縮小の時代

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正義、良心、真の民主主義

すべては正義の問題

人間がもたらした社会問題の全ては正義に関わる問題と見て良い。環境破壊、格差問題、貧困問題、技術がもたらす数々の問題、森友や加計への有力政治家の個人的介入、貿易摩擦、国家間の武力紛争、悪化する労働環境・・・、その他どんな社会的問題も、突き詰めればそれが正義や良心に反する結果を生むからこそ問題とされる。そうでない限り、どんなことも大した問題にはならないし、誰かに対して憤りを感じることもない。縮小社会の呼びかけも、現在の拡大主義が正義に反することになるからである。縮小社会も、その究極の目的は正義の通る社会の実現にほかならない。

正義はわかりやすい

正義には種々異なる定義が可能だが、難しく考える必要はない。それより、世界中に共通した、従って比較的わかりやすい概念があると思われる。「強きを挫き弱きを助ける正義の味方」あるいは「あの人は良心的だ」といったら、誰もが同じような人物像を描くだろう。鞍馬天狗、水戸黄門、鉄腕アトム、スーパーマンといった人物が登場すると、正義について教えられたことのない子供でも正義の味方が現れたと大喜びをする。何が正義かは子供でもわかるのだ。
 このような正義は、大人の言葉を使えば、他人への配慮(他慮)、人権尊重、自由、平等、公平、公正、倫理(道徳)などに共通する、あるいはこれらすべてを総合したものである。これらのどれ一つが欠けていても正義ではなく、他慮のない正義、人権尊重のない正義、自由のない正義、平等のない正義、公平、公正、道徳のない正義は考えられない。また、上のどれか一つが欠けていれば、他のどの一つも存在しない。例えば、他慮がなければ人権尊重も自由も平等も公平も公正も道徳もあり得ず、人権尊重がなければ他慮も自由もその他もすべてあり得ない。以下同様である。このような正義や良心の尊重こそ民主主義のもともとの狙いであったと考えれば、正義も良心も真の民主主義もほぼ同じようなものだと考えて良い。

正義なければ社会なし
正義は社会が社会であるために最も必要なことである。確かに、これこそ正義の社会だといえる社会は世界中を探しても見つからず、いまだかつて存在したこともない。古今東西、どんな社会にも必ず何らかの大きな社会問題を見出すことができる。だが、それでも曲りなりに社会として存在し、文化や歴史を造ってこれたのは、どこかに必ず正義が生きており、良心的な人間関係が存在したからだ。封建領主、地主、悪徳役人に苦しめられた時代でも人々がなんとか生きて行けたのは、周りの人々の善意に支えられてこそだろう。利己主義は正義の対極にある。もし、すべての人間が、他人や全体のことなど全く考えず自分勝手な行動しかしないとすれば、社会を作る意義は皆無で、闘争に明け暮れるより孤立して生活したほうがよほど安全快適だ。だとしたら原始時代から社会は発生せず、したがって文化も歴史も生まれなかった。

正義を邪魔もの扱いする現代社会

その大切な正義など捨ててしまえというのが現代社会だ。現代社会は経済のために動いている。経済成長が何よりも大切であり、経済成長を損なうもの、経済生産に関与しないものはすべて取り除いてしまおうとする。アダム・スミスから始まった市場経済の原理である。その経済成長には、すべての人々が他人を配慮せず自己利益の最大化に務めることが大切とされている。その極端が現在の新自由主義で、利己主義追求の自由が他のいかなる自由よりも優先される。利己主義追求のためには、他人の人格を無視して道具のようにこき使い、他人を蹴落とし、他人の幸福を奪い、自然環境や資源のような本来公共の財産ですら、勝手に私物化する自由を許す。自由とは、あくまでも他人を損なわない限りの自由でなければならないという原則を忘れているのである。
 利己主義追求の効率化のためには競争が第一だと、人々は一生を通じて激しい競争に駆り立てられる。それに意義を唱える者に対しては、人の性は悪なりと言った性悪説を持ち出し、それが人間の本来の姿だと悟ったような言い方をする。それに少しでも抗議すると、未熟者、社会知らずと言って軽蔑する。
 正義を排除し、一人ひとりの人権尊重より他人を損なう自由を優先することによって利益を得るのは、弱い者を傷めつけて富と権力を独占する強者だ。現在、強者の頂点に君臨するのは億万長者である。かれらは経済力によって政治まで支配し、ますます自分たちに有利な政策を要求する。こうして、人口のわずか1%が世界の富の過半数を占有する格差社会、不平等社会に至った。

