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縮小の時代

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原発輸出で責任はとれるのか

安倍首相はトルコでエルドアン首相と会談し、会見後の記者会見で、同国への原発輸出合意に関し、「原発を輸出する相手国での人材育成などを通じて安全確保を目指す」考えを表明し、「福島事故の教訓を世界と共有することで原子力の安全向上を図ることが日本の責務」と述べたという。また、エルドアン首相は、日本の高い技術力を評価していると語ったそうだ。(時事ドットコム10月30日)

実際は日本単独でなく日仏連合の輸出だそうだが、いずれにせよ、トルコが日本からの原発輸入を決めたのは、日本の高い技術力を信じたからである。そして、安倍首相は日本の原子力は絶対安全だと強調し、安全向上を図ることは日本の責務だと述べた。ということは、もし輸出相手国で原発事故が起れば、日本の責任になるということである。

実際には、輸出相手国で原発事故が起きた時に、日本はどのような責任を取るつもりなのか、責任を取る覚悟があるのか、などと言うことは全く安倍首相の念頭にないだろう。福島原発事故に対してさえ、日本の政府も企業も、責任をほとんど放棄しているのが実態である。安全を図る責務だとか、日本の原発技術は安全だとかという言葉は、結局は輸出して金儲けさえできれば後は知らぬ存ぜぬで通せるだろうという、その場限りのいい加減なホラに過ぎない。

しかし、輸出相手国で事故が起ったら、運転の誤りによる人為的な事故だとか、想定外の理由による事故などという言い訳は、国内ならごり押しできても、外国には通じない。相手国は、日本が絶対安全だ、安全は日本の責任だというから輸入したのではないかと、あくまでも日本の責任を追及して来るだろう。多額の賠償金も請求して来るだろう。その時は日本国民全体がどれだけの被害をこうむることになるか、計り知れない。その時、日本人はどうなるだろうか。政府や企業と同じように、日本の責任ではないと知らん顔をできるだろうか。表面では知らん顔を通しても、日本人としての誇りも道義も捨てなければならない。内に残る痛手、日本の文化に落とす影は計り知れない。

過去の侵略戦争がそうだった。他国を侵略し、植民地化したことが、戦後70年近くになる現在でも、なお日本に重くのしかかっている。父や祖父がやったことで、自分には関係ないなどと言い切れることではない。時がたっても消えるものではなく、最近はますます重みを増しており、いつ解消されるか、その見通しすら立っていない。

原発事故は可能性の問題ではなく、いつか必ず起る。問題はいつ起こるかだけである。輸出相手国での事故は、日本国内での事故以上に、日本の将来をメチャメチャにすることになる、そんな危険を冒してまで、企業や企業に群がる人達の一時的な金儲けのために原発の輸出をしようとする日本政府とは、一体何だろうか。秘密保護法にせよ、TPPにせよ、消費増税にせよ、福祉の削減にせよ、現在の政府は日本の破滅を早めるだけの末期的な様相を示している。
2013年10月30日


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  1. 2013/10/30(水) 10:25:02|
  2. 原発
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アカデミズムは原発災害にどう向き合うのか

一昨日(2月11日)東京で開かれた表題のシンポジウムに参加した。福島大学原発災害支援フォーラム(FGF)と東京大学原発災害支援フォーラム(TGF)の共催で、同名の本(合同出版)の出版記念でもある。以下はその感想。

福島原発事故の後、少数の若い学者達が、学者としての使命感からFGFやTGFを立ち上げ、被害を最小限に抑えようと積極的に活動していることには大きな拍手を送りたい。被害を最小限に防ぐための放射線測定、身の回りの除染、市民相談など、本来なら直ちに出動しなければいけない役所も専門化も、何もしないどころか、逆に「心配ない、安全だ」を繰り返して市民が危険にさらされ続けるのを放置する、そんな状況を前にして、自ら率先して現場に赴き、あるいは大学や自治体の当局に、一方的な楽観視でなく、危険の可能性をも考慮して相応に対処すべきだと申し入れをして来たのである。低線量放射線の影響についてはまだ定説がない。だからこそ、影響の可能性の方を重んじるのが科学的な態度であり、予防原則であるという彼らの最も基本的論点は、極めて当然で全く批判の余地はない。

