべく使わない、どうしても必要な場合はできるだけ小さな車を、歩行者や自転車の安全と安心を第一にしてゆっくりと走らす、というふうに考え方を根本から変えれば、全く違った、安全で美しく、気持ちの良い、却って便利な町になるだろう。歩行者や自転車と同じ路面を大きな車が高速で走るという構図では、絶対によい街はできない。車は便利のようでも、それ以上に不便も多いのだ。安全のため空間を十分とったとしても、アメリカがそうであるように、決して便利で快適な町にならない。まして、狭い国土に人口の多い日本、特に京都のような町ではなおさらである。車がなければ公共交通機関も広がるし、近くの商店街も栄える。

「歩くまち京都」といっても、実情はまだまだだ。歩道のある道も自転車が安全に走れる道も非常に少ない。歩道や白線があっても幅が狭すぎるから、危ないだけでなく街全体がみすぼらしく場末の感じを与える。こんな道では、商店もまたみすぼらしい田舎商店にしか見えないのだ。こうして魅力のない「歩きたくない道」になり、歩く人が減って街はさびれ、一層歩きたくなくなる。京都に限らず、全国そんな街ばかりなのだ。道路は、自動車専用道路でない限り、第一優先は歩行者、第二優先は自転車にすべきである。

京都一番の繁華街である四条通りと河原町通りでは、歩道は終日、車道は8時から21時まで自転車通行が禁止されている。つまり、自転車は一日中、走ってはいけないのである。最初にこれを聞いたとき、私は耳を疑った。自転車は地元の人が、子供も老人も、誰でも乗れ、自動車より利用者が広い。なぜ自動車ならよくて自転車はいけないのだろう。いや、「自転車に乗る人」より「自動車に乗る人」を優先しなければならないのだろう。共存が危険なら、禁止すべきは自動車ではないだろうか。世界では自転車の推進や自動車締め出しを進めている都市がある現在、逆に自転車の締め出しとは、とんでもない逆行である。

道路は歩行者、自転車、自動車の通行帯を完全に分離することが望ましいが、すべての道路をそうするのは不可能だろう。現在は、通行帯の分離がない場合、街道や商店街では両側に白線が引かれ、住宅街ではその白線もないところが多い。しかし、この白線の引き方には車優先の思想が反映され、歩行者にとっては非常に危険である。

白線があれば、車の運転者は、「白線の外側が歩行者帯だから白線ギリギリまで車が走って良い」と考えるのが普通である。ところが、その歩行者帯があまりにも狭すぎる。人間の肩幅くらいしかないところさえある。ということは、歩行者すれすれまで車を走らせてもよい、ということになる。これは非常に危険であり、こんな道路は歩きたいと思う人はいないだろう。自転車も危ないから乗らないという人が多い。商店街がこれでは廃れるのは当たり前で、商店街の人達はなぜこん白線に甘んじているのか、不思議である。

道路交通法では、幅が3メートル以下の歩道は自転車は走っていけないことになっている。自転車は幅60cmとみなされているから、歩行者のために2.4メートルの余裕が必要ということである。この考えで行けば、車も歩行者より2.4メートル以内のところを走ってはいけない筈だ。歩行者にとって自動車は自転車より危険が大きいから、2.4メートル以上の余裕が必要である。ところが、実際は歩行者の肩に触れるくらいのところまで走って良い、という白線の引き方になっている。法的根拠はどこにあるのだろうか。

例えば、伏見稲荷大社は現在外国の観光客の人気が日本一だそうだが、その周辺の土産物商店街も、それに続く深草商店街もひどいものだ。狭い道に車がギリギリまで来て、歩行者は安心して散策などできない。車の通行を禁止できないのなら、白線の歩行者帯をたっぷり広げれば、観光客はもっと周辺を歩いてみたいという気になるし、そうすれば街はもっと栄えるだろう。