民主主義以前の職場
 現在、正義の社会がどこにも存在しないように、真の民主主義社会も存在しない。職場は家庭と並んで最も大切な人生の場だ。人が働くのは収入のためだけでなく、仕事そのものの中に生きがいを求めるからである。仕事のやりがいを左右する大きな要素は、何を、どこで、如何に生産し、生産物を誰に販売し、利益をどのように配分するか、といった仕事の経営に関する決定権を自ら持つことである。だが現在は、私企業でも公営事業でも、経営権は投資者(株主)が認めた極めて少数の経営者が独占し、そこで働く大部分の就業者には、経営の決定に参加する権利は一切認められていない。従業員はすべて同じ事業目的を持った共同生産者だからコストではあり得ないが、実際は人格のない労働力として、他の生産機械と全く同様に扱われる。利益は経営者がお手盛りで勝手に分配し、労働者に対しては人件費あるいは賃金という名のコストとして最小限に抑えられる。
 職場では上位絶対制がしかれ、上司は部下を人間として下級であるがごとく命令口調であれこれと細かく指示し、命令に従わなければ解雇、減給その他の報復が待っている。職場の人間関係は封建時代、専制君主制時代をそっくりそのまま継承している。政治的な形の上では現在は民主主義の時代とされ、そう思っている人が大部分だが、その実、真の民主主義とは程遠く、どちらかといえばまだ封建時代に近いと言っても良いくらいだ。職場の民主化なしには真の民主主義社会はなく、職場の民主化のためには、Worker Cooperative (労働者協同組合と訳されるのが一般的だが、ここでは労働者共同経営としておく)がふさわしい。すべての労働者が同時に企業の共同所有者であり、共同経営者である。労働者共同経営は、スペインやイタリアを中心に世界に広まりつつある。

正義のない社会は必ず滅びる

億万長者の得た富は、決して、かれらの努力と才能だけによるものではない。強者に有利な社会の仕組み、金持ちに金が集まる仕組みにうまく乗っかっただけで、才能も努力も彼らとほとんと変りない他の大多数を犠牲にしているだけに過ぎない。社会の要である正義をないがしろにした現在の社会が永続する筈はなく、既に自己崩壊の兆候を見せている。先進国の経済成長策はどれもこれも一向に効果なく、格差は拡大するばかり。正義や良心がバカにされる現在は、人間の歴史から見ても最低の時代と言える。
 技術の恩恵が正義を軽視する損失を補って余りあると考える人がいるかも知れない。だが、今の技術は人のためより金のため、人々に一層の浪費を促す手段に過ぎなくなった。エコ技術を始め、技術には嘘が多い。過剰な技術がますます自然環境の持続可能性を損ない、人々に不安を与え、技術から取り残された多数を産んでいる。それに、現在の技術社会は化石燃料や金属類と言った有限資源の大量消費に依存する大量消費社会の上に成り立っており、今後何百年も続かない。本当に人の役に立つ手頃な技術製品でさえ、いずれは自由に使えなくなる可能性が高い。正義の社会は永遠だが、技術社会は永遠でないのである。