シンポジウムの表題が示すように、この時こそ真実のために声を上げるべき日本の学者達の多くは沈黙のままだし、「学者達の世界」全体としても、政府、自治体、東電と同じように、むしろ放射能の影響を過小評価する側に立っている。このため、FGFやTGFの活動も公的な支援が少ないばかりか、大学内部からさえ抵抗を受け、今でもその状況は続いている。それにもかかわらず信念を貫こうとしている学者達の勇気は立派だ。

学者達の世界(アカデミー)が原発事故に対してなぜ今のような姿勢を取るのだろうか。シンポジウムで、東大の安冨教授はいみじくも「大学は大学業界でアカデミズムとは別だ」と述べておられた。現在の大学は、私学は言うまでもなく、国立大学も教員もそれぞれ独立採算的経営を迫られている。国からの給付があっても、求められるのは、今では経済利益の追求を最優先する国家という企業への貢献である。経済的利益に結びつかない限り何もできなくなっているのだ。

本来のアカデミズム(学問の精神)から離れた企業化は、大学の経営に留まらずアカデミー全体に及んでいる。企業内の個人評価が成果主義になっているのと同様に、学者の評価もまた論文数や受賞などの目に見える成果だけになっている。論文数を増やそうとすればどうしても研究対象が細分化し、重箱の隅をつつくような研究が増える。専門の細分化は、井戸の中の専門家の判断を絶対化して外部の意見を軽視する。こうして、アカデミーそのものが研究を生きている人間や社会から切り離し、それより目に見える研究の成果の方を重視してしまう。このようなアカデミーの状況は、今では日本だけに限らないようだ。

大学の目的は研究だけではない。むしろ、研究より教育すなわち人間を作ることの方が大事だ。大学が少数の間は指導者養成の意味もあったが、進学率が多くなった現在では、人間として、社会人として、共同体の一員として立派な人間に育て上げるこそ、経済利益のための研究より優先すべきだが、企業化した大学はまさにその逆である。

今回のシンポジウムでの発表は、福島原発事故の後でFGFやTGFの人達が何をしてきたかが主で、「アカデミズムは今後どうすべきか」までは、あまり議論が届かなかった。しかし、やはり、人類の将来を正しい方向に導くために最も大きな力を持ち、その責任を背負っているのはアカデミズムである。

シンポジウムの最後のセッションで、司会の安富教授がパネラーの一人一人に千葉柏市の態度が変った理由は何故かと尋ねていた。柏市はたまたま放射線量のホットスポットになっているが、市役所は初めは健康に影響ないとして特別な対応をしようとしなかった。理由は、東大の柏キャンパスに置かれた線量計も高い値を示していたが、東大当局が「東京大学環境放射線情報」というウェブで健康に影響ないと流していたからである。東大がそういうのだから間違いない、というのが、柏市の見方だった。ところが、TGFが東大当局に健康に影響ないという公表をやめるように申し入た。当局は、最初のうちはもともと自然石の放射能が高い地域などといい加減な理由をつけていたが、とうとうTGFの論理的な説得に負けて「健康に影響ない」は削除した。その結果、柏市も放射線の対策を取るようになったのである。だが、このように態度を変えたのは柏市だけで、他の自治体は、相変わらず心配ないという姿勢を取り続けている。

パネラーの回答にはなかったが、柏市が態度を変えたのは東大当局が態度を改めたからである(東大全体が放射能の危険を重視する姿勢に変ったわけではないが)。そして、東大当局が変ったのは、TGFが申し入れたからであり、その論理的、科学的な説得を当局が認めざるを得なかったからである。やはり、科学的、論理的な説明が政府を直接動かす大きな力であり、その力を持っているのがアカデミーである。政府を動かす世論の形成にもアカデミーが発する正しい情報が欠かせない。アカデミーの役割は、言うまでもなく、選択の誤りを最小限に防ぐための、信頼のおける正しい情報を社会に提供することで、それでなければ学者が高い社会的地位を与えられている意味は全くなく、アカデミーの権威も偽物である。