本来は、歩道のない道路は自動車の通行を禁止してもよい位だが、それができない場合、まずは両側の白線の位置を変えて、歩行者帯を少なくても2メートル、できればそれ以上にすべきである。そうすれば、歩行者は安全に歩ける。安全なら歩きたくなる。そうして歩く人が増えれば街は生き帰り、ますます歩きたい街になる。京都の歩道のない商店街の多くは歩きたくない街になっているが、比較的白線の歩行者帯が広いのが堺町筋である。ここは京の町屋風の店も多く、ちょっと歩きたいという気持ちにさせる。商店街だけでなく、住宅街の道路もまた、白線の歩行者帯をたっぷりとれば住民が歩いて外出しやすくなるし、子供も安全になる。

歩行者帯を十分とった残りの中央帯の幅によって車の通行制限を変えたらよい。例えば、中央帯が1.5m以下ならすべての車は通行禁止、2メートル以下なら軽自動車以外は禁止とする。それが出来なくても、速度は瞬間に停まれる速度、つまり10km/h以下にする、いずれにしても、一方通行なら車の通れる部分は2~2.5メートル以上は要らない。 これならほとんど費用をかけずに、簡単にできる。そうすれば通りの印象は全く変り、歩いてみたい、という気持が起り、街は活性を取り戻す。何より、街の景観が美しくなるだろう。

こんなことを言うと極端のように聞こえるかも知れないが、決して極端ではない。考えて見れば、歩行者や自転車と同じ路面を、技量も責任感もない普通の人が重くて大きな鉄の車を高速で運転する、そんな危険なことが許されていること自体、狂っているのである。

商店街や住宅街だけでなく、散歩の道も充実する必要がある。京都には鴨川や琵琶湖疏水をはじめ、散歩によい水辺があるが、鴨川の一部を除いてはまだ不十分で、歩いて通れなかったり、自転車が走れないところが多い。橋のあるところでは、いったん上に上がって車の道を横切らなければならないなど、歩きやすい道にしようという心遣いが感じられない場所も多い。文化のまちとは、歩きたくなるまちである。「歩きたい道」をふやし、「歩きたいまち」にすることによって、ますます「行きたい京都」「住みたい京都」になるだろう。■
2015年10月29日


  1. 2015/10/29(木) 13:19:56|
  2. 環境
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温暖化否定説は科学の過信:大気中のCO2濃度が400ppmを突破

大気中のCO2濃度観測で有名なハワイのマウナロア観測所の最新の観測結果が、ついに400ppmの大台を超えた。アメリカ航空宇宙局のHPによると、大気中のCO2濃度は過去にも何万年の周期で上がったり下がったりして来たが、少なくとも過去65万年以来、最高時でも300ppmを超えることがなかった。産業革命以前は長い間ほぼ280ppmを保っていたと推定されているが、20世紀後半になって急激に上昇を始め、ついに400ppmを超えてしまった。これは産業革命以前と比べると43%も高くなったことになる。http://climate.nasa.gov/evidence/

温室効果ガスの排出による地球温暖化が世界的な問題になり、1992年のリオデジャネイロの環境サミットで温暖化防止条約が成立してから既に20年以上経つが、CO2排出量は減るどころかますます増え続けている。化石燃料の消費削減に本格的に取り組もうとしている政府は世界のどこにもない。

最近は、人為的な温暖化は嘘だ、或いは、地球は温暖化していないという説がかなり強くなっている。特に、原発反対の立場を取る人々の間に温暖化否定論者が多いように思われる。確かに、「原発はCO2を出さない」が原発推進の大きな理由として利用されてきたことは否めない。しかし、「原発はCO2を出さない」がもともと嘘なのだし、温暖化の科学的真偽と原発の可否とは全く別の問題だから、原発推進派が人為的に排出したCO2による地球温暖化という現象を利用したからといって、その現象そのものを否定するのは筋違いである。また、化石燃料の消費削減は温暖化の問題だけではなく、すべての環境破壊の緩和に重要だから、温暖化の否定に躍起になったところで、化石燃料業者や経済成長主義者以外にとっては、何の益にもならない。

人為的温暖化を否定しているのは、地球環境に関心が深く、比較的科学的、かつ良心的に物事を考えようとする人達が多いように思われるが、それでも、温暖化は嘘だと切り捨てるところには、本人も気付いていない、科学への過信がないだろうか。