いまこそ正義を叫ぼう

現在の人類が最も必要としているの正義である。躊躇なく堂々と正義を唱えることができる社会である。正義さえあればどんな貧しさも大抵は周囲の人達と共に我慢できる。他人を思い、他人と協力し、喜びや悲しみを共有することこそ、人間の最大の幸福だ。個人的行動にせよ、集団的行動にせよ、真っ先に正義にもとることがないかどうか慎重に検討した上で実施する社会にしよう。
 現在すでに、非常に多くの人々が正義のために、あるいは社会の悪を正そうと活躍している。様々な社会運動やボランティア活動に参加し、企業や政府の悪徳に対する抗議行動を起こしている。彼らは表立って「正義のため」という看板を掲げはしないだろうが、やっていることはまさしく正義のためであり、彼らの真の望みは正義が通るの社会なのだ。
 彼らには、自分の活動目的が正義であることを強く自覚し、遠慮せずに、もっと堂々と正義を口に出してほしい。社会問題を社会問題として取り上げるマスコミは、その問題を解決するのは正義のためだとはっきり言おう。みんなが正義を口にするようになれば、正義に基づいた行動が何より大切だという理解が社会全体に広がってゆく。逆に、他人を犠牲にしてはばからない利己主義的な行動や富の不当な独占を恥ずかしいと思う人が増えるだろう。

正義は強制してはいけない
ただし、正義は人に強制していはいけない。正義も良心もあくまでも自発的でなければならず、どんなに善いことでも、強制した途端に正義ではなくなる。

更に詳しくは
縮小社会研究会論文集第2号(2018年3月)に、「縮小社会と民主主義」という表題で、上記に関連連したことを更に詳しく論じている。ぜひ参照して頂きたい。
 縮小社会研究会HP http://shukusho.org
 当論文のURL http://shukusho.org/data/Journal/No.2/2ishida.pdf
 なお、上記論文の入力ミスを以下に訂正します:
  ・6ページ (2)節 末から2行目 非必然的→必然的
  ・7ページ 13行目 事故負担→自己負担

■2018年4月6日
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  1. 2018/04/06(金) 15:38:45|
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自動運転車のパラドックス

自動運転車の公道での実証実験が行われている。速度は10〜20kmh以下。センサーで不意の事態に対応して安全を保つためには、とりあえずこれ以上の速度では危険だと思われるからだろう。

しかし、もともと、なぜ自動運転車が期待されるようになったのか。それは、安全性を高めるためだ。発端は、普通の手動運転者でも、何か障害物に衝突しそうになったら自動的にブレーキがかかって停車させることから始まった。その後、自動運転車の開発が盛んになるにつれて、人手不足対応の荷物運びやタクシーへの応用が大きく取り上げられるようになった。しかし、原点はあくまで安全性の向上にある。

手動運転より安全である筈の自動運転車の最高速度が手動運転車の制限速度よりかなり低い20kmh以下ということは、大きなパラドックスである。これは、現在の手動運転車の制限速度が著しく危険なほど高いということを意味しており、自動運転の実験を20kmh以下に設定した開発者も、それを支援している国交相も、潜在的にそういう認識があることを示している。潜在的とは言え、そういう認識があることは、現在の公道での制限速度は非常に危険な高さに設定されていることで、これもまたパラドックスと言える。

自動運転車の最高速度を、今後の技術開発でもっと上げられる、少なくとも現在の車の一般的な巡航速度程度まで上げられると開発者は思っているかも知れない。開発を続けることまでダメだとは言わないが、実用車としての実現はおそらく不可能だろう。センサーは人間の感覚より鋭い点も多いが、人間に及ばない点も多い。人間の感覚は、ある点ではセンサーほど感度が高くなくても、全てを総合して捉える能力がある。センサーではまだ危険と判断しなくても、人間なら危険を予測できる場合もあろう。とっさの事態への対応も、自動運転ではできないが、人間ならできる。自動運転を人間に近づけようと思えば思うほど、システムは複雑になり、故障やエラーも起りやすい。それに、運転手がいない大きな自動車が高速で走ってきたら、人間は恐ろしくて同じ道を歩けなくなる。