原発災害に対する日本の無責任な対処の仕方は、今後、原発の世界的な増加を促し、将来もっと大きな事故が、もっと多く起って地球を破滅させる危険を高める。この現状は、良識ある学者の献身的な努力だけでは、なかなか変えられそうもない。結局、最大の課題は、半ば腐った、企業化した現在のアカデミーおよび大学を、いかにして本来のアカデミズムの世界に戻すか、ということである。これは大変難しい問題で、私にも回答は見当たらないが、諦めないで頑張って欲しいものだ。ヒントになるのは、シンポジウムでも紹介された「福島人権宣言」である。福島に限らず人権、すべての人間に与えられた権利として当り前のことが書いてある。学問の世界もこれを遵守することを再確認すれば、行き方も変ってくるのではないか。
2013年2月13日


  1. 2013/02/13(水) 23:02:56|
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原発事故訴訟の限界

検察当局は、福島原発事故の業務上過失など刑事責任を問う、各地で提出された告訴状を受理することに決めた。これほどの事故を起こしながら誰も法的な責任を取らないで済むのでは事故の再発を防ぐことはできないから、刑事責任の追及は当然のことである。刑事の他にも、多大な精神的、経済的損失を与えた民事責任も当然あるだろう。検察には是非厳しく責任を追及してほしいし、裁判所には厳しい罰を下して欲しいものだ。

しかし、この種の裁判には限界があり、これだけでは原発の根絶には結びつかないことも心得ておくべきだ。例えば、福島原発事故告発団による告発状を見ると、問われているのは業務上過失責任で、具体的にいくつかの項目が挙げられているが、いずれも次の二つに大別されている:
(1) 地震の起りやすい場所に立地したこと;
(2) 津波対策の不備。

言い換えれば、地震が起こりにくい場所で、しかも津波対策が万全ならば原発を造ってもよいという論理で、この告発状の中でもフランス、アメリカの東海岸、四川省を除く中国、インド、カナダは地震のほとんど起こらない地区と述べている。したがって、仮にこの告訴が原告側の完全勝利に終わっても、地震や津波のない(今までなかったというだけで、将来も絶対にないという保証はない)地域では今後の原発建設の是非について参考にはならない。

この告発の争点は「安全確保に怠りがあったかどうか」であり、安全確保に怠りなかったと判断されれば原発を造ってもよいことになる。原子炉の寿命の期間さえ無事故で運転できれば、めでたしめでたしで終わることになる。しかし、このような安全の考え方自体が大きな問題であり、ここに必ず抜け穴が生じる。

現在の安全の考え方では、専門家に判断をゆだねればよいことになるだろう。地震の専門家、津波の専門家、原子炉設計の専門家。更に万全を期せば、材料や制御など、広い範囲に渡る各種の工学分野の専門家集団が判断することになるかも知れない。しかし、如何に広範囲の専門家が安全と認めても、それが真の安全保証にはならず、むしろ、専門家だけに判断を委ねるのは危険でもある。

工学者の安全判断はすべてを危険確率の数値で表すことである。これは、一見客観的であり公平であるように見えるが、実はそこに一定のイデオロギーに偏った価値観が存在している。そのイデオロギーとは、人・生物の生命や自然環境をも含めてすべての価値が数値に換算できるということ、更には、そのように数値に換算できるものごとだけが考慮の対象であり、数値で表せないものは考慮する必要がない、ということである。

しかし、安全を考えるには、まず安全とは何かを考える必要がある。数値は安全の一つの目安にはなるが、それがすべてではなく、数値で表せないこともたくさんある。たとえ事故の確率が何万の一でも、人間としてやってよいことと悪い事がある。安全判断を専門家にまかせる危険は、数値で表せる物事以外は無視されてしまうことにある。