現在は長期的な温暖化の傾向にあること、CO2に温室効果のあること、大気中のCO2濃度が20世紀以来急激に上昇していること、この上昇が化石燃料消費の急激な増加の時代と重なっていること、などはすべて事実として認められている。もちろん、これだけで人為的なCO2の排出が温暖化の原因だと即座に判断することはできないが、否定もまたできない。

人為的温暖化を否定する主な根拠の一つは、CO2濃度と気温の年変化を示す第1図による。この図は、マウナロアのCO2観測値(第2図)から、年変化の部分を取り除いて長期的変化だけを示す(ギザギザのないなだらかな)曲線を造り、その平均気温からの変動分だけをCO2濃度としている。中央の点線が平均を示す(平均値は年々上昇しているが、この図では水平線として描いている)。気温についても同様に、平均値からの変動分だけを示している。この図によると、気温の山の後にCO2の山が来ている。つまり、CO2が増えた結果として気温が上がるのではなく、自然の原因で気温が上がった結果としてCO2濃度が増えたというのである。

第1図 (出典/根本順吉 著「超異常気象」(中公新書))
第1図 (出典/根本順吉 著「超異常気象」(中公新書))

第2図 マウナロアのCO2観測値変化(Wikipedhia「二酸化炭素」)
第2図 マウナロアのCO2観測値変化(Wikipedhia「二酸化炭素」)

しかし、気象学者の増田善信氏も指摘しているように、我々が問題にしているのは平均値からの変動ではなく、平均値そのものの長期的変化なのである。第1図のCO2と気温の変動の因果関係はわからないが、仮に気温の上昇がCO2の上昇を促したとしても、それは年変動の説明に過ぎず、CO2平均濃度の長期的な上昇より平均気温の長期上昇の方が先行しているとの説明にはならない。

地球の平均気温は地球物理の複雑な現象の総合結果であり、これには太陽活動、火山活動などの自然も影響する。IPCCも自然の影響を考慮しているが、それでも自然の影響だけで近年の平均気温上昇を説明しきれず、人為的な部分を入れたモデルによってようやく理解することができる、と言っているのである。IPCCに関わった3000人余りの学者や専門家が、すべて陰謀に加担したなどと考えるのは荒唐無稽である。

地球の平均気温にはもともと正のフィードバックが働くという不安定な要素がある。つまり、何らかの原因で少し平均気温が上がると地球表面の氷や雪が減って太陽光の反射率が減り、地球が吸収するエネルギーが増えてますます平均気温が上昇するという、雪だるま式の変化をする。また、何かの理由で平均気温が下がると、その逆が働いて、ますます平均気温が低下する。過去に氷河期が来たり去ったりしたのも、このような現象が働いているのであろう。人為的温暖化否定論者のいうように、仮に、人間が排出した温室効果ガスが平均気温に与える影響は微々たるものに過ぎなくても、その微々たる影響が正のフィードバックの引き金になれば、大きな気温変化を招いてしまう。その場合、結果的には、人間活動の結果がその大きな平均気温の変化を招いたことになる。人為的温暖化否定論者は、このような引き金効果が働かないことを、どのように断言できるのだろうか。

人為的温暖化否定論の最も大きな問題は、気温の変化や温暖化に、人間が排出したCO2が影響している可能性を全く認めず、100%自然の現象であると決めてかかっていることである。しかし、実際にはそんなことはあり得ず、原因には自然の要素も人為的な要素もあると考える方が順当だろう。人為的な要素は全くないという結論は、自然の現象をすべて、完璧に、もれなく理解し尽くしているという自信がなければできない。しかしこれは、原発の安全は科学的に確かめられる、低線量放射線の人体への影響はない、などと断言するのと同様な科学・技術への過信あるいは信仰に過ぎず、科学精神ではない。ニュートン力学という科学の勝利でついに宇宙のすべてが理解できたという思い上がりが、量子力学の発見であっけなく崩れ去ったことで、いかに科学が進んでも、人間の知識が及ばない部分が必ずあることを思い知らされた筈だが、人間は知らず知らずの間に科学・技術の信仰に陥ってしまうものらしい。