現在は、交通事故の責任をメーカーが問われることはない。誰でも犯す簡単なミスや不注意から命にかかわる重大事故を起こすような製品は、自動車以外だったらメーカーが責任を問われる。だが、自動車だけは例外で、交通事故の責任はすべて使用する側とされる。しかし、自動運転車ではそうはゆかない。適正速度を設定するのはメーカーだから、自己の責任もメーカーが取らなければならない。そうすると、メーカーは、できるだけ安全側をとって、自動運転の速度を低く設定するだろう。

自動運転車が実用化されれば、公道は普通の自動車と混在する。遅い自動運転車の後ろについた普通の車の運転手はイライラして追い越したくなるだろう。中には無理に追い越そうとするする者も必ず現れる。自動運転車の数が増えると、そんな場面が至る所に生じ、道路は現在よりはるかに危険になる。これでは、自動運転の意味がない。

自動運転を普及させたい側は、そういった危険を避けるため、従来車の制限速度を自動運転車なみに下げざるを得ない。だが、もしそれが理にかなっているのなら、自動運転車のない現在でも、制限速度を下げることが更に理にかなっている。前述したように、もともと現在の制限速度は高すぎる。歩行者や自転車と共用する道路や生活道路では、自動運転車と同じように「瞬間に止まれる速度」つまり高くても15kmh以下程度まで抑えるべきではないかと思う。「気をつけよ、クルマは急には止まれない」は、人間より自動車優先のもってのほかの標語だ。現在の高い制限速度は、歩行者や自転車の安全・安心より自動車を優先させる、言い換えれば高価な商品である自動車に乗った人間の便利を優先させる方策なのである。

自動車の制限速度をそこまで下げれば、もっと小型化、簡素化した自動車でよく、自動運転車より安全で、省人化目的以外には自動運転車は要らない。資源や環境の負担軽減にも良い。

自動運転車が公道を走り始めると、必ず手動運転車との混在の問題が大きくなるだろう。速度を落として自動車の流れを悪くしたくない立場からは、自動運転車に反対する声も上がるだろう。公道で混乱が生じ、結局は自動運転車の導入を諦めることになるかも知れない。■
2018年1月9日
  1. 2018/01/09(火) 14:04:59|
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自動運転電気自動車の矛盾

最近のマスコミを見ていると、将来は自動運転/電気自動車の時代にすることが世界共通の目標になっているようだ。①化石燃料を消費しない、②環境を汚さない、③安全走行、④運転が楽で快適というのが、その効能書きだろう。しかし、こんな社会は、技術狂いが夢見る、人間を忘れた馬鹿馬鹿しい技術の一人歩きである。少し冷静に考えてみれば、自動運転も電気自動車も、上のどの目標をも満たすどころか、却って問題を大きくし、持続可能な社会の庶民の交通手段になり難いことはすぐわかる。その矛盾点をいくつか挙げてみよう。

電力をどうするのか。太陽光発電や風力発電が量的に賄いきれないことは明白。その理由は本ブログでも度々書いたので、ここでは省略する(注)。結局は大量の化石燃料か原子力依存になる。環境と自然資源への負担は却って増えるだろう。
(注)例えば
・電力で化石燃料の代替はできない 2015年8月10日
・代替エネルギーは問題を解決しない 2014年11月16日
・再生可能エネルギー100%の社会 2013年2月16日

大きな蓄電池を含めると、自動運転電気自動車は大量の金属資源(希少金属も多い)を使い、重量も大きく、従って生産に膨大な化石燃料を要し、価格も非常に高い。一人当たりGDPが今よりはるかに大きな豊かな社会でなければならない。