いうまでもなく、原発は人類が手をつけてはいけない技術である。原発は、数値で表すことのできない大きな危険をはらんでいるからである。事故による放射能、原発の廃棄物や廃炉が将来の地球環境や生物の生命圏にどれだけの被害を与えるかは、物理的な影響すら数値的な推定が不可能であり、それ以外にも、地球上に生きる生物の一種としての人類の道徳にも反する。

数値化できない安全は「安心」と言っても良いかもしれない。現在の世の中では、安心より安全を重視していないだろうか。なにかを心配すると、安全のデータを見せて安全だから心配ない、安心せよと説得される。しかし、安全より安心の方が大切である。安全のデータは安心させるための一つの根拠にはなるが、それで安心できるかどうかは専門家ではなく、当事者それぞれの判断による。個人の安心を専門家の安全基準で決めることはできない。原発は、いかに専門家が安全を主張しようが、安心できない技術なのである。そして、人々が安心できないと感じることこそ、原発を許してならない最も重要な根拠なのである。いくら偉い専門家達が「この原発は安全です」と言おうが、それでも安心できないから設置は許さない、という権利が庶民にはある。
2012年8月9日


  1. 2012/08/09(木) 12:48:26|
  2. 原発
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関西広域連合のわかりにくい声明、結局は脱原発より経済優先

関西広域連合は昨日、関電大飯原発の再稼働に関する声明を発表した。各社の新聞報道から見ると、その要旨は:

・最終的な判断は政府にまかせる。
・ただし、安全性に関する政府の現在の基準は暫定的なものだから、政府の安全判断も暫定的なものである。
・したがって、政府の安全判断は暫定的であることを前提として、大飯原発の再稼働は限定的なものとして適切な判断をするように強く求める。

である。なにやら分かりにくい内容ですっきりしない。政府が現在の暫定的な安全基準に基づいて大飯原発を安全と判断した場合、それが限定的であるとは、何を意味するのだろうか。「暫定的な安全基準であることを前提とした暫定的な安全判断に、関西広域連合は暫定的に従う」ということだろうか。だとすると、暫定的に従うとはどういうことだろうか。

関西広域連合(滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、和歌山県、徳島県、鳥取県および大阪市、堺市の7府県2政令都市からなり、京都市、神戸市も加入の予定)は、なぜこのようなわかりにくい声明を出したのだろうか。

世論は脱原発に大きく傾いている。3月に行われた日本世論調査会による調査では、脱原発に賛成44%、どちらかと言えば賛成36%で、合計80%が脱原発に肯定的である(中国新聞3月18日)。大飯原発の再稼働についても、毎日新聞の全国世論調査では賛成31%に対して反対派その2倍以上の63%で、すでに多数派になっている(毎日新聞5月7日)。

脱原発が必要だという理由は、次の点に要約されるだろう:
・原発には絶対の安全はあり得ない;
・一度事故が起れば取り返しのつかないことになる;
・仮に稼働中に事故がなくても、放射性廃棄物や廃炉を完全に処理する方法がない。放射性廃棄物を永遠に安全管理して安全を保証することは不可能である。

したがって、脱原発とは原発を直ちに廃止すること、再稼働を決して認めてはならないことである。一時的にせよ、少しでも原発を認めることは、脱原発の論理に矛盾する。なぜなら、一時的な稼働期間中でも事故が起こる可能性は十分にあり、一度事故が起これば今度こそ取り返しのつかないことになる。それに、一度稼働したら処理不能な放射性廃棄物が増え続ける。

関西広域連合が、なにやらすっきりしない声明に至ったのは、結局は大飯原発の再稼働を容認するという、脱原発の論理に矛盾する方針を取り繕うための姑息な表現にしか見えない。

嘉田滋賀県知事、山田京都府知事、橋下大阪市長は、基本的には大飯原発再稼働に慎重な姿勢を取り続けて来た。中でも環境問題に対する認識の深い嘉田滋賀県知事は、本意としては原発の即廃止派だろうと想像する。それにもかかわらず、結局は大飯原発の再稼働を容認する声明に加わったのは、電力不足が経済に不利をもたらすという、人類の将来より現在の浪費経済を優先する論理に屈したからである。