資源を使いつくし、地球環境を破壊することによって文明社会を破滅させるのは科学と技術への過信に他ならないが、その危機を逃れるために、一層科学・技術に頼ろうとしているのが現在の人間の愚かさと言える。

いずれにせよ、大気中のCO2濃度は上昇の一途をたどっている。しかも近年はシェールガス革命などと言われ、CO2以上に温室効果があり、しかも大気中のそのまま漏れ出す可能性も高いメタンガスの生産が増え続けている。我々には、非常に大きな危険が迫っている可能性が高いのである。
(参考:本ブログ「温暖化懐疑説と原発」2011年7月8日)。
2013年5月16日


  1. 2013/05/16(木) 20:45:51|
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意識を変える

以下は去る4月7日に京都で行われた「縮小社会研究会」法人化記念大会で、「縮小社会研究会への期待:意識を変える」と題して私が行ったミニ講演の内容を加筆し、一篇の文章にまとめたものである。
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縮小社会とは

縮小社会とは、簡単に言えば、産業革命以来指数関数的に膨張を続け、ついに地球の容量を超えてしまった人間活動の物理的規模を、地球環境の持続可能性を損なわない範囲に留める社会である。生命と経済の物質的基盤である環境の劣化がこのまま続けば、文明の破滅は避けられない。拡大こそ人類幸福への唯一の道だと思い込まされて造って来た経済至上主義の社会は、確かに一定の成果を上げ、昔と比べれば人々の生活は豊かになった。しかしその本質は、ただ金に換えるためだけに際限なく環境を収奪して余分なものを造り出し、個人の物欲を掻き立て、他人を犠牲にする奪い合いを基本とし、常に無益な競争を煽り、豊かさと活力の源泉はそれ以外にないとする社会であり、人間同士の心の繋がりを分断し、人間性を蝕み、不平等を増し、伝統文化を破壊して画一的な商業主義文化に置き換えるなど、不条理に満ちた社会だった。拡大が地球容量の限界を超えた現在は、その不条理が成果を上回り、末期的な様相を示している。もはや、いかなる経済成長政策もバブルを呼ぶか、良くても一時的な見かけ以上の効果は生まず、不条理をますます増大させるに過ぎない。指数関数的な拡大がいつまでも続かないことはもとより明らかである。産業革命以来250年、長い人類史から見れば一瞬に過ぎない拡大の時代は終焉を迎え、これから再び縮小に向かわざるを得ないのは自然の摂理である。社会の縮小は、人々の日常生活から労働、産業構造、都市や町村の姿、更には教育や文化に至るまで大きく変化させるが、物理量で表せない社会の質の後退ではなく、逆に、物・金・機械に奪われた人間の魂を取り戻し、より質の高い、より多くの人の幸せを実現する、次の社会を造るための必要条件でもある。物理的拡大社会の文化は一時のあだ花でしかないが、持続可能になった縮小社会なら、その文化文明を将来永久に蓄積資産として引き継ぐことができる。


縮小社会への移行

環境保全や「足るを知る」ことの大切さを理解し、大量消費の習慣を見直すべきだという考えに真っ向から反対する者は多くはない。ところが、世の中は一向に縮小の方向に向かう兆しが見えず、逆に、縮小を唱えるなら具体的な方法の提案が必要だと言われることが多い。しかし、縮小には物理的な困難があるわけでも、新しい発見や技術開発を必要とするわけでも、また、特に変った方法が必要なわけでもない。必要なことは縮小の決断だけで、決断さえすれば実施項目は自然に明らかになる。ちょうど、収入以上の支出を続けている浪費家にとっては、支出を抑える決心が何より重要で、どの支出を削るかを決めるのは大して難しくないのと同じである。方法を教えてくれなければ実行できないなどと言っていれば破産しかない。