しかし、価格が高いということは、仮に購買力が伴ったとしても、結局は化石燃料の高消費に結びつく。化石燃料消費削減のために電気自動車の世界的普及が可能と考える前には、化石燃料消費とGDPとは全くの無関係であることを証明する必要がある。しかし、その証明は、永久機関の発明と同じように、自然法則に反するだろう。直感的に考えても、物の生産経費は何か消費されるものの量を反映している筈だ。何も消費されなければ経費はゼロだから、希少でなければ無料である。太陽や風力エネルギーはいくら消費しても無料だから、消費されるものとは、化石燃料または人力エネルギー(食糧)のいずれかである(物質消費もエネルギー消費に帰する)。現在の消費エネルギーは人力に比べて化石燃料が圧倒的に多い。したがって、高価格は化石燃料の高消費と無関係ではない筈だ。太陽光発電に金がかかるのも、化石燃料を大量に消費していることの一つの証だろう。

自動運転を推奨するのは、手動運転より安全だという仮定があるからである。手動運転でも、危険な場合に自動的にブレーキがかかるなど、手動運転を補助する安全対策ならまだよい。だが、完全な自動運転の方が安全だという仮定は正しいだろうか。おそらく、その反対だろう。

安全第一のための自動運転なら、歩行者と混在する道路では極めて遅い速度、何が起ってもほぼ瞬間的に停まれる速度、すなわち、歩行者とそれほど違わない速度に設定しなければならないだろう。だが、それなら、自動運転でなくても、速度制限を歩行者程度まで低くし、自動車自身もそれに合わせて低性能、小型化する方がより安全だし、資源・環境への負担は格段に下がり、価格も安く、子供や老人でも運転できる民主的な乗り物になる。わざわざ複雑な自動運転にする必要は全くない。

歩行者と混在する道路で運転者がハンドルから手を離した状態、運転席から離れた状態の車が走ってきたら、歩行者は非常に恐ろしく思うだろう。却って安心して歩けない。バスや宅配のトラックなど、大きめの自動車だったら尚更だ。

国土交通省が作った自動運転車の安全基準では、65秒以上ハンドルから手を離していたら、自動的に手動運転に戻さなければならないことになっている。これは、自動運転といえども、手放し運転の危険を国土交通省自らが認めていることになる。当然である。

ハンドルから手を離して自動運転している間に65秒経って自動的に手動運転に戻ったら、それこそ危険である。国土交通省の安全基準の矛盾。

だが、自動運転に頼りながら前方に注意してハンドルをしっかり握っていなければならないのは、手動運転より却って神経が疲れるだろう。自動運転に慣れれば、運転技術は衰え、とっさの場合の操作ができなくなる。却って危険。
歩行者がいる道路では、自動運転中の車の速度は、極めて低くなるだろう。そこへ、自動運転を解除した手動運転の車が来たらどうなるか。手動運転の運転者は、自動運転車のノロノロ運転にイライラして、危険な追い越しなど図るかもしれない。却って危険が増す。

歩行者と区別がない道路を自動運転車が走るという発想自体、極めて無責任でいい加減なものである。完全に自動運転に頼れるのは、自動車専用道路しかないだろう。それでも、安全速度はかなり低くなる筈である。また、自動運転に任せて安心していたら、とっさの場合は対応できない。自動運転の高速走行では、運転者は一層注意をする必要があるだろう。

自動車の楽しみの一つは自分で車を動かすことにある。自動運転ではその楽しみはない。
自動運転は電磁波依存である。世の中に多様な電磁波が溢れ、今後も増え続ける。つまり、何かの電磁波が自動運転システムに影響したら非常に危険であり、その可能性は非常に高い。犯罪やテロで妨害電磁波が発射される危険も増す。
太陽光/風力発電や自動運転電気自動車が世界中に普及した社会を想像すれば、それは現在以上の金属社会、物質社会、工業社会である。現在より環境負担が増えこそすれ、減ることは絶対にない。化石燃料社会でない限り、そのような金属社会、電力社会ではあり得ない。