全原発が停止中の現在こそ、脱原発を進める最大の機会である。現在のところ、電力が不足して困っているわけではない。これから夏を迎えて電力が15%不足するという経済界や再稼働容認派の主張も、単なる脅しでしかない。現在の電力浪費構造の下では、いくら需要予測しても意味がない。電力の供給力に合わせて消費を抑えればよいのである。15%くらいの節約は容易であろう。

関西広域連合に対して、「脱原発をめざす首長会議(*)」の決議は明確である。原発ゼロのエネルギー政策と大飯原発の再稼働反対を表明している(東京新聞5月15日)。
(*)静岡県湖西市の三上元市長らの呼びかけで4月に発足。全国35都道府県65自治体の首長・元首長72人が参加。参加自治体:
(北海道)札幌市、(秋田県)仙北市、大潟村、(岩手)宮古市、(山形)三川町、(福島)南相馬市、(栃木)栃木市、市貝町、(群馬)川場村、(茨城)城里町、北茨城市、小美玉市、東海村、かすみがうら市、(埼玉)越生町、長瀞町、蕨市、(東京)世田谷区、武蔵野市、狛江市、(千葉)長生村、酒々井町、一宮町、富里市、野田市、(神奈川)小田原市、真鶴町、(長野)木曽町、下条村、中川村、原村、阿智村、(静岡)下田市、湖西市、吉田町、(岐阜)瑞穂市、
(愛知)名古屋市、(三重)伊勢市、(滋賀)愛荘町、(京都)京丹後市、(奈良)生駒市、(兵庫)篠山市、養父市、宝塚市、福崎町、(鳥取)北栄町、(島根)知夫村、(愛媛)西予市、(徳島)石井町、上勝町、(高知)土佐町、四万十町、(福岡)香春町、福智町、(佐賀)小城市、(長崎)西海市、(大分)竹田市、(熊本)水俣市、山江村、(宮崎)椎葉村、(鹿児島)志布志市、日置市、伊仙町、徳之島町

関西広域連合という比較的大きな枠の中で意見を統一して声明を出そうと思ったら、どうしても各自治体の明確な意見が陰に隠れ、当たり障りのない意見にしかならない。嘉田知事には、こんな声明には同調せずに、目先の経済より生命の安全と持続可能な経済のために、滋賀県として脱原発、再稼働反対を明確に述べてもらいものだ。
2012年5月31日


  1. 2012/05/31(木) 13:46:43|
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原発再稼働に関する大阪の条件、京都滋賀の提言の矛盾

野田政府による大飯原発の再稼働推進に対して大阪市府、京都府、滋賀県は慎重な態度をとっている。大阪府と市は再稼働に関する8条件を検討しており、京都府と滋賀県は共同で原発政策に7項目を提言している。

京都滋賀の提言 
http://www.pref.shiga.jp/bousai/gensiryoku/120417teigen.pdf
1.安全や電力需給に関する、中立的な機関による専門的な判断に基づくこと
2.情報公開の透明性
3.恒久的な安全性の説明
4.緊急性の証明
5.脱原発依存の実現の工程表の提示
6.事故の対応の確立
7.福島事故の被害救済と福井県に対する配慮

大阪市府の8条件案 
http://www.pref.osaka.jp/attach/15927/00095432/5_tuika-3.pdf
1.国民が信頼できる規制庁の設立
2.新体制によって安全基準を根本から作り直す
3.新安全基準による完全なストレステスト
4.事故発生を前提とした防災計画、危機管理体制
5.原発から100キロ程度の住民の同意と自治体との安全協定
6.実現が見通せる使用済み核燃料の最終処理体制の確立
7.電力需給の徹底的検証
8.原発事故で生ずる倒産リスクの最小化

新聞社の世論調査では、例えば朝日新聞によると、大飯原発の再稼働に賛成は25%なのに対して、反対の方が55%と多数派になっているので、大阪、京都、滋賀の提言(条件)は、国民の多数の心情を代表しているとも言える。