例えば社会縮小の最も核心であるエネルギー消費、特に化石燃料消費を持続可能な範囲まで削減するには総消費量の上限を設定すればよい。残存可採年数が100年の化石燃料なら、総消費量の上限を毎年1%ずつ削減して行けば、残存可採年数はいつまでも100年を保つことができる。決められた総量(消費権)を公平に分配する方法はCO2排出権の分配と同じで、既に専門家が検討している。完全に公平な分配が難しい場合は、累進的な燃料税などの併用も考えられる。いずれにせよ、目標の総消費量を決めて絶対に達成するという固い社会的意志さえあれば、あとは専門家や政治家の仕事で、必ず解決できない筈はない。

化石燃料の削減は他のすべての分野の縮小をもたらすが、それを円滑に進めるためには、特に目新しい方法でなくても、高速自動車中心の交通体系の見直しを始めとして、種々なエネルギー需要を減らす関連政策が知られている。一国だけでは浮いてしまうとか、国際的に歩調を合わせることが困難とか、国際競争力の低下が問題だというのなら、自由貿易の制限まで踏み込めばよい。もともと、持続可能な社会は食糧や生活必需品の自給が基本であり、拡大志向の産物である制限のない自由貿易は、地域の環境破壊とエネルギーの過剰消費によって持続不可能である上、強国が弱国を経済的に侵略し、さらには文化まで支配するなど、負の面が多過ぎるのである。また、利子の制限や減価貨幣なども、金が金を生んで絶えざる拡大を要求する構造を変える方法としてよく知られている。

ところが、これらの方策は、現代の社会に合わないとか、経済への影響が大き過ぎるとか、混乱を招くなどの理由からだろうか、ほとんど真面目に取り上げられない。その上で、縮小社会に移行する具体的方法の提案が必要だというのは、往々にして、拡大の原因である社会の基本構造を変えずに縮小する方法を要求しているのと同じであり、それではどんな方法もうまく行く筈がない。こうして、現在実施に移されているのは現在の社会の形を変えずに済むような方策だけだから、実証できるほどの効果が出ないのは当然である。世界中で環境保護が主要な課題になって久しいが、国内外で実施されている現在までの環境政策がほとんど効果を上げておらず、地球環境悪化の傾向が一向に止まらないのがそれを物語っている。また、多くの人々から普及促進が期待されているエネルギー・環境技術の多くも、すべて現在の社会構造を前提に、企業が自己の利益拡大を目的として大量生産・大量販売するために開発したものだから、目に見えにくい間接的な環境負担を最大限に無視し、環境保護のためのコストを出来るだけ削り、企業側に都合の良い計算上の効果だけが独り歩きして、真の効果はほとんど実証されていない。結局は、技術を売る大企業への利益集中や経済成長には貢献しても、地球全体として見れば、拡大志向への執着をますます強め、却って資源消費と廃棄物を増やすことに繋がる。アインシュタインは、問題を生み出したのと同じ考えで問題を解決するのは不可能だと述べたそうだが、まさにその通りである。


意識の転換が必要

上述したように、縮小社会に移行できないのは、方法がないからではなく、現在の社会関係、特に、生きることは自己の利益の最大化を図ることだという前提条件の上に構築された生産・分配の構造が妨げているからである。そして、この社会関係は人間が望んだ(または容認した)決め事だから、絶対的なものではなく、変えようと決心さえすれば変えられる。

社会関係を造り、かつ支えているのは人間の意識(あるいは観念)である。人間が行動し、何かを造り出すのは必ず何かの意識に基づいている。無意識的な個人の行動でも、あるいは、特別の意図がなく自然に出来上がったような社会でも、ただ強く自覚しないだけで、根柢には必ず一定の意識がある。現代の拡大主義社会の基になっている人々の意識は多種多様だが、そのいくつか列挙して見れば:

・物欲主義・お金崇拝:他人より物や金が多いほど幸福。お金は富そのもの。人生はお金。

・生産主義:生産すること、所得のために働くことを無条件によいことと考え、所得にならない仕事を低く見る。

・経済成長信仰:経済成長して豊かになることがすべての問題を解決する。

・進歩主義:人類は不断の進歩が必要。今の人間は昔の人間より進歩し、優れている。より多くの物を使うこと、より多くを見聞すること、より多くの選択肢があること、より速く行くこと、より遠くへ行くこと、より便利になることは進歩である。