自動運転電気自動車の時代を夢見ることは、人間を忘れ、自然法則を忘れて、技術を神と崇める技術宗教の信仰に過ぎない。環境破壊も資源多消費も自動車事故も技術がもたらした問題である。技術が生み出した問題を、従来と全く同じ技術観(技術信仰)で解決しようとすることが無理な話で、より解決困難な新しい問題を産むだけである。今後は、ますます複雑な技術に依存することよりも、技術に捉われた人間の魂を取り戻すことが大切で、それ以外に問題を解決する方向はない。

環境負担の軽減と安全向上のためには、複雑で資源多消費の自動運転電気自動車でなく、自動車の小型化、低速化(歩行者のいる道路では歩行者並の速度に制限)、あるいは、自動車専用レーンのない道路から自動車を締め出す以外にない。自動車の諸悪の根源は高速性、快適性を求めることにある。特に高速で走れることは、益より害の方が遥かに大きい。■
2017年11月24日
  1. 2017/11/24(金) 15:12:37|
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米国のパリ協定離脱表明が示唆していること

アメリカのトランプ大統領が6月1日に温室効果ガスの削減に関するパリ協定からの離脱を表明したことで、早速、各方面からの非難と抗議の声が上がっている。
世界第二位の炭素排出国であり、過去に排出されて残っているCO2の大きな部分を占めている米国が、排出削減に後ろ向きの姿勢を取るのは、確かに問題だ。しかし、ただトランプ大統領を非難するだけでは、大切なことが抜けている。

トランプ大統領のパリ協定離脱の理由は、自国の石炭産業を守るといった、環境より経済を優先することにもあるが、パリ協定は不公平と思っていることにもある。各国が公平なら、環境のために経済を多少は犠牲にしてもよいが、不公平である限りそれはできない、ということだろう。

彼が不公平としている理由は、世界最大の排出国である中国の削減目標が、米国に比べて甘すぎることである。中国は京都議定書では、排出削減の義務が全くなかったから、義務付けられたパリ協定は進歩ではあるが、まだ十分とは言い難い。

パリ協定による温室効果ガス削減義務は、先進国は:
 ・米国 2025年までに、2005年比26-28%削減
 ・EU 2030年までに、1990年比40%削減
 ・日本 2030年までに、2013年比26%削減
などとなっているのに対し、
 ・中国 2030年までに、2005年比で単位GDP当り60-65%削減
 ・インド 2030年までに、2005年比で単位GDP当り33-35%
となっている。中国やインドの削減目標が、排出総量でなく、単位GDP当りなのがミソである。

世界経済ネタ帳によると、中国のGDP(実質)は、2005年が28.1兆元であったのに対し、2016年は74.6兆元と、すでに2.6倍にもなっている。さらに、第十三次五カ年計画では、2020までに一人当たりGDPを2010年(47.9兆元)の2倍に増やすと言っているから、人口が今以上に増えないとしても、2020年には95.8兆元となる。経済成長をそれで止める積りはないだろうから、その後2030年までの10年間でさらに年2%の成長が続くと仮定すれば、2030年のGDPは、117兆元となる。これは、2005年の4.2倍である。

つまり、中国が2030年までに単位GDP当りの炭素排出量を65%削減しても、GDPが4.2倍にも増えるから、炭素排出量は1.5倍に増える。中国は既に世界最大の炭素排出国であり、途上国といっても金持ちが増え、自家用車を持ち、先進国並みの生活をしている人が多い。それが人口の1割しかいないとしても、既に日本の人口に相当し、英独仏の人口より多い。2014年末の乗用車保有台数は、日本の6000万台に対して、中国はその倍の1億2000万台にも達しているから、実際は日本の人口以上が先進国並みの生活をしていると考えられる。それなのに、途上国だという理由で排出量の増加を認めるのは、やはり不公平感を免れない。途上国の甘い規制で得をしているのは、途上国の金持ち連中なのである。