だが、これらにはなお大きな危険に結びつく見過ごせない矛盾がある。それは、いずれも明確な脱原発ではなく、「慎重」に留まっているからである。「慎重」は必ずしも原発の完全廃止を意味せず、場合によっては原発もやむを得ないという立場を保持している。もっとも、京都滋賀の言う「恒久的な安全性の確保」も、大阪の言う「使用済み核燃料の最終処理体制」や「安全基準」も、厳しく対すれば事実上不可能だから、原発の全面的廃止にならざるを得ないので、その意味まで含んでの提言なら良いのだが、そこまでは期待できそうにない。

滋賀県の嘉田知事はもともと経済より環境保護を重視している、数ある政治家の中でも信頼性では上位に位置する首長だから脱原発派だとは思うが、提言の第5項は「脱原発依存」であって、「脱原発」より緩く、依存するほどの量でなければ、少しぐらいは原発があっても構わない、とも取れる。これは、現在の日本の世論が、原発に対して慎重に傾いてはいるが、なお電力需給や経済とのバランスを重視していることを慮ってのことだろう。しかし、「脱原発依存」ができるくらいなら、電力の僅かな一部を敢えて原子力で供給する必要もないから、明確に「脱原発」と言うべきなのに、世論に対する及び腰が見えるのはちょっと残念に思う。

政治家の大きな役割は世論を導くことにある。現在の世論は、人命より経済(それも少数の一部の人の利益)を優先する財界、政府、学会およびマスコミによって作られていおり、必ずしも世論が正しいとは言えない。社会の有るべき姿に対する理念を持ち、その理念を人々に訴え、共感を得て政策に結びつけようと努力する事が政治家の本来の姿である。自分の理念がなく、ただ人々の世論に合わせるのは大衆迎合であり、「政治屋」のすることであっても「政治家」の仕事ではない。そんな政治屋は不要なのだが、現在は国政から地方に至るまで、本来の政治家はほとんど見られないし、選挙民もつまらぬ政治屋ばかりに投票している。

水汚染、大気汚染、砂漠化、森林破壊、温暖化、各種の資源枯渇など、数ある地球環境破壊の中でも、原発ほど環境破壊が甚だしいものはない。放射性物質が蓄積し、将来何千年、何万年にもわたって生物の生命に重大な危険を与え続けるのである。原発は、単に、運転中に事故がなければよいというものではない。現在と将来の、すべての人間を大切にするという最も基本的で重要な理念を持っている政治家なら、分かりやすく、はっきりと脱原発を打出して欲しいものだ。

脱原発を明確にすれば、中立的な専門機関による電力需給の検証も安全性の検証も不要である。提言(条件)の大部分の項目も不要であろう。原発をやめて電力供給能力が落ちたら、大切なのそれに合わせて需要を減らすことである。現在は、生活水準も経済水準も必要最小限を遥かに超えている。需要を減らすのは容易であり、この上「必要」を先に出して供給をそれに合わせようとするのは、留まるところを知らない欲望を満足させるためであって、そういう考え自体を続けることが不可能であるばかりか、結局はますます環境を破壊し、競争に駆り立て、貧富の差を拡大し、悪い社会にするだけである。

専門家による安全の判断も、一見正当な考えのようだが、実はそうではない。安全判断には何かの基準がいる。その基準は専門家が造る物ではなく、利用する人、利用による影響を被る人が造るべきものである。例えば1000分の1の事故確率を安全と見るかどうかは、道徳、倫理、感性に依るもので、そこには「中立」も「科学的」もない。専門家による中立的、科学的な安全判断などと言っても、結局は専門家の主観的な、偏った判断に過ぎない。百年後、千年後の人々の意見を専門家が代弁できるだろうか。したがって、必要になるのは、やはり、社会に対する高い理念に基づいた政治的な判断である。

また、専門家がいくら安全だと主張しても、使いたくない物や使ってはならないものは使わない、それが正しい判断である。中立的、科学的という名のもとに行われるのは、結局は原発の容認であり、人命や地球の将来より現在の経済重視の結論になる可能性が高い。
2012年5月2日


  1. 2012/05/02(水) 13:15:15|
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