・競争主義:優勝劣敗は人間を含む生物界の自然法則。競争こそ進歩の原動力で、競争がないと停滞する。敗けは努力不足の結果だから自己責任。

・市場原理主義:市場の自由は民主制の基本である個人の自由と同じで、自由(放任)であればあるほど民主的。市場が自由であるほど生産が効率的になり、経済成長に有利。

・技術信仰:技術は人間の優秀性を示す証。技術の進歩は人類の進歩で、技術の利用が多いほど進歩した社会。新技術はすべて高級で優れた技術。新技術はすべて素晴しく、直ちに利用すべき。技術が資源・環境問題を始めあらゆる問題を解決し、更なる経済成長を可能にする。将来の社会を支え、今後の進歩の原動力なるのは一段と高度な技術。

・国際(グローバル)主義・欧米崇拝:欧米式の文化や生活習慣を取入れることが進歩。国際的は地域的より優れる。何でも国際的に統一し、国際的な基準で見ることが良い事。

・人間中心主義:人間だけが自然を十分に理解し、好きなように利用する能力と権利を持つ。

・分断主義・独立主義:他人に依存せず、共有せず自分で所有し、独立して生きることが自由な大人の条件。なるべく金で解決し後の面倒を避ける方がよい。

・楽観偏重:不利なことは気にせず、何事も夢を持ち、物事を楽観的に捉える方がよい。

他にもまだありそうだが、いずれも拡大志向を造り、あるいは支えているもので、資源・環境問題に限らず貧困、経済格差、国際紛争、技術がもたらす各種の問題や文化の多様性の衰退など、現代社会のあらゆる問題を生み出した原因にもなっている。これらの意識は大企業や成功者、すなわち政策決定に影響力を持つ立場の人達にとって有利なので、現代人は生まれた時から家庭、学校、社会を問わずあらゆる機会に、ほとんど疑問を感じないほどに刷り込まれている。縮小社会の趣旨には賛成だが、縮小という呼び名が消極的、マイナスの印象を受けるという人がいるが、そこにも拡大が進歩、縮小は後退という意識が現れている。拡大あれば縮小ありで両者に善悪の違いがあるわけではなく、何が進歩で何が後退かは時の状況に応じて変るものだが、縮小こそ、これからの社会進歩の条件なのである。

これらの意識は、人間の本性に由来するものでも、また普遍的な真実でもなく、特に工業化以来の社会思想を反映して人為的に形成されたものに過ぎない。そのため、しばしば論理の矛盾を招いたり、客観的な事実に合わなかったりすることもある。例えば、地球環境が話題になると誰もが大量消費の習慣が悪いといいながら、不景気の風が吹くと、世の中を挙げて不要不急の消費拡大を求めるという論理的矛盾や、富の無限の拡大は資源の制約とは無関係などという自然法則と矛盾する信念がまかり通っている。


選挙を通じて政治を変える

人間の本性でも普遍的な真理でもないこれらの意識は、変えようとすれば変えられる。意識が変れば必ず行動に結びつき、世の中を大きく変えることも可能だが、意識が変らなければ世の中は変らない。既に意識を変えた人々が、日本や世界のあちこちで、環境保護や持続可能を旗印にした種々な自主的活動を行っている。しかし、そういう私的行動の大切さは勿論だが、それだけでは社会は変えられない。現在の環境政策も、多くは個人の選択や個人の責任にゆだねるものになっている。市場原理の理屈では、個人個人が環境保護や社会縮小に最大限の心がけをすれば、やがては企業や社会の生産構造まで影響を及ぼすことが出来るが、実際はそうは行かないのである。例えば、自動車をやめて公共交通機関や自転車にしたくても、周囲の条件がその実行を困難にしている。このように、どうしても現在の社会関係に制約されて思うような行動がとれず、また、自分が必要と思う以上の物を買ったり使ったりせざるを得ないことが多い。したがって、社会の仕組みを変えるには政治を動かすことが大切であり、それ以外に方法はない。