それでも、一人当たり排出量からすれば、2030年の中国でも、まだ先進国より少ないから、中国の削減目標が緩いのは不公平には当らないという意見もあるだろう。しかし、人口が多いのも、人間の責任が全くないわけではない。毛沢東時代には、人間こそ最大の生産力として、産めよ増やせよの政策をとった。子孫の多い事は繁栄であるという単純な思想から、自然環境の容量もわきまえずに勝手に人口を増やしてきたのは人間であって、天が与えた偶然ではない。人口が多い事に対しても、そこまで増やしてきた人間が責任を取るのが当然である。日本も、現在は少子化、人口減少と言って、重大問題であるかのように騒いでいるが、もともと、日本の国土に対して1億2000万人は明らかに多過ぎる。江戸時代の人口は3000万人程度で、それ以上にならないように、大変過酷な管理をせざるを得なかった。江戸時代よりも肉食が多い現在は、3000万人でも自給自足は無理かも知れない。今は外国から食糧や資源を輸入しているが、いずれ、それが不可能になれば、自給自足できる人口まで減らさなければならない。その責任は日本人自身が取らなければならない。

途上国の排出規制が甘いことには、もう一つ別の問題がある。それは、甘い規制で経済的に得をしているのは、途上国だけではなく、国際企業だということだ。人件費が安いだけでなく、排出規制が甘いことでも生産コストが安くなり、それを目的に国際企業が生産拠点を途上国に移して、それだけ利益を増す。その利益は、結局は世界の億万長者に集まり、その悪影響は途上国も先進国も含めて一般庶民が受ける。温暖化防止条約が途上国優遇を続けるのも、国連そのものが国際企業や億万長者の意向を強く受けているからである。

トランプ大統領は億万長者の仲間だから、金持ちが得をする現在の世界状況を根本的に変え、本当に人民の、人民による、人民のための政治を志しているとは思えないが、彼の、一見暴挙と思える政策には、事の本質を考えさせる要素もある。ただトランプを非難するだけでなく、これを機会に問題の本質を考え直すことが必要だろう。■
2017年6月3日
  1. 2017/06/03(土) 16:22:33|
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ルペン氏は本当に極右・排外主義か

フランス大統領選挙の候補者ルペン氏は、日本の報道では必ず極右、排外主義といった枕詞がつけられている。決選投票で中道派と言われるマクロン氏がそのルペン氏を破ったことにより、一斉に安堵したような記事が多い。

だが、彼女の選挙公約は
 ・自国第一;
 ・移民の制限、不法移民の送還、外国人労働者への課税;
 ・EUからの離脱;
 ・自由貿易の制限、国内産業およびフランス人労働者の保護;
 ・法人税(現行33%)の引き下げ(中堅企業24%、小企業15%);
 ・国防費増額、警察官増員;
などとなっている。どうしてこれが極右、排外主義なのだろうか。

軍国主義時代の日本やナチスは極右であった。その極右たる所以は:
 ・自国民を世界で最も上等な人間とし、外国人を蔑む;
 ・国内では政権を絶対化し、国民が国家のために命を捧げることを強制する;
 ・自国民を警察力で監視し、政権の批判を許さない;
 ・自国の利益のために外国を犠牲にすることを厭わない;
 ・武力によって領土を広げ、侵略し、資源を略奪せんとする。

ルペン氏も、同じように極右と言われているアメリカのトランプ大統領も、上のどれもあたらない。両者とも武力は重視しているが、武力で他国を侵略する意図があるとは思えず、両者でなくても武力はどの国も重視している。日本の政府でさえも、憲法に違反して武力拡張を図っている。自国第一は、看板に掲げるかどうかの違いだけで、どの国で同じだろう。自国より他国の方を優先すると公言している政府は世界中に一つもない。

自国の産業・企業・労働者を守るのは政府として当然のことである。自国の弱い産業や労働者が苦しんでいるのは、現在の経済全球化(グローバル化)が資本や低賃金の外国人労働者・移民を無制限に受け入れている結果だから、貿易制限や移民の制限をすることは、国の当然の権利である。これを排外主義だからいけないというのは、人や物や資本の移動のすべては完全に自由であるべきだというのと同じであり、それは、世界中から国境を無くし、民族や地域の文化や習慣の独自性をなくし、世界を完全に一つの国に同化せよということに等しい。だがそれは、地域や民族の個性を認めず、伝統文化、すなわち人間の歴史のすべての否定することで、本当に人道的・道徳的であり、人間のあるべき姿とは言えない。それによってすべての人間が最高の幸福を得ることができれば、それでも良いが、そんなことには決してならないだろう。

ルペン氏を極右・排外主義とするのは、自由貿易主義を最善とする思想から来ていると思われる。TPPなど自由貿易に反対する意見を保護主義という言葉で非難しているのも同じである。それは決して人道主義、道徳からではない。物や資本の移動の自由や移民・外国人労働者の無制限な受け入れによって、国際的な大企業と金融機関が利益を上げるからである。企業は安い外国人労働者を使い捨てでき、それによって、国内の賃金水準全体も下がる。物価水準が低く、環境規制や労働者・消費者保護の規制も緩い途上国に生産拠点を移すことで、一層大きな利益を上げられる。逆に、多くの庶民は格差拡大、賃金水準・雇用条件の悪化、失業、さらには福祉の削減という憂き目に会う。途上国もまた、豊かな国に資源を安く吸い上げられ、経済は先進国への依存を強め、一部の支配層だけが甘い汁を吸い、結局ははいつまでも貧しいままであり、外国への逃亡者を次から次へと生み出すことになる。物、資本、人間の完全自由主義は、人道主義とは反対である。

国際的大企業の保護ではなく、弱い自国労働者や自国産業の立場に立とうとしているルペン氏は、極右どころか、右翼とも言えないのではないだろうか。それより、憲法の武力禁止条項の廃止を目指し、教育勅語を正しいとし、国家や国旗という単なる飾り物へ敬意を強制し、秘密保護法や共謀罪法で国民の監視を強め、マスコミを抱き込んで言論の自由を制限し、武力の増強や派遣に人一倍熱心な安倍政権およびそれに近い日本の政治家たちの方が、よほど極右である。

ルペン氏やアメリカのトランプ大統領の言う自国第一は、自国の産業と労働者の保護という意味でしかない。日本の安倍政権もドイツのメルケル政権も、その本音は、もしかしたら自国第一ではないかも知れないが、そうだとしたら、自国以上または自国と同等に他国を尊重するからではなく、自国の弱き民より大企業や富裕層の保護を第一にするからだろう。

何でも全球化するのではなく、自国内の産業と労働者の保護を重視すると言い出したルペン氏がかなりの支持を集め、イギリスのメイ首相、アメリカのトランプ大統領がついに政権を得たのも、現代資本主義の状況がそこまで悪化し、もはや我慢できないと、多くの民衆が感ずるようになったからである。彼等の今後の政策には未知の部分が多く、いろいろと問題が出てくるかも知れないが、現時点では、現在の資本主義のあり方に大きな一石を投ずるもので、トランプ大統領の軍事の姿勢については、ちょっと危険を感ずるものの、仮に具体的な政策が弱かったり、万全でない点があったとしても、少なくとも、新たな時代の到来を告げる重要な出来事である。社会のあり方を根本から考え直す非常によい機会と考えるのではなく、この流れを封じ込め、あくまでも大企業や富者に都合の良い現状を維持しようとする日本のマスコミは、体制派を代弁するものでしかない。■
2017年5月9日
  1. 2017/05/09(火) 20:21:40|
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