現在の民主社会では、政治を大きく動かせるのは選挙しかない。選挙の投票は、誰にとっても最も簡単で苦もなく実施できる行動である。人々の意識が変って、社会の縮小が必要であり、大量消費にどっぷりつかった生活にはこだわらないと本当に思うようにさえなれば、少なくとも、現在の日本を支配している拡大主義の政党やその亜流の候補者に投票することはやめるだろう。そうして拡大主義者の議席が少し減るだけでも、次の選挙には縮小社会(縮小という言葉を使うかどうかは別にして)を目指す人が政治の舞台に上がる機運も増える。そのような議員の数が増えるにつれて、より目標の高い強力な政策が実施可能になる。どんな政策をどんな順序で行うかという具体的な事は、社会の向かう方向がはっきりすれば、必ずそれに伴って明らかになる。社会を変える政策が実施されれば、企業の方向も自然にその方向を向き、それにふさわしい商品や販売の方式が工夫されるようになる。政策は社会の意思から生ずるのであって、政策から社会の意思が生まれるのではないのである。


理論が大切

縮小社会研究会の最も大きな課題は、旧来の意識を捨て、縮小社会を理解し、縮小後の社会に希望を持ち、選挙の投票という行動に結びつける、世の中にそういう人達の数を増やして行くことだろう。そのためには、しっかりした情報を広く提供するしかない。情報の種類を具体的にいくつか挙げれば:

・縮小社会の定義、縮小社会の目指すもの、何故縮小が必要かに関する事;

・拡大志向の現在社会における様々な問題点および社会縮小による解決に関する事;

・大量消費・拡大志向に繋がっているとは気が付きにくい各種の意識に関する事;

・縮小社会の社会像に関する事(日常生活、生産、企業、都市や農村の情況、教育、文化その他);

・社会の縮小など必要ない、または実現は困難だと感じさせる様々な理由への反論;

・現在の様々な環境保護の方策や技術における問題や限界に関する事;

・具体的な縮小政策に関すること;

・個人や地域でも可能な活動に関すること、等等。

縮小は物理的規模だけだが、結局は社会のすべての分野に関係するから、提供する報告や理論の内容も多岐にわたる。しかし、縮小社会は一つだから、それぞれの理論は全体として一つの体系をなし、どの視点から見ても、理論の拠って立つ前提に矛盾があってはならない。現在はその種の矛盾がかなり多く、前述したエネルギー環境技術の多くもその類である。縮小社会研究会には、そのような矛盾のない、人々が縮小社会を考える際の拠り所になる、質の高い情報を提供することを期待したい。実践だけを重んじて理論を机上の空論と軽んずるのは正しくない。歴史的にも、宗教にせよ、近代の啓蒙思想にせよ、マルクスやケインズにせよ、世の中を大きく動かして来たのは理論だった。理論は実践のためであり、実践が理論に磨きをかけるのは言うまでもないが、理論あっての実践でもある。社会を実質的に変えるには、まず人々の意識を変えて投票に結びつけるしかないという現在においては、理論を充実し広く提供することが殊に重要である。実践を主とする人と理論を主とする人が同じである必要はない。縮小社会研究会の最大の役割は、やはりしっかりした理論を構築することではないだろうか。
12013年4月27日


  1. 2013/04/27(土) 21:53:34|
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高額な環境投資は価格の信号を無視した計画経済だ

本ブログの前回の記事(2月22日)では、太陽光発電や蓄電池、あるいはエコカーと称する高級車に高額な補助金を出すのは馬鹿げていると書いた。それらの技術を検討すれば、本当に環境負担を軽減するかどうかは限りなく疑わしいが、技術的な詳細はさておいても、「高額」が何を意味するかを考えれば、やはり本当に環境負担を削減するのか、という強い疑いが生ずる。「価格の信号機能」を無視してこんな事に多額の税金を使うのは、歴代の自民党や民主党政府が最も嫌悪している「計画経済」と同じではないか。もっとも、彼らが計画経済に反対する本音は、経済学的にどうこうというよりも、それが社会主義の思想から出たもので、金持ちが一層得をする体制が壊されるのを恐れるためだっただろうが。

自由主義市場経済の考え方では、価格が信号となって資源が最適に配分される。確かに、神様のように万能ではない人間には、この複雑な社会において誤りなく適切かつ計画的に資源を配分することなどとうてい不可能だろう。また、資源配分の権限を持った少数の人間集団が、本当に一般庶民の立場に立った資源配分に努力してくれるとは、とうてい望み得ない。

現在の経済学では、価格が表すのは効用価値という事になっている。同じ財でも効用は人により、時と場合により異なるが、現在の自分にとってこれだけの代価を支払うだけの効用がある、と判断した人が、その価格で購入する。したがって、現在の市場経済における最適な資源配分とは、「最も必要としている人」でなく「最も多く代価を支払う意思がある人」に資源を配分することで、価格がその人を見出す信号の作用をする。

効用は主観的判断だが、価格は全くの主観で決まるのではない。工業製品においては、一般に資源やエネルギーを沢山使う製品ほど効用が大きい。或いは、企業は製品の効用を高めるために多くの資源を使い、複雑な構造にして性能や機能を高める。また、消費者が如何に安い値段を要求しても、原価以下で売ることはできない。その原価は、生産にエネルギーを多く使うほど高い。化石燃料をあまり使わなかった昔のエネルギーは主として労働だったが、化石燃料が大部分の現在は、生産時の化石燃料消費量が価格に大きく影響している。ただし、これはあくまでも一般的な傾向であって、価格と化石燃料消費との実際の関係は生産された国や条件によって様々に異なるから、一義的には決まらない。(詳しくは本ブログ「財やサービスの価格は化石燃料消費を反映する」2011年6月16日を参照)

このように、価格の信号機能には、より高い代価を支払う購入者に配分を導くだけでなく、化石燃料をどれだけ使うかを反映するという機能も持っているのである。もちろん、価格はブランド価値、希少価値、知的所有権など物理的属性と関係ない要因にも大きく影響されるが、大量生産の工業製品として市場競争の中で成熟すれば、それらの影響は小さくなり、利潤率も適正なところに落ち着き、生産エネルギーとの相関が増してゆくだろう。アダムスミスも、財の生産コストに一定率の利潤を加えた価格を「自然価格」と呼んでいた。

財の価格は、原価だけでなく、付加価値(利潤や人件費)の部分もまたエネルギー消費の信号になっている。付加価値は、それを所得として得た人が次の消費財を買うために使われ、その消費財を生産するためには必ず新たなエネルギー(主として化石燃料)の消費を誘発する。生産にほとんどエネルギーを使わない美術品でも、それを売った代価の貨幣は、次々と世の中を巡るうちに必ず何らかの工業製品やエネルギーの購入に使われるから、やはり価格相応のエネルギー消費を招くのである。以上のような価格が持つ環境負担、特に付加価値が呼び起こす環境負担について注意を向ける人が私の他にほとんど見当たらないのはとても不思議に思う。つまり、エネルギー消費を招くのは個々の財物だけでなく、化石燃料依存の市場経済そのものなのである。これは、かのFrederic Soddy (同位元素の発見でノーベル化学賞を受賞後、経済学者に転じた)が書いているように、「貨幣は資源の請求権」であることとよく符合する。

このような貨幣経済の本質、あるいは「カネがかかるということは、環境負担や化石燃料消費が大きいことかも知れませんよ」という信号を全く無視し、本当に環境負担や化石燃料消費の削減になるかどうかの疑いを封じて、環境技術という名目だけで高額・大型・複雑な耐久消費財の普及に多額の投資をするのは、まさに計画経済の誤りそのものではないだろうか。金持ちに財や資源を配分するという価格の信号機能は、自己の利益の最大化という現代経済思想に基づくという点で人為的であり、社会的にあまり良い結果になっていないが、エネルギー消費を反映するというもう一つの信号機能は客観的なものだから、それを無視した行動は自然の理に合わないことで、その負担はいずれ必ず戻ってくるだろう。
2013年2月24日


  1. 2013/02/24(日) 15:56:24|